1.はじめに
聖書の中の一つの言葉との出会いが私共の人生を変えてしまうということがあります。今まで当たり前だと思い、それ故にそこから抜け出せないでいた闇に、御言葉と共に光が射し込んでくる。そして、その光によって、全く思いもよらなかった自由、喜び、平安を与えられる。そこから全く新しい人生が始まる。そういうことが起きる。キリスト者になるということは、そのような御言葉との出会いによって引き起こされることなのだろうと思うのです。今朝与えられている御言葉も、そのような出来事を起こし続けてきた御言葉の一つであります。
皆さんも、この御言葉によって主イエスの救いに与ったという方をご存じかもしれません。私も、今までこの御言葉によって神様の救いに与った、目の前が明るくされ、生きる力と希望を与えられたという人を何人も知っています。今、お二人の方の証しを紹介ししたいと思います。
2.証しT
私の神学校の同級生の中に、強度の弱視の方がおりました。どんなに強いメガネでも間に合わず、ガラスのボールを二つに割ったような道具を本の上に置いて、その道具にくっ付くくらいに目を近づけなければ本を読むことが出来ない方でした。ある時、この方の証しを聞きました。物心が付いた時にはすでに、光は感じるけれども物の輪郭をはっきり見ることは出来なかったそうです。もちろんご両親は、彼のことを大変心配しました。彼は名古屋の人で、高校は名古屋学院という、キリスト教の学校に入ります。その聖書の授業の中で、今朝与えられております主イエスの御言葉に出会ったのです。9章2〜3節「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」彼は本当にびっくりしたそうです。どうして自分だけこんな障害を持って生まれたのか。正直、親を恨んだこともあったといいます。親御さんもまた、健康に産んであげられなくて息子に申し訳ないと、きっと思われたことだろうと思います。ところが、この主イエスの御言葉に出会って、自分がこのような目を持って生まれたのは、神様の御業が現れるためなのだと知らされた。この目には、何か分からないけれど、神様の御業が現れることが起きるためなのだ。この目には、何か意味があるのだ。自分の目が見えないのは、自分のせいでも、両親のせいでもないのだ。そのことを知らされて、まさに目からウロコのように、自分の将来に対しての希望を持つことが出来たのです。この御言葉と共に、彼は何か自分の将来に、今まで感じたことのない明るいものを感じたそうです。彼は家に帰って、両親にもこの主イエスの御言葉を話したそうです。そして、彼は教会に行くようになり、洗礼を受け、高校を卒業すると、東京神学大学に入学して来たのです。そして、ご両親もその息子の姿を見て、教会に通うようになり、洗礼を受けられたそうです。
3.証しU
もうお一人の方は、前任地で洗礼を受けた方です。昨夜のことですが、今日は日勤の後に夜勤が入っていて礼拝に出られない娘が、明日の聖書の箇所はどこだと聞くので、「ヨハネの9章の始めの所、生まれつき目が見えない人が癒された所だ。」と言いますと、娘が「ああ、Mさんの話の所ね。」と答えたのです。この講壇でもすでにお話したことがありますが、前任地で、転倒てんかんを持っているお子さんのお母さんが、教会の幼稚園にお子さんが入って来られ、この御言葉に出会い、変えられていった出来事がありました。そして、その方が教会学校の夏期学校で証しをされたのです。もう10年以上前のことでしたが、娘がはっきり覚えていたのです。我が家では、このヨハネ9章の話は、Mさんの話として覚えられています。このヨハネによる福音書の9章を読む時、Mさんのことをどうしたって思い出すのです。
主イエスの御言葉が、その御言葉によって救われ新しくされた具体的な人と結びついて、心に刻まれている。それはまことに幸いなことだと思っています。主イエスの言葉が、昔イエス様が語られた言葉というだけではなくて、今も生きて働いている神様の言葉であり、この御言葉は人を造り変える力があるということが明らかにされるからです。Mさんは、今は前任地の教会で長老をされています。
4.因果応報か、神様の支配か?
この箇所は、1節「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」と始まっております。主イエスが、この生まれつき目の見えない人を見たのです。8節には「近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、『これは、座って物乞いをしていた人ではないか』と言った。」とありますから、この男の人は物乞いをするために道端に座っていたのでしょう。主イエスは、その前を通り過ぎる時、この男の人を見たのです。この男の人は目が見えないのですから、この男の人が主イエスを見たのではありません。主イエスが見た。この時、主イエスと一緒にいた主イエスの弟子たちも、この男の人を見ました。しかし、同じこの男の人を見ながら、主イエスと弟子たちとでは、見方が全く違っていたのです。
主イエスの弟子たちは、この男の人を見て、主イエスにこう問います。2節「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」この問いには前提があります。それは、人間の出遭う不幸というものは、罪を犯した結果だという理解です。この男の人は生まれつき目が見えないのですから、この男の人自身が罪を犯した結果であるはずがない。だったら、その両親の罪の結果なのか。弟子たちは、そう主イエスに尋ねたのです。それに対する主イエスの答えが、3節「 本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」でした。
これは実に驚くべき見解です。おおよそ宗教というものは、この世界にある不条理、何とも説明のつかない不幸、それらに何らかの説明を与えるものとして機能します。その代表的なものが因果応報という考え方です。原因があって結果がある。自然科学もそういう考えで成り立っていますが、その場合に特に問題はありません。ほとんどすべての宗教は、この因果応報という考え方を持っています。しかし、この考え方を人生のすべての場面に当てはめていきますと問題が生じます。この因果応報という考え方は、今のこの現実に対して、どういうわけでこうなったのかという原因を提示するものですが、生まれつき目が見えないという現実に対して、これこれが原因ですと言われても、その現実は変わらないわけです。まさに、自分のせいか、両親のせいか、どっちであってもその人は袋小路に入ってしまって、希望のない明日しかないことは同じでしょう。因果応報と教える宗教によって、今までどれだけ多くの人が、出口のない闇の中に閉じ込められてきたか。私は、因果応報という考え方は、はっきり悪魔の思想だと思っています。
しかし主イエスは、この生まれつき目が見えないという現実に、全く別の所から光を当てたのです。それは、神様の御手の中にある明日です。主イエスは過去に遡り原因を突き止め、そこからこの現実を見ようとしたのではないのです。そうではなくて、神様の御手の中にある明日からこの現実に光を当てたのです。そして、希望を与えた。この生まれつき目の見えない人も、神様が愛し神様が造られた人である以上、この人にも神様の御計画がある。そしてそれは、この人を通して神様の愛と真実が証しされ、人々が神様をほめたたえるようになるという、神様の救いの御業にお仕えするためだ。神様の栄光が現れるために用いられるということだと告げたのです。
人は、自分の不幸の中に閉じこもり、その不幸を嘆き、人を羨むというところに落ち込みやすいものです。しかし、主イエスはその殻を破るのです。そして、神様の光を射し込ませ、神様の御手の中にある明日に向かって心を向けさせるのです。過去と目の前の現在にばかり目を向けていた私共の心を、天の神様と神様の御手の中にある明日に向けさせるのです。
5.主イエスの目差しが私にも
しかし、どうして主イエスはこのようなことが言えたのでしょうか。それは、主イエスが神の独り子であったからに違いありません。主イエスは、この道端に座って物乞いをしていた人を、神様に造られ神様に愛されている人として、父なる神様と同じ眼差しで御覧になったのです。弟子たちはこの男の人を「かわいそうに」とは思ったでしょう。しかし、自分とは関係のない人だという風に見たのです。ですから、このような問いを主イエスにしたのです。弟子たちには、この男の人の心の闇など関係なかったのです。しかし、主イエスはそうではなかった。まさにここに、神の独り子としての眼差しがあり、主イエスが神の独り子であることの確かなしるしがあると言って良いと思います。
そして、この主イエスの目差しは、今も、私共一人一人に対しても向けられているのです。もっと言えば、この生まれつき目の見えない人とは、私共のことに他ならないのではないでしょうか。この生まれつき目の見えない人は、肉体的な目が見えないのですけれど、私共は、霊の目が生まれつき見えない者なのです。自らの罪が見えず、神様が見えず、愛が見えず、生きる意味が見えない。そういう私共に対して、主イエスは、この生まれつき目の見えない人に向けられたのと同じ眼差しを向けてくださっているのでしょう。あなたはわたしが造った者、わたしの愛する者。あなたの明日はわたしが知っている。あなたの上に神様の御業が現れる。だから、明日に向かって、今を生きよ。そう神様は私共に告げておられるのです。
6.私の目も開かれる
主イエスは、この男の人の目に自らの唾でこねた土を塗って、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われました。そして、この男の人がシロアムの池に行って目を洗うと、目が見えるようになったと聖書は告げます。この生まれつき目の見えない男の人が、生まれつき霊の目が閉ざされている私共のことを示しているとすれば、ここで主イエスが唾で土をこねて目に塗られたこと、シロアムの池に行って洗えと言われたことも、私共の霊の目が開かれるための御業と重ねて読むことが出来るでしょう。
主イエスが唾でこねた土を目に塗られたという御業は、創世記2章7節にある「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」という、人間の創造の出来事を思わせます。つまり、主イエスによる再創造、新しい人間の誕生を指していると読むことが出来ると思います。そして、この男の人が目を洗ったシロアムの池ですが、ここで聖書はわざわざ「シロアム−『遣わされた者』という意味−」と記しています。5章にあるベトザタの池のほとりでのいやしにおいては、ベトザタがどういう意味かは記していないのです。とすれば、わざわざこのように記しているということは、聖書はこの池の名前にも意味を持たせようとしているのは明らかでしょう。シロアム−遣わされた者、遣わされた者とは主イエスを指している。つまり、シロアムの池で洗うとは、主イエスの所で洗う。これは、洗礼を指しているのではないでしょうか。そして、そのことによって閉じられていた霊の目が見えるようになる。それが、この出来事が意味していることなのだと思います。
7.日のある内に
主イエスは、3節で「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と告げられた後、4節で「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」と告げられます。この生まれつき目の見えない人は、神様の御業が現れるという、神様の御手の中にある明日があることを知らされました。そしてそれを知らされた者は、その神様が備えておられる明日に向かって歩まねばならない。その明日に向かっての新しい歩みがあり、その明日に向かって今を生きる責任がある。そう主イエスは告げておられるのであります。私共にしてみれば、霊の目が見えるようになったなら、霊の目が見えるようになった者としての歩みがあるということです。
少し細かいことを申し上げるようですが、この4節は「わたしたちは」と語ります。この「わたしたち」とは誰なのか。これは、この福音書を記したヨハネの教会の人々が、この主イエスの言葉の中に自分たちのことを含ませたと理解されています。主イエスと一つにされたキリスト者が、霊の目を開けていただいた自分たちは、主イエスをお遣わしになった方、父なる神様の業をしなければならない、そう考えたのです。
主イエスを遣わされた方の業とは何か。主イエスのように、唾で土をこねて目に塗って目を開かせる、というようなことではないでしょう。そうではなくて、主イエスを信じ、主イエスこそまことの神の子と証しをしていくことです。マタイによる福音書6章33節の御言葉で言うならば、「何よりもまず、神の国と神の義を求め」て生きるということなのです。
そして、そのような私共の歩みは、限られたこの地上の生涯において為されるのだということなのです。私共は、いつまでもこの地上の歩みを続けることは出来ません。この地上の生涯に別れを告げなければならない時が来るのです。だから、日のあるうちに為すべきことを為さなければならないのです。主イエスを信じ、洗礼を受け、霊の目を開けていただき、神の国と神の義を求めて歩む。これが、私共の為すべき、日のあるうちに行わなければならない業なのです。
この生まれつき目の見えない人のいやしの奇跡は、目が見えるようになって良かった良かったという話ではないのです。最初にお二人の、この御言葉に出会って全く新しい人生を歩むことになった方たちのことをお話ししました。お二人とも、希望と喜びをもって生きる者とされました。しかし、お二人とも、キリスト者になったことで担っている課題が無くなったというのではないのです。生まれつき弱視だった私の同級生は、その後完全に失明してしまいました。転倒てんかんの子は、その後も軽い知恵遅れを持ったまま成長しました。外から見れば何も変わっていない。いや、事態はより深刻になったとも見えます。しかし、そうではないのです。彼らは、霊の目が開かれ、神様の愛の御手の中に生かされている自分を発見したのです。お二人とも、本当に明るい方でした。出口のない、希望のない闇の中を生きるのではなく、神様の光の中を歩む者とされたからです。
「占い」だとか「まじない」だとかに囲まれ、因果応報という考え方に囚われている人々の中にある私共です。しかしそのような中で、様々な呪縛から解き放たれ、自由にされ、天地を造られた方の子とされた私共は、実に「世の光」と言うべき存在なのではないでしょうか。確かに、まことの世の光は主イエス・キリスト御自身でありますけれど、この主イエスの光によって照らし出された私共もまた、マタイによる福音書5章14節にありますように、「世の光」とされているのでしょう。
アドベントの第三週を迎える今、私共はこのことをしっかり受け取りたいと思うのです。世は、クリスマス、クリスマスと浮かれていますが、まだ「まことの光」を知りません。しかし、私共は知っている。否、知らされている。この光を隠すことは出来ません。クリスマスのこの時、この主イエスのまことの光を高く掲げて、チラシを配り、ハガキを書いて、この光のもとに人々を招いてまいりましょう。
[2011年12月11日]
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