富山鹿島町教会

礼拝説教

「今は見える」
イザヤ書 42章1〜7節
ヨハネによる福音書 9章13〜34節

小堀 康彦牧師

1.2012年を迎えて
 2012年の最初の主の日の礼拝を守っております。先週がクリスマス記念礼拝でしたから、私の中では、新年を迎えたというよりは、まだクリスマスの余韻の中にあるというのが実感です。これから年賀状を見ながら、新年が来たのかという感覚になってくるのでしょうか。今年は元旦が主の日と重なりましたので、特に元旦礼拝ということではなく、共に聖餐に与る主の日の礼拝として守っております。毎年帰省して元旦礼拝に出席される方と、今日は共に聖餐を守れることをうれしく思っています。この元旦にこうして礼拝を守る、ここに私共がキリスト者であるということがどういうことなのかが、はっきり現れていると言って良いと思います。周りの人は皆、初詣に行くのでしょう。しかし、私共は教会に集い、主の日の礼拝を守っているわけです。この日本においてキリスト者であるということは、どうしても周りの人たちと同じでないところを持つのです。紅白歌合戦を見、行く年来る年を見、お雑煮を食べる。そこまでは同じでも、初詣には行かないで、私共は礼拝に集うのです。今年一年の無病息災、家内安全を願うために、人々は神社へ初詣に行く。私共も、同じように無病息災、家内安全を願わないわけではありません。しかし、私共がここに集って来ましたのは、そのような願いを祈るためだけではないのです。私共は神様の御言葉を受けるために来た。神様の御言葉を与えられ、それに従って生きるために来たのです。
 そのような私共に今朝与えられております御言葉は、「目の見えなかったわたしが、今は見える。」であり、そうであるならば「見えるようにしていただいた者として生きよ。」ということであります。

2.主イエスと出会い、そこから歩み始める
 ヨハネによる福音書を順に読み進めておりますが、クリスマスのために二週ほど離れておりました。前回は、ヨハネによる福音書の9章1〜12節から御言葉を受けました。ここには、生まれつき目の見えない人が、主イエスによって見えるようにしていただいたという出来事が記されておりました。3節には、大変有名な主イエスの言葉があります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と告げられた主イエスの言葉です。これは、弟子たちが主イエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからか。」と尋ねたのに対する主イエスのお答えです。これは、説明のつかない、理由の分からない苦しみの中に生きる人々に、明日への希望と生きる力を与える御言葉でありす。私共を、因果応報という出口のない鎖から解き放つ、力ある御言葉です。
 しかし、この主イエスの御言葉があまりに素晴らしく、有名なものですから、この目の見えない人のいやしの話は12節まで読んで終わりで、今朝与えられているその後の話については、あまり読まれることが多くないようです。1〜12節がスポット・ライトがいつも当たる箇所だとすると、その後に続く今朝の御言葉は、スポットライトから少し外れた、あまり人の注目を浴びない箇所と言えるかもしれません。しかし、ここもとても大切な所なのです。生まれつき目の見えなかった人が主イエスによって見えるようにしていただいたのですけれど、この話は、今まで目の見えなかった人が主イエスによって見えるようにしていただいた、良かった良かった、そういう話ではないのです。そのことが、今朝の御言葉にはっきり記されております。こう言っても良いでしょう。私共は、主イエスと出会って、主イエスの救いに与った。しかし、私共の信仰の歩みは、そこから始まるのであって、そこで終わるのではないのです。洗礼を受けるのは大切なことです。しかしそれは、キリスト者としての歩みの出発であって、そこから長い信仰の歩みが始まるのです。主イエスの救いに与って、それで終わり。そんな風にはならないのです。目の見えなかったこの人が、主イエスによって目が見えるようになった。それは、この人と主イエスとの最初の出会いであって、これで終わりではないのです。主イエスと出会い、主イエスのいやしを受け、主イエスの恵みに与ったこの人は、それからどう歩んだのか。それが、今朝私共に与えられている御言葉の告げていることです。

3.目が見えるようにしていただいた人のように歩め  今朝与えられております御言葉は、三つの段落から成っています。第一の段落は13〜17節です。生まれつき目が見えなかったのを主イエスによって見えるようにしていただいたこの人が、ファリサイ派の人々の所に連れて行かれて尋問を受ける場面です。第二の段落は18〜23節です。ここでは、この人の両親が尋問を受けます。そして、第三の段落が24〜34節です。ここで、再びこの人が尋問を受けるのですけれど、今度はただ尋問を受けるだけでなくて、論争と言いますか、はっきりと自分の考え、意見を述べます。その結果、彼は外に追い出されたというのです。この34節にある「外に追い出す」というのは、単にその場所から追い出したというようなことではないのです。これは、22節に「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」とあるように、ユダヤ人の会堂から追放される、つまり、ユダヤ社会からの追放、村八分、ユダヤ教からの破門ということを意味していたのです。
 この22節については、ヨハネによる福音書が記された時代、1世紀の終わり頃ですが、その時代の状況が反映していると考えられます。イエス様が十字架にお架かりになる前には、イエス様をメシア、救い主と公に言い表す者がユダヤ人の会堂から追い出されたという状況はなかったからです。使徒言行録の記述を見ても、そういうことは記されておりません。しかし、このヨハネによる福音書が記された時代には、まさにこのような状況があったわけです。ここで、目が見えるようにしてもらった人の両親は、自分の息子が生まれつき目が見えなかったことは証言するが、どうして目が見えるようになったかは分からないと明言を避けた、それはユダヤ社会から追放されることを恐れた故である、と記すことによって、この福音書を読む人々に対して、あなたたちもこの両親のような生き方をするのか、そう問うているのでありましょう。
 と申しますのは、両親のこの答え方に対して、目が見えるようにしてもらった人の答え方は、一貫して明確な証言をしているのです。どうして見えるようになったのかと尋ねられれば、15節「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と答え、17節で「お前はあの人をどう思うのか。」と尋ねられれば、「あの方は預言者です。」と明言しました。そして、再び尋問された時も、25節「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と明言し、更に27節では「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」とまで言うのです。そして、遂に30節以下において、この人は、「主イエスが罪人だとするならば、どうして神様が罪人の言うことを聞いてくれようか。生まれつき目が見えなかった者の目を開けたということは、主イエスが神様のもとから来られたことの確かな証拠ではないか。」と論じたのです。これを聞いたファリサイ派の人々は、34節「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」と言い返して、彼を外に追い出したのです。この主イエスに目が見えるようにしてもらった人は、主イエスが自分にしてくださったことを明確に語り、主イエスが神様のもとから来た方であることを証言したために追い出されたのです。しかし、次週見ます35節以下には、主イエスがこの人と再び出会って救うことが記されています。ここで、明らかに聖書は私共に、この目が見えるようにしてもらった人のようにあなた方は歩め、この両親のように歩むのではない、そのように告げているのだと思うのです。

4.ただ一つ知っていること
 この目が見えるようにしてもらった人は、どうしてここまで明確に主イエスを証しすることが出来たのでしょうか。理由は簡単なことです。彼自身、目が見えなかったのに見えるようにしていただくという、主イエスの恵みの御業に与ったからです。彼は、主イエスを訴えているファリサイ派の人々のように、聖書を深く読んだことはなかったし、学問を身に付けるような歩みもしていなかったでしょう。しかし彼は、自分が主イエスの救いの恵みに与った、そのことははっきりしているのです。25節をもう一度見てみましょう。
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と彼は言います。彼は、「ただ一つ知っている」ことがあるのです。それは、自分の目は生まれてこの方ずっと見えなかったけれど、「今は見える」ということです。主イエスによって見えるようにしていただいたということです。これがこの人の知っているすべてでした。そして、それで十分なのです。  私共は何を知っているのでしょうか。私共は、主イエスが私のために、私に代わって十字架にお架かりになり、三日目によみがえられたことを知っているのではないですか。何が罪であり、何が正しいことであり、何が美しく、何が大切なことなのか。自分が何者であり、どこから来て、どこへ行く者なのか。そのすべてを全く知らず、霊の目が生まれた時から閉じたままであった私共でした。この主イエスの御業によって、私共は霊の目を開いていただき、自分が何者であり、何に向かって生きる者であり、主イエスが誰であり、神様がどのようなお方であるかを知らされました。神の子たる身分を与えられ、永遠の命の希望の中に生きる者とされました。そして、その主イエスの救いに与るまでの道筋は、誰一人として同じ人はいません。しかし、その全く別々の道を通って、私共は主イエスの救いに与り、霊の目を開いていただき、皆が同じことを証しするようにされました。私共は、皆一人一人、別々の証しの物語を持っている。そして、その物語は、この目が見えるようにしてもらった人と同じように、否定しようがない。忘れようがない。そこにしっかりと立つ限り、私共は、主イエスが誰であるか、いつでもどこでも誰に対しても語ることが出来るし、そうすることを求められているのでありましょう。

5.世の知恵を愚かなものにするために
 ファリサイ派の人々は、聖書をよく読んで知っておりました。しかし、主イエスを罪人と決めてかかりました。主イエスが罪人と決めつけられた理由は、目を見えるようにしたこのいやしの業が、安息日に行われたからです。ファリサイ派の人々は、この目が見えるようになるという素敵なうれしい出来事を、共に喜ぶことが出来なかったのです。それどころか、とんでもない律法違犯の業だと断じたのです。どうして、律法違犯になったのか。それは、安息日に医者は、命に別状があるような救急の患者以外は診てはいけなかったからです。また、ばかばかしいことですが、主イエスが土をこねてこの人の目に塗ったのが、左官の仕事、壁塗りの仕事にあたるということでした。だから彼らは、安息日の規定を破ったイエスという男は罪人である、そう断じたのです。これには、5章にある、ベトザタの池で38年間も病気で苦しんでいた人を主イエスがいやされたのも安息日であったということも関係していたでしょう。一度ならず、二度までも。これは最早偶然ではなく、意図的なこととしか、ファリサイ派の人々は受け取りようがなかったということでしょう。
 主イエスはもちろん、十戒の第四の戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」を、どうでも良いと考えておられたのではありません。そうではなくて、この安息日の守り方です。何もしなければ良いというのが、ファリサイ派の人々の考えでした。しかし、主イエスは、この安息日というのは、神様が天地を造られたことを覚え、神様を礼拝し、神様に感謝し、神様の御業のために用いる日だということをお示しになったのです。
 ファリサイ派の人々にとって、自分たちが細かく細かく定めたこの安息日規定を破る者を認めることは、自分たちの権威を失墜させることであり、決して認めることは出来なかったということなのであります。彼らにはプライドがあり、自分たちこそ正しい者であるという自負がありました。ですから、主イエスを認めることが出来なかったのです。主イエスがどんなに素晴らしい業を為し、どんなに知恵に満ちたことをお語りになっても、聞く耳を持てなかったのです。それは、34節の「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」という言葉にはっきりと表れています。彼らにしてみれば、生まれつき目が見えない者というのは全く罪の中に生まれた者、けがれた者であって、そんな者が正しく清い自分たちを教えようなどというのは百年早い、ということでした。自分のプライドを傷つけるいかなる言葉も受け付けない。それは主イエスに対しても同じでした。
 私共はここで、自分のプライド、自分は知っている、知恵ある者だという自負が、いかに主イエスを受け入れない力として働くかを見るのです。ファリサイ派の人々に比べて、この目の見えない人は、知識も知恵もなかった。しかし、本当に知らなければならないことを知ったのです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一1章18〜21節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」と告げました。また、25節〜28節「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」と言いました。本当にそうだと思います。私共は自らの知恵や知識によって主イエスを知ったのではありません。神様が、愚かで小さな私共を選んでくださり、主イエスと出会わせてくださり、救ってくださった。それは人間の知恵を愚かにし、神様の前に全ての者がへりくだるためでした。
 神様の恵みの選びの故に、私共はここで、主イエスに目を見えるようにしていただいた人と同じように、「今は見える」と言える者にしていただきました。この神様の救いの御業によって与えられた揺るぎない確信のもとで、「主イエスこそ我が神、我が救い主」と証ししていきたいと思うのです。私共の中には何もないのです。主のあわれみだけがあります。ですから、私共の誇りは主イエスだけであって、自らを誇らず、神と人とを愛し、神と人とに仕える者として、主イエスの弟子として、この一年も歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2012年1月1日]

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