1.神の業=主イエスを救い主として知る
9章の初めから続いていた、生まれつき目の見えない人が主イエスによって見えるようにしていただいた出来事の結末が、今朝与えられた御言葉です。この出来事は、道端に物乞いをするために座っていたこの人を見て、弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と主イエスに尋ね、主イエスが「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになったところから始まりました。主イエスは「この人に神の業が現れるためだ。」と言われた後、この人の目が見えるようにされました。ですから、この「神の業が現れる」とは、この人の目が見えるようになるという奇跡を指している、と一応考えることが出来ると思います。しかし、ヨハネによる福音書の特徴に、一つの言葉にいくつもの意味を持たせて記すということがありまして、ここでもこの「見える」「見えるようになる」ということは、単に肉体の目が開かれるということだけを指してはいないのです。そのことが、今朝与えられた箇所にはっきりと示されております。そしてそのことを考えますと、主イエスが告げられた「神の業がこの人に現れる」という出来事は、肉体の目と共に霊の目が開かれることであり、主イエスを救い主として知る、神様として拝むということだったことが分かるのです。
2.先行する神様の恵みの御業
先週見ましたように、この目が見えるようになった人は、ファリサイ派の人々の前で取り調べを受けました。「どうして見えるようになったのか。」から始まりまして、「お前はあの人(=目を開けてくれた主イエスのこと)をどう思うのか。」と問われます。この人はそれに対して、17節では「あの方は預言者です。」と答え、33節では「あの方は神のもとから来られた」方だとはっきり答えています。そんな答え方をすれば大変なことになる。この人はそれも分かっていたと思います。この人の両親はそれを恐れて、「本人に聞いてください。」と答えを逃げたわけです。しかし、この人は逃げません。まさに堂々と、自分の目を開けてくれた主イエスに対しての信仰を言い表したのです。それは、目が見えなかった自分が今は見えるようになった、この主イエスが与えてくださった恵みの事実を否定しようがなかったからです。ここに、私共の信仰というものがどういうものであるのかが、はっきり示されていると言って良いと思います。
まず主イエスによる恵みの御業があるのです。それをしっかり受け止める。そこで主イエスに対しての信仰が与えられるということなのでしょう。これは旧約の時代から同じです。出エジプト記の20章においてイスラエルの民に十戒を与えられ、神様との契約を結ぶわけですけれど、この十戒が与えられる前にイスラエルの民は海の奇跡を初め、数々の神様の救いの御業を体験しているのです。その恵みの御業が前にあって、十戒を与えられたのです。十戒を与えられ、それを守ったのでイスラエルの民は奴隷の地から救い出されたのではないのです。まず、数々の不思議な神様の御業によるエジプトの地からの脱出があるのです。その上で、神様は十戒による契約を結ばれたのです。
この主イエスによる恵みの御業というものは、人によって千差万別です。この人のように、目が見えるようになるといった奇跡とでも言うべき出来事に与った人もいるでしょう。自分自身、あるいは自分の家族、愛する人がそのような出来事に与ったという人もいるかもしれません。
私の前任地に永田長老という方がいました。この方は先の大戦で召集され、南方戦線に送られました。島の名前は忘れましたが、同僚の兵隊がマラリアなどでバタバタと倒れていく中で、自分もマラリアにかかった。熱でがたがたと震えながら、「助けてください。」と神様に祈った。そして、「もし本土に帰れたら、自分の生涯は神様にすべてささげます。」と祈った。そして、永田さんは奇跡的に熱が下がり、マラリヤが治って、まさに九死に一生を得て戻って来たのです。永田さんは、故郷の舞鶴に帰って来て、生涯この神様への誓いの祈りに忠実に生きました。小さな教会です。若い牧師が来ては、数年で代わっていく。そういう教会でこの方は戦後ずっと長老を務め、教会学校の校長を務め、会計をやり続けました。高齢になり施設に入っても、天に召されるまで車イスで礼拝に集い続けました。私は、牧師としてこの方に育てていただいたと思っています。主に仕え教会に仕えるとはどういうことなのか、身をもって教えていただきました。
もちろん、誰もがそのような奇跡的な恵みの出来事に出会ったわけではないかもしれません。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、私が出会ういかなる奇跡にも増して、私のために為された圧倒的な神様の恵みの御業でありましょう。主イエスの十字架は誰のためか。私のためです。主イエスの復活は誰のためか。私のためです。ここに教会が建っているのは誰のためか。私のためです。ここに聖書があるのは誰のためか。私のためです。神様は、かくも私を救わんがために、恵みの御業をもって取り囲んでくださっているのです。私共は、驚くばかりの神様の恵みの御業に囲まれているのです。しかし、それが見える人と見えない人がいます。
イエス様は、私が神様を信じたから十字架にお架かりになったのではない。イエス様は、神様なんて関係ない思って生きていた私のために、十字架にお架かりになったのです。神様の恵みの御業、救いの御業が先にあるのです。私共はただ、その御業が私のためであることに気付くだけです。そして、それに気付いた時、主イエスは「私の主」となる。この「私の主」を拝み、愛し、お仕えするのが、私共の信仰の歩みなのです。
3.あなたは人の子を信じるか
さて、この目が見えるようになった人は、ユダヤ人の会堂から追い出されてしまいました。これは、ユダヤ社会からの追放を意味します。村八分のようなものです。主イエスの恵みの御業に与り、主イエスをひるむことなく証ししたが故にそうなってしまった。主イエスの救いに与るというのは、単純に良かった良かったでは済まないのです。しかし、そのような状況に陥ったこの人を、主イエスはもちろん見捨てたりはなさいません。35節「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、」とあります。この「出会う」と訳されている言葉は、「見る」という言葉で、ここでは「見つけると」あるいは「見出すと」と訳しても良いと思います。ユダヤ人の会堂から追い出されたこの人を主イエスは見捨てず、この人を見つけ出して、こう言われた。「あなたは人の子を信じるか。」ここで「人の子」というのは、救い主に対しての別の言い方と理解して良いでしょう。この人は、「救い主である人の子」が自分の目を開いてくれた方なのだとはっきり分かりました。今まで「預言者」「神のもとから来た人」だと思ってきた。しかし、そうじゃない、救い主なのだということを知らされました。
ここで、主イエスがこの人に対して「あなたは人の子を信じるか」と問われたのですが、これをギリシャ語の原文で見てみますと、明らかに「あなたは」が強調されているのです。他の人がどう言っているかじゃない、「あなた」は信じるのかということです。彼の心は決まっています。36節「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と答えます。主イエスが「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と言うと、彼は「主よ、信じます。」と言って、ひざまずきました。この「ひざまずいた」というのは、拝んだということです。彼は、主イエスを尊敬した、偉い人だと思ったのではなく、拝んだのです。神として拝んだということです。実に私共の信仰とは、主イエス・キリストというお方を神としてあがめ、拝むというものなのです。
彼は、主イエスを見たのです。主イエスによって開けていただいたその目で見た。しかし、この主イエスを見たというのは、単に肉体の目で見たということだけではありません。主イエスを救い主として見たということなのです。彼は、肉体の目と共に、主イエスが救い主であるということを見る目、霊の目と言っても信仰の目と言っても良い、それをも同時に開かれたということなのです。そして、これこそが、彼の上に神の業が現れたということなのです。
4.わたしが世に来たのは、裁くためである。
この時、肉体の目は開いているけれども、霊の目が閉じられている人がいました。ファリサイ派の人々です。彼らの肉体の目は、もちろん開いています。肉体としての主イエスは見えています。しかし、主イエスが救い主であるということは見えていないのです。
主イエスはこう言われます。39節「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」この「見えない者は見えるようになり」というのは、肉体の目が見えなかったのが主イエスによって見えるようになり、同時に霊の目も開かれて主イエスが誰であるか見えるようになったこの人のことを指し示しています。一方、「見える者は見えないようになる」というのは、肉体の目は開かれて見えているけれど、霊の目が開かれてないことが分かっていない人は、主イエスが誰であるのか分からない、見えないままだということで、ファリサイ派の人々のことを指しています。
問題は、その前の「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」という言葉です。私共は、イエス様はこの世を救いに来たのではないか、だったら裁くために来たというのはどういうことか、そう思ってしまうところがあります。しかし、裁くということがなければ、実は救いはないのです。「裁き」と「救い」は正反対のことではないのです。裁きはあるのです。裁きがなければ、その裁きによる滅びもないし、滅びがなければそこから救われるということもないのです。そもそも「裁く」というのは、分けるということです。魚を三枚に捌く。これは漢字が違いますが、元々同じ意味です。
では、主イエスがここで「わたしが世に来たのは、裁くためである。」と言われたのはどういう意味かといいますと、主イエスが来られて、主イエスを救い主と信じる者と信じない者に分かれるということが起きてしまうということです。現にこの時、目を開かれた人とファリサイ派の人々とは、主イエスをどう見るかで分かれてしまった。これが主イエスによって引き起こされる裁きなのです。裁きにおいて大切なのは、何を基準に裁きが行われるかということでしょう。この基準が、主イエスをどう見るのか?主イエスを信じるか信じないか?ということなのです。ですから、主イエスが来れば、この裁きはどうしたって起きてしまうのです。
ただ、見えない者が見えるようになったように、この方に対しての態度は変わるのです。主イエスに対して反対した者は、金輪際、地獄から上がれない。そういうことではありません。キリスト者を迫害していたパウロが大伝道者として生きたように、滅びから救いへと変わることは十分ある。まさに、見えない者が見えるようになるということが起きるのです。これは、私共の上にも起きたことです。見えなかった私共が見えるようにしていただいて、今このようにイエス様を礼拝しているわけです。
38節の、目が見えるようにしていただいた人が主イエスを拝む姿に、教会は自分の姿を重ねて見てきたのです。ここに自分の姿があると見てきた。私もそう思います。本当にありがたいことです。
5.見えると言い張る人々
ファリサイ派の人々はこの場にいたようで、主イエスの言葉を聞いて、40節「我々も見えないということか。」と言います。これは、正確には「我々も見えないということではありませんね。」という、「いいえ、見えます。」という答えを想定した疑問文となっています。それで、イエス様は、「おっしゃるとおり、あなたがたは見えますね。だから、あなたがたの罪は残る。」と言われたのです。何故なら、あなたがたは、自分は目が見える、目を開けてもらう必要はありません、と言っている。自分たちは悪くないのですから、悔い改めることがないということになってしまいます。もし、あなた方の目が見えなければ、目を開けてくださいと願うだろう。しかし、あなたがたは、自分の目は見えている、肉体の目も霊の目も見えている、そして自分たちは知っている、自分たちは正しい、と思っている。しかし、そう思っている以上、悔い改めることがない。だから、罪が残る。悔い改めて赦しを求めない罪は残るのです。
伝道者として生きていて、私が伝道の難しさを覚える一番の所はここです。世の多くの人は、別に赦しを求めている訳ではない。自分は見えていると思っている。自分は赦しを求めなければならないような悪い人だとは思っていない。そういう人に、あなたは悔い改めて、罪の赦しを求めなければならないと言っても、なかなか通じないのです。ファリサイ派の人々は、どの時代でも、どの国にもいますし、数の上で言えば圧倒的に多いのだろうと思います。別に私はそれほど悪い人じゃない。その通りなのです。人と比べるなら、私共は誰もそれほど悪い人ではないのでしょう。しかし、そのような私共が、神様なんて要らないと言って、主イエスを十字架につけたのではないでしょうか。クリスマスからイエス様を消して、サンタクロースの日にしてしまっているのではないでしょうか。それは、すでに裁かれている者の姿なのです。世は主イエスが救い主であることが見えず、にもかかわらず見えると言い張っている。私は正しいと言い張っている。
では、どうすれば人は、自分が見えていないことを認めるようになるのでしょうか。この点において、私は伝道者として全く無力であることを認めざるを得ません。自らの罪を認めない、神様の御前に額ずくことが出来ない頑なさは、いつも私の前に、高い頑丈な壁として立ちはだかっています。この壁は「個人の心の壁」というだけではありません。この「日本の社会」全体が、この高く頑丈な壁に取り囲まれている。先の大戦のことにしても、本当に高く丈夫な壁があり、本当は自分たちが悪いとは思っていないのではないかと思う。だから、政府を代表する「大臣」の口から、次から次へと不適切な発言が発せられているのだと思います。この壁を前に私は、ただ神様の御業が現れることを祈り続けるしかありません。この壁はエリコの城壁のように頑丈です。しかし、神様なら、この城壁を崩すことがお出来になります。一人の人が悔い改め、神様の御前に額ずくようになるというのは、エリコの城壁が崩れるのにも匹敵する、まさに神の奇跡なのです。私はこの奇跡を何度も見てきましたし、私という人間がここにあるということが、私の上にもこの奇跡が起きたことの証拠なのです。皆さんもそうです。ここに集う皆さん一人一人が、神の奇跡の証拠であり、証人なのです。だから、私は落胆しません。どんな頑丈な城壁のような壁も、神様はあわれみの故に、必ず打ち砕いてくださいます。私共はそのことを期待して良いのです。
6.問題なのは私
ただ私共は、人のことを云々する前に、自分の中に再び城壁のような壁を築いてしまわないように気を付けなければなりません。一度主の御前に額ずいて悔い改めたならばもう大丈夫、そんな訳にはいかないのです。私共の中の絡みつく罪は、何度も何度も引き抜かなければならないのです。砕いても砕いても、必ず再構築しようとするものなのです。だから、「主よ、あなたの御姿をもっとはっきり見させてください。」「主よ、あなたの御声をもっとはっきり聞かせてください。」「主よ、あなたの御業を現してください。」そう祈り求めつつ、歩んでまいりたいと思うのです。
[2012年1月8日]
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