富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「言が肉体となった」
イザヤ書 52章7〜10節
ヨハネによる福音書 1章1〜5節、14〜18節

小堀 康彦牧師

1.クリスマスを迎えて
 今朝、私共の群れに二人の受洗者と一人の転会者が与えられました。まことにうれしいことです。この喜びは、私共に与えられているクリスマスの喜びというものが何の喜びなのか、どういう喜びなのかをはっきり示していると思います。クリスマスの喜び、それは私共が救われた喜びです。イエス・キリストが二千年前にお生まれになって、私共を救ってくださった。私共はこのイエス様の救いに与らせていただいた。だから、クリスマスは喜びの日なのです。何にも換えることが出来ない喜びの日なのです。もし、私共が主イエスの救いに与っていないなら、私共はこのようにクリスマスを喜び祝うことはないでしょう。私は、毎年クリスマスが来るたびに、クリスマスを喜び祝うことが出来る幸いを思うのです。今年は、23日の子どものクリスマス会、24日のキャンドル・サービスとキャロリング、そして25日のクリスマス礼拝と祝会、とたて続けに行事がありました。その準備等で目の回るような忙しさの中を歩まれた方も多いと思います。しかし、そのような忙しいクリスマスを迎えることが出来るということもまた、本当にありがたいことだと思うのです。イエス様を知らなかったならば、私共はこの忙しさを味わうことはなかったでしょうけれど、クリスマスを心から喜び祝うこともなかったでしょう。クリスマスを一年の最後のイベントくらいにしか受け取れなかったでしょう。しかし私共は、アドベントが始まる前から、一ヶ月にもわたって「クリスマス、クリスマス」と言って過ごして来た。それは、私共がクリスマスにお生まれになったイエス・キリストの救いに与っているからなのです。きっと、今日、私共の群れに加えられた三人の方も、来年のクリスマスからは今までと違う、喜びに満ちた、そして忙しいクリスマスを味わうことになるのだろうと思います。

2.肉となった神の言
 今朝与えられております御言葉、ヨハネによる福音書の1章14節を見てみましょう。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。これが、ヨハネによる福音書が記すクリスマスの出来事です。ここには、マリアもヨセフも登場しません。天使も羊飼いも博士たちも登場しません。しかし、ヨハネによる福音書は、この独特の語り口で、主イエス・キリストの誕生とはどういうことなのかを告げています。
 言は肉となった、肉体をとられたと語ります。「肉となった」というのは、切れば血が流れ、打たれれば痛い、そういう私共と同じ肉体をもつ人間となったということです。そして、この「言」とは、1章1節にあります「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と告げられている「言」です。永遠に神様と共におられ、神であられる、神の独り子としてのキリストです。この神であられるキリストが、肉体をとり、イエス様としてお生まれになった。それがクリスマスです。まことの神であられるキリストが、まことの人であるイエス様としてお生まれになったのです。イエス様は、肉体を持つことによって、神であられることをやめられたのではありません。ですから、14節後半「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であった。」と言うのです。主イエスの中に父の独り子、父なる神様の独り子としての栄光を見たのです。それは、主イエス・キリストがお語りになったこと、主イエス・キリストが為された業は、何を聞いてもどれを見ても、優れた人間、賢い人間というようなものではなくて、まことにこの方は神様と一つであられると認めざるを得ない、そういうものだったということであります。18節において「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と言われておりますことも、そういうことでしょう。神様そのものを見た者は誰もおりません。ですから、神様がどのようなお方なのか明確に示すことは誰にも出来ないのですけれど、主イエス・キリストの言葉と業を見るならば、神様とはこの様な方ではないかと私共が知ることが出来る。主イエスとはそういうお方なのだということであります。そして、主イエス・キリストの言葉と業は、すべて十字架と復活へとつながっているのです。と言うよりも、ヨハネによる福音書は、十字架にお架かりになり、そして三日目によみがえられた主イエス・キリストというお方を、そこから見て、まことに神様そのものであったと告白しているのでありましょう。

3.恵みと真理に満ちた栄光
 神の独り子が人となって地上に下り、全く罪のないただ独りのお方が、私共のために、私共に代わって、十字架にお架かりになってくださったのです。パウロはこのことについて、ローマの信徒への手紙5章7〜8節において、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と申しました。本当にそうであります。自分と敵対する者を救うために自らの命を差し出す。これは度はずれたこと、あり得ないことです。しかし、主イエスそれをしてくださり、それをするために人となられたのです。ですから、主イエスに現れた神の独り子としての栄光は、恵みと真理に満ちた栄光なのです。更に、主イエスは三日目に死人の中から復活され、私共に永遠の命に至る道を拓いてくださったのです。これはまことに神の独り子としての栄光であり、恵みと真理に満ちた栄光と言わざるを得ないでしょう。
 主イエス・キリストは、天地を造られたただ独りのまことの神、全能の父なる神様の独り子であられますから、父なる神様の持つすべてを持っておられます。それは、すべてを造り支配される全能の力であり、すべてを計画し御存知である全き知識であり、すべての者に命を与えられる永遠の命であり、罪人を裁きそして赦す権威であり、自分に敵対する者をも愛するまことの愛であり、私共の心の底までも見通される知恵であります。その良きものすべてを主イエス・キリストは持っておられ、そのすべてが十字架と復活の出来事において現れたのです。しかしそれは、十字架と復活においてもっとも明らかな業として現れ出たということであって、主イエスはクリスマスにお生まれになったその時から、神の独り子としてすべてお持ちになられていたものなのです。

4.恵みの上に、更に恵みを受けた
 そして16節です。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」のです。主イエス・キリストの持つ良きものすべては、ただ主イエスの中に満ち満ちているだけではなくて、まさに主イエス御自身からあふれ出て、主イエス・キリストを信じるすべての者の上に注がれたのです。私共は恵みを求めて歩むのではないのです。恵みの方が私共を追いかけてくるのです。どこにいても、恵みが私共を追いかけて来て、私共を捕らえるのです。それは、「恵みの上に、更に恵みを受けた」と言わざるを得ない、恵みに満ちたものなのです。
 今、ほんのひとときでも良い。この神様からの恵みを数え上げたら良いのです。私共は、どんなに神様の恵みに満たされて一日一日を歩んできたかが分かるでしょう。私共がこの地上の歩みを始めた時から、その恵みは私共を捕らえて離さず、私共は次から次へと恵みに恵みを加えて与えられました。私共が当たり前だと思っている一つ一つの日常の出来事、日常の営みが、キリストの恵みの中にあってのことなのであります。あの両親から生まれたこと、良き家族の中で育まれたこと、良き友を与えられたこと、この人と出会って結婚したこと、子が与えられたこと、この仕事に就いたこと、数え上げればきりがありません。そのすべてが神様の恵みです。
 そして何よりも、私共は主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、一切の罪を赦され、神の子たる身分を与えられたのです。まことに愚かな罪人である私共が、天地を造られた神様を「アバ、父よ」と呼び、祈ることが出来る者とされたのです。この救いの恵みを私共に与えるために、そしてこの世界に生きるすべての人々を招くために、神の独り子、主イエス・キリストは来られたのです。「恵みの上に、更に恵みを受けた」とは、そういうことです。主イエスが来られなかったならば、今日の私はないのです。そのことを思いますと、私共は主イエスと父なる神様に感謝し、ほめたたえないではおられません。それが私共のクリスマスなのです。

5.神様の救いの御業は継続中
 今朝、二人の方が洗礼を受けたという出来事は、この神様の救いの御業が今も継続中であることを、私共にはっきりと示しております。私共は、自分が救われたことを喜び祝います。これは大切なことです。自分の救いの恵みがはっきりしなければ、心から喜び祝うことは出来ないでしょう。しかし、私共は、この神様の救いの御業というものが、自分の所にとどまるのではなくて、更に広く更に豊かに展開していっているし、これからも展開し続けていく、このことをはっきりと心に刻みたいと思います。それは、主イエスが再び来られる日まで続くのです。そして、私共は、その大きな神様の救いの御計画、御業の中で、今年もクリスマスをこのように喜び祝うことが出来たということなのです。
 この一年の歩みを顧みますならば、まことにたどたどしいものであったと言わざるを得ない私共であります。体も心も弱くなった時もありました。しかし、それでも守られた。信仰も健康もどうにかこうにか守られ、支えられた。だから、こうしてクリスマスを祝うことが出来ている。どうにかこうにかでしたけれど、何とか守られた。まことにありがたいことです。そして、御心ならば、これからの一年もまた、主に守られ、支えられ、次のクリスマスを共々に喜び祝いたいと、心から願うものであります。恵みに更に恵みを加えられる一年を歩ませていただきたいと思うのです。
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐に与ることによって、私共は自分が主イエス・キリストの内に満ちあふれている豊かな恵みの全てを受け取る者とされているということを、しっかりと心に刻むのであります。

[2011年12月25日]

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