1.「羊の囲い」のたとえ話
ヨハネによる福音書の中で、主イエスは、御自身のことを様々なものにたとえて、「わたしは○○である。」という言い方で語られました。他の人が主イエスを見て○○のようだと言ったのではなく、主イエス御自身が言われたのですから、これはイエス様ご自身による自己紹介のようなもので、イエス様が御自分はどのような者であるかを私共に教えようとしたものですから、イエス様というお方が一体どのような方なのかを一番良く示している言葉だと言って良いと思います。
今朝与えられております御言葉において、イエス様は二つの言い方で御自身のことを語っておられます。一つは「わたしは羊の門である。」、もう一つは「わたしは良い羊飼いである。」です。この二つの言葉は、どちらも1〜5節のイエス様が語られたたとえ話の中に出て来るものですので、まずこのたとえ話から見てみましょう。
こういうたとえ話です。「囲いの中に羊がいます。この囲いには門があり、この門を通って羊飼いは羊を連れ出します。しかし、盗人や強盗は門から入らずに囲いの中に入ります。羊は羊飼いの声を知っているので羊飼いに付いて行きますが、羊飼い以外の者には付いて行かず、逃げてしまいます。」という話しです。このたとえ話には、羊と羊の囲い、羊の囲いに出入りするための門、盗人と強盗、それと羊飼いが出て来ます。他に門番も出て来ますけれど、この門番については、何を指しているのかあまり考えなくて良いと思います。
まずは羊でありますが、これは私共と考えて良いでしょう。そして、羊の囲いですけれど、これはこの地方における羊の飼い方として、昼は放牧をしているのですけれど、夕方になりますと囲いの中に入れるという習慣から語られたものです。この囲いは、人が住む家に隣接した、かなりしっかりした小屋を考えていただいたら良いと思います。これは、狼などから羊を守るための習慣でした。羊はここに入っていれば安全なわけです。ですからこれは、神様の救いに与ることを意味していると考えて良いでしょう。そして、盗人と強盗ですが、これは神様の救いから羊を引き抜いて自分のものにしてしまう人のことであり、この文脈の中ではファリサイ派の人々のことを指していると考えられます。そして、この門と羊飼いが主イエスを指しているわけです。
2.わたしは羊の門である
主イエスは、9節で「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と明言なさいました。主イエスを通る者は救われるのです。ここで私共は、マタイによる福音書7章13節にある「狭い門から入りなさい。」という御言葉を思い起こすことが出来るでしょう。実に主イエスが「狭い門から入れ」と言われた門こそ、主イエス御自身であったということです。私共が救われるためには、主イエス・キリストという門を通らなければならない。つまり、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストの力と業とによらなければ救われないということなです。自分の力で良い人になって救われようとしても、それは出来ないことなのだということなのです。
ファリサイ派の人々は、律法を守り、その自分の正しさによって救われようとし、人にもそれを求めるのですけれど、それではダメなのだと言われたのです。それどころか、主イエスを信じることなく、自分の力と業、信仰心といったもので救いに与ろうとする人や、それらを人にも求める人は、盗人であり強盗だとさえ言われたのです。この主イエスのたとえは、9章34節にあるように、主イエスによって目が見えるようになった人が、主イエスを信じたことによってユダヤ人たちの交わりから追い出されたという出来事に対して語られたのだと思います。ファリサイ派の人々は、律法を守ることによって救いに与るというところに立っておりましたから、安息日に目を見えるようにするといういやしの御業を為した主イエスを律法違反者と見なし、そのような者を「預言者」「神様のもとから来た者」と信じるこの人を追い出したのです。それに対してイエス様は、このようなことこそ、本来救いに与る者を神様の救いから閉め出してしまうことであり、人を神様の救いから盗み出して自分のものとしてしまう、とんでもない行為なのだと告げられたのです。
主イエスこそ私共が神様の救いに与る門なのです。この門以外に、神様の救いに与る道はないのです。この「門」ということで告げられているのは、救いに与る上での主イエスの排他性、主イエスの独占性と言って良いと思います。救いに近づく道が幾つもあったとしても、本当に救いに与るためには「ただ一つの門である主イエス」を通らなければならないのです。私共の熱心も、私共の善良さも、私共の良き業も、私共が救いに与るには何の役にも立たないのです。神様の救いに与るには、ただ主イエスを信じ、主イエスにより頼む以外に道はないのです。ですから、主イエス以外のものに頼ることを勧める者は、神様の羊を盗もうとする盗人であり強盗なのだということなのです。このことが、次の主イエスが羊飼いであるということへと繋がっていくのです。主イエスにより頼み、主イエスにお従いしていくしか救われる道はないのですから、神様の羊は、主イエス以外の者の言葉には従わないのです。そのことが、主イエスだけが私共をまことの救いへと導いてくださる羊飼いであるということに繋がっていくのです。
イエス様は門なのか、羊飼いなのか。一つのたとえ話の中で両方だと話がよく分からないと感じた方もおられると思いますが、このように、門と羊飼いというのは、その内容において結びついていることなのです。主イエスを信じることによってしか救われない。だから、主イエスの導きにしか従わないということなのです。
3.わたしは良き羊飼い
主イエスを信じ、主イエスに従うということは、羊が羊飼いの声を知っており、その声だけに従うということなのだと、このたとえは語っています。このことがとても大切なのです。この地方における羊は、いつも危険と隣り合わせでした。羊は目がよくありませんので、目の前のものしか見えません。目の前の草を食べることに夢中でいると崖から落ちたり、あるいは一匹だけ群れから離れてしまえば迷ってしまいますし、狼や獣に襲われてしまいます。羊飼いは、あらゆる危険から羊を守るために、羊一匹一匹に名前を付け、いつもどこにいるのか見張り、危険な所に行きそうになれば声をかけて連れ戻すのです。羊飼いは、自分の羊に対して独特の声で指示を与えるのです。羊は自分の羊飼いの声を知っており、その声だけに従うのです。それだけが自分の命を守るただ一つの手段であることを知っているからです。
この羊飼いの姿は、旧約においても、神の民を守る神様の姿と重ねて語られてきました。イザヤ書やエレミヤ書やエゼキエル書などにもありますが、何と言っても有名なのは、先程お読み致しました詩編23編でしょう。この詩編において、羊飼いとしての神様と、羊としての私共の関係がよく示されています。
詩編の23編は、神様と私共の関係、神様の守りの中に導かれる私共の幸いを歌い上げています。そして、この詩編は、主イエスの「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)との御言葉によって、更に明確なイメージが与えられたと言えると思います。羊飼いは、私共を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴ってくださいます。死の陰の谷を行くときも共にいてくださり、私共を守り、力づけてくださいます。羊飼いは、私共を守るために、私共に平安を与えるために、御自身の命を捨ててくださり、まさに命がけで私共を守り、導いてくださるのです。私共は、神様の守り・支え・導きというものを、全能の神様のことだから、苦もなく易々とやってくださっていると思ってしまう所があるのではないでしょうか。確かに、神様は全能であられます。しかし、その全能の神様が私共を救いに至らせるために執られた手段は、御子を十字架にお架けになるという、まことに痛ましい手続きによったのです。ここに愛があります。主イエスが良き羊飼いであるというのは、羊のために命を捨てるという、まさに命がけの愛をもって御自身の羊を守り、導いてくださったからなのです。このことを知った私共は、どうしてこの良き羊飼いである主イエス以外の声に従うことが出来るでしょうか。
4.教会を誤って導く偽装した主イエスの声
しかし、教会の歴史を見てみますと、教会の中に主イエスの声以外のものが入り込み、まるで主イエスの声であるかのように偽装して教会を導くということがしばしば起きました。それは、その時代の思想であったり、その時代の権力者の声であったりしました。そしてそれは、いつも教会を間違った道に導いたのです。
具体的に見ればすぐに分かります。最近では、マルクス主義が現代の福音だと声高に叫ばれた時がありました。ほんの数十年前のことです。幸いなことに富山地区の諸教会はほとんどその影響を受けませんでした。当時の富山地区の牧師たちが、主イエスを偽装した声を見破り、羊を守ったからです。しかし、東京・大阪・京都・神戸など都会の諸教会は深刻な影響を受けました。日本基督教団はまだその後遺症から抜け出していないと言わざるを得ません。そしてその前は、民族主義が福音だと叫ばれた時があったのです。ユダヤ人の歴史である旧約は要らない、代わりに日本書紀や古事記を読めというわけです。もちろん、すべてのキリスト者がそのような声に同調したわけではありません。しかし、多くの人がそれに同調しました。
私共は、主イエスの羊なのであって、それ以外の声に聞き従ってはならないのです。主イエスの羊は、羊飼いである主イエスの声を知っているのです。14節に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知ってる。」とあります。私共は、私を救ってくださった主イエスを知っている。主イエスを知り、主イエスを愛している。それは、頭で知っているというようなことではないのです。自分のために十字架に架かってくださった方として知っているのです。この方を裏切ることは出来ない。そういうあり方で知っているということなのです。頭で知っている人はだまされやすいものです。羊が羊飼いを知っているというのは理屈ではありません。羊は、いつも一緒にいて、いつもの独特の声で導いてくれ、盗人や狼と戦って守ってくれる姿を見ているのです。
5.羊飼いである牧師
この箇所は、しばしば牧師の就任式において読まれる所です。牧師とは、ただ独りの良き羊飼いである主イエス・キリストの御業にお仕えし、主イエス・キリストの羊を羊の囲いの中へと、神の国へと、養い導く者です。そのような牧師に求められることは、良き羊飼いに倣って、羊のために命を捨てることです。まことに厳しい務めであります。誰がそのような務めに耐えられるかと思います。ここで大切なことは、牧師自身もまた、主イエスの羊であるということです。自分自身が主イエスの養いと導きに生かされている、この恵みの事実の上にしか、牧師の務めが果たされることはありません。
そして、牧師に求められていることは、イエス様の羊を神の国に養い導くことであって、主イエスの羊を自分の羊にすることではないのです。牧師が告げることは、何よりも主イエスの御声に従うという一点において生かされ、生きている者として語られるのでなければならないということなのです。ですから、牧師の個性や能力にばかり目が向けられるようであってはならないのです。牧師の個性や能力によって教会が建つことはないのです。そうではなくて、牧師と教会員が、共に同じ主イエスの御声を聞いて、これに従って生きる。ここに、主イエスの羊の群れとしての教会が建っていくのです。
6.この囲いに入っていない羊を導く
さて、主イエスは御自身が良い羊飼いであると言われた後に、16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と言われました。この「囲いに入っていないほかの羊」とは何を指しているかと言いますと、異邦人のことであります。ファリサイ派の人々は、ユダヤ人は神の民であるが、異邦人は囲いの外にあって、救われることのない人々だと理解しておりました。しかし主イエスは、ユダヤ人のほかにもわたしの羊がいる、その羊も導かなければならないと言われたのです。そして、その御言葉の通り、私共もこのように救われたのです。
更に主イエスは、「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と言われました。これは、主イエスの羊の群れであるキリストの教会が、一つの群れになるということを語られたのだと思います。現在、私共の教会は日本基督教団に属しています。そして、日本には何百という教団、教会があります。世界に目を向ければ、何千、何万という教団、教会がある。私共は、確かに組織としてはそれぞれの教会は別々だけれども、キリストの教会は一つしかないと考えています。それが、キリストの体なる公同の教会というものです。その証拠に、私共の教会では、他の教会で洗礼を受けた方が転入される時、もう一回洗礼を受けるということはしないのです。何故かというと、父・子・聖霊の御名によって受けた洗礼によって、その人は既にキリストの体なる公同の教会の一員になっているからです。だから、もう一回洗礼を受け直す必要はないと考えているのです。
キリストの体なる公同の教会、つまりただ独りのまことの羊飼いである主イエス・キリストに導かれている羊の群れは、一つしかありません。今までも一つしかありませんし、これからも一つしかないのです。しかし、現実に組織としては別々である。これを一つにするというのは、世界中の国が国境をなくして一つの組織体としての国家になるのと同じくらい難しいことでしょう。しかし、主イエスが再び来られる時、それらの組織そのものが無意味なものとなりますし、その時には一つの群れとなるのだろうと思います。日本基督教団というのは、30余派の教会が合同して生まれました。先の戦争という時代背景の中で一つにさせられたという歴史はありますけれど、主が来られた時に一つとなる、その終末的希望の中での歩みであったという面も忘れてはならないと思います。
主イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われました。この主イエスの御業にお仕えするのが私共の為す伝道ということなのです。まだ神様の救いに与っていない、囲いの外の羊がいるのです。この羊を囲いの中へと導かなければならないのです。それが先に囲いの中へと導かれた私共に与えられている使命なのです。
私共は主イエスの羊です。主イエスという門を通って神様の救いに与る者です。ですから、私共は主イエスの御声だけを聞いて歩んでいくのです。富や名誉やプライドを刺激するような、こっちの水は甘いぞというような、誘惑の声が聞こえてくることもあるでしょう。しかし、私共はそのような声には従わないのです。それに従えば、滅びに至ることを知っているからです。
[2012年1月15日]
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