富山鹿島町教会

礼拝説教

「裁くのは誰か」
申命記 22章22〜29節
ヨハネによる福音書 8章1〜11節

小堀 康彦牧師

1.〔 〕でくくられている理由
 今朝与えられております御言葉は〔 〕でくくられております。これは、この箇所が元々のヨハネによる福音書には入っていなかった、そう考えられるということを示しています。ここで細かな議論をするいとまはありませんけれど、ヨハネによる福音書の古い写本にはこの部分がないものが多いのです。5世紀以降の写本には出て来ます。中には、ルカによる福音書に記されているものさえあります。しかし、だったらここに記されている話は5世紀以降に創作されたものかといいますと、そうではありません。すでに2世紀には、この話を人々が知っていたということが分かっています。ですから、福音書という形ではなくて、別の形で教会に伝えられた主イエスの話が、5世紀以降このヨハネによる福音書に収められるようになった、そう考えて良いだろうと思います。
 この箇所がここに収められた理由は、それ程複雑ではないと思います。7章50〜51節に「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』」とあります。裁きということが問題になってるのです。そして、8章15節「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。」とありまして、主イエスの裁きということが告げられています。この二つの記事に挟まれるようにこの話を配置することによって、裁きとは何なのか、主イエスの裁きとはどういうものなのか、そのことが的確に告げられる。そういう効果をもたらすことになるからだと思います。

2.自分は正しい?
 この箇所を読んで我が身を省みて、身につまされる思いにならない人はいないだろうと思います。主イエスのもとに、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を連れて来た。主イエスが神殿で人々に教えておられた時でしたから、主イエスの周りには大勢の人がいたのです。その人々の真ん中に女性は引き出された。姦通の現場で捕らえられたというのですから、この女性はあられもない格好をしていたかもしれません。姦通という罪は、人目をはばかって為されるものです。自分と相手の人しか知らない、そういう罪です。それが人々の前にさらけ出されてしまったのです。この時、この女性は恥ずかしさのあまりに消え入りたい、死んでしまいたい、そう思ったのではないでしょうか。一方、律法学者たちやファリサイ派の人々は、これで主イエスをやっつけることが出来ると、意気揚々としていたのです。私共がまず身につまされる思いを致しますのは、この律法学者たちやファリサイ派の人々の姿に自分自身の姿が重なるからです。
 律法学者たちやファリサイ派の人々は正しい人です。自分もそう思っているし、他の人もそう自分を見ている。その正しい人が、言い逃れの出来ない罪を犯した女性を、公衆の面前に立たせ、その罪を暴き、責め立てる。この時、律法学者たちやファリサイ派の人々は気持ち良かったのだと思います。こいつは悪い奴だ。とんでもない奴だ。そう言って人を責める時、私共は、自分こそ正しい人であり、こんな奴とは違う、そう思っている。そして、そう思って人を見下す時、私共の中にはある種の満足感が生まれているのではないでしょうか。しかし、その姿がどんなに醜いものであるか、この聖書の話は私共に教えるのです。この箇所を読んで、律法学者たちやファリサイ派の人々の姿を美しいと思う人は一人もいないでしょう。しかし、この自分のことは棚に上げて人の欠けを責め立てる姿は、私共が、ほとんど日常と言っても良いほどに何の意識もせずに行っていることではないでしょうか。私共が毎日目にしているマスコミの姿も、これと少しも違わないのではないかと思います。マスコミだけではありません。私自身、教団や教区で責任を持つようになって、「それじゃダメだ。何をやっているのか。」と毎週のように文句を言うために会議に行っているような日々です。しかし、自分はそんなに偉そうなことを言える者なのか。我が身を振り返る時、まことに恥ずかしく思うのです。もちろん誤りは正さなければなりません。しかしそれは、この時の律法学者たちやファリサイ派の人々のように、自分だけは正しい、この人は間違っている、そういう所に立っての行為であってはならないのでしょう。

3.姦通の罪で訴えるということ
 この時、律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエスに対してこう言いました。4〜6節「『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。」この姦通の現場で捕らえられてここに引っぱって来られた女性は、主イエスを陥れるための材料に過ぎなかったのです。どうしてこの問いが主イエスを陥れることになるのかと申しますと、それは、もし主イエスが「この女を赦せ。」と答えれば、主イエスはモーセの律法をないがしろにしている、モーセの律法を破る者だとユダヤ教当局に訴えることが出来ます。逆に、律法に従って「この女を殺せ。」と言えば、死刑はローマの管轄で、ユダヤ人にそれを行う権限は認められておりませんでしたから、主イエスをローマに反逆する者としてローマの当局に訴えることが出来る、そういう罠が仕掛けられていたのです。何とも狡いやり方です。
 そもそも、モーセの律法によるならば、先程お読み致しました申命記の22章にありますように、姦通の罪を犯した者は、女性も男性も両方が罰せられなければならないはずです。この相手の男性はどうしたのでしょうか。逃げたのかもしれません。普通に考えればそうでしょう。しかし、この姦通の罪というのは、その現場を押さえなければ訴えることは出来ないことになっていました。現行犯でなければ駄目なのです。そして、すべての訴えは二人以上の証人がいなければ成立しないことになっていました。どうも最近自分の夫は変だ。他の女性と一緒に歩いているのを見た。そんなことでは訴えることは出来ないのです。しかし、姦通の現場を複数の人が偶然に目撃するなどということが起こりえるでしょうか。ほとんど考えられないでしょう。実際問題としては、計画的に罠にはめるということでもなければ、この姦通の罪で訴えるということはなかなか起きなかったのではないかと思います。そんなことを考えますと、この女性も、主イエスを訴える口実を得るために、律法学者たちやファリサイ派の人々が仕組んだ罠にはまったのではないか。そして、相手の男は最初から仕組んだことなのですから逃がしてもらった、そんな風にさえ思えてきます。これは私の想像ですから、これ以上のことは言いません。

4.まず罪なき者、石もて打つべし
 この時主イエスは、律法学者たちやファリサイ派の人々が訴えるのを無視するかのようにかがみ込み、指で地面に何か書き始められました。何を書いていたのかは分かりません。主イエスはこの時何を書いていたのか、それを色々と想像する人が昔からおりますけれど、そんなことは重要なことではないと思います。もし主イエスがここで地面に書いていたことが重要な言葉であるならば、聖書が、主イエスはこれこれの言葉を書いていたと記しているでしょう。しかし、聖書はそのことには何も触れていないのですから、詮索することもあまり意味がないと思います。ここで大切なのは、主イエスの姿勢だと思います。主イエスはかがみ込んで地面に何かを書いていた。主イエスの視線は、地面に向けられています。主イエスは、この女性のくずおれた姿を見なかったのです。律法学者たちやファリサイ派の人々、そしてその場に居合わせた人々は、この女性に対して、姦通の罪を犯したとんでもない女とはどんな女なのかと、好奇の目を向けていたことでしょう。まるで現代のテレビのレポーターと言われる人々がするようにです。しかし、主イエスはそのような目でこの女性に視線を向けることを拒んだということなのではないかと思うのです。
 しかし、律法学者たちやファリサイ派の人々があまりにしつこく問うものですから、主イエスは身を起こして一言だけ言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」それだけ言われると、主イエスは再び地面に何かを書き続けられました。何という一言でしょう。
 石を投げる最初の人は、この人が罪を犯したということを訴えた証人であることになっていました。石打ちの刑というのは、皆がその人に向かって石を投げて打ち殺すという、大変凄惨なものですが、石を投げ始める人はその石打ちの刑に責任がある、その人を訴えた人・証人ということになっていたのです。確かにその人を殺すのは皆でやることですが、責任の所在はあいまいではないのです。もし偽の証言で刑が為されてしまったならば、その責任は偽の証言をした人にあるのであって、それを最初に石を投げるということによってはっきりと示したのです。誰も人の命を奪うことの責任など取りたくないですから、その人を訴えた証人が投げなければ、誰も石を投げることはしないのです。
 この女性は確かに死罪に当たる罪を犯した。しかし、この女性を裁くことが出来る者は誰か。罪を犯したことのない者しかいないではないか。この女性と同じように罪を犯しているのに、この女性を裁くことが出来るのか。あなたがたの誰が、自分は罪を犯していないと言えるのか。単に現場を押さえられていないだけではないのか。主イエスは、そう告げられたのです。確かに私共は、この女性のように姦通の現場を押さえられたことはありません。しかし、様々な誘惑にさらされ、罪を犯す寸前で、何とか罪を犯さずに済んでいる。それが私共の現実なのではないでしょうか。性の誘惑、富の誘惑、名誉への誘惑、嫉妬の誘惑、怒りの誘惑。私共は、一歩間違えば犯罪者になってしまう、そういう様々な誘惑にさらされながら、何とか一線を越えずに済んでいる。決して自分が正しいから罪を犯していないのではないでしょう。たまたま一線を越えるほどの激しい厳しい誘惑に遭っていない、そういう状況に遭っていない。あるいは、罪を犯してもたまたま明るみに出ていない。それだけのことではないのか。主イエスのこの言葉は、私の心の中にある罪、自分しか知らない罪の闇に目を向けさせる言葉でした。そして、この言葉を聞いた人は、年長者から始まって、一人また一人とその場を立ち去り、主イエスとその女性だけが残ったのです。

5.主イエスと二人きりの場で起きる悔い改め
 主イエスはこの女性に言います。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女性は答えます。「主よ、だれも。」主イエスは告げました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主イエスはこの女性に、「あなたに罪はない。」と言われたのではありません。この女性が罪を犯したことは明らかなのです。しかも、その罪は死刑に値する罪なのです。しかし、主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われる。それは、今あなたを死刑に処することはしないということです。これは執行猶予のようなものです。だから、次の「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と続くのです。
 この女性は、言い逃れの出来ないあり方で、死刑に値する自らの罪を白日の下にさらされました。しかし、そこで主イエスに出会った。私共もそうなのでしょう。死刑に値する神様への反逆、神様への忘恩、隣人に対しての裏切り。それは人前には明らかにされていないかもしれない。隠されているかもしれない。しかし、神様はそのすべてを御存知です。私共は、このすべてを御存知である神様の御前に、自らの罪を明らかにされてしまっている。そのことを知らされ、恐ろしくなり、恥ずかしくなり、言い逃れできずに赦しを求めたのでしょう。そして私共は、主イエスから、この女性に告げられたのと同じ言葉を受けた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この主イエスの御言葉によって、新しい歩みを始めた。それがキリスト者です。自らの罪を知り、自らの罪を憎み、この言葉を告げてくださった主イエスと共に生きる者とされたのです。
 この主イエスの言葉は、十字架の言葉です。「わたしはあなたを罪に定めない。」この主イエスの言葉は、「なぜなら、わたしがあなたに代わって死刑になる。十字架に架かるから。」この言葉が背後にあるのです。この主イエスの十字架の言葉によって新しく生き始めた者は、この主イエスの赦しに応えるために、主イエスの十字架の死に報いるために生きるようになるのです。それが「悔い改め」ということです。主イエスの赦しは大変厳しいものです。自らの死刑に値する罪を認めることを求めるからです。自らが死刑に値する罪人であることを認めなければ、この主イエスの言葉に与ることは出来ないのです。律法学者たちもファリサイ派の人々もこの場を去ってしまいました。主イエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」との言葉は、彼らの良心を目覚めさせたのかもしれません。しかし、それは彼らに悔い改めをもたらしはしませんでした。反省、或いは自らの罪を知らされての苦い思い、それは主イエスと二人きりにならなくても人はするものです。しかし、それは悔い改めではないのです。そんなことで人は変われないのです。
 この世の基準で言えば、律法学者たちやファリサイ派の人々は正しい人であり、この女性は罪人ということになるのでしょう。しかし、神様の御前においてはどうなのでしょうか。この女性も律法学者たちやファリサイ派の人々も、同じように赦されなければならない罪人なのではないでしょうか。私も今までに、その場に刃物があれば目の前のその人を刺していたに違いない、そう思った時がありました。たまたま、そこに刃物はありませんでしたので、激しく、口汚く、その人を罵っただけで済みました。後で冷静になってから、あの時刃物がその場に無くて良かった、神様に守られたと、感謝の祈りを捧げました。
 この女性は主イエスと二人きりになりました。そして、主イエスのこの言葉に与り、悔い改めて新しい命に生きることとなった。この主イエスの言葉を受けるためには、どうしても主イエスと二人きりにならなければならないのです。そこでしか、悔い改めは起きないのです。キリスト者とは、この主イエスとの二人きりの時を持った人のことです。自らの罪を認め、主イエスの御前に悔い改めた人のことなのです。

6.昔の言葉・今の言葉・御国での言葉
 私共は今から聖餐に与ります。主イエスは今、私共一人一人と一対一で、私共の前に立ち、我が肉を食べよ、我が血を飲め、我が十字架の救いに与れと招いてくださいます。私共の、自分以外誰も知らない心の奥底にある罪を主イエスは御覧になり、その上で「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と告げられるのです。私共が死を迎える時、この主イエスの御前に立つことになります。二人きりで会うことになる。そして、この言葉を再び聞くことになるのです。この主イエスの言葉は、昔の言葉であり、そして今告げられている言葉であり、やがて告げられる言葉でもあるのです。
 それは、この聖餐が、主イエスと弟子たちの最後の晩餐であり、今私共が与る聖餐であり、やがて神の国において与る食卓を指し示しているのと同じです。この聖餐に与り、この主イエスの言葉を受ける私共は、自らを正しい者として、人を見下げて、人を裁いていい気になるような歩みと決別するのです。そして、悲しむ者と共に涙し、喜ぶ者と共に喜ぶのです。私共を赦してくださった主イエスの赦しの中で、互いに赦し合う者として、御国を目指してここから歩んでいくのです。そのような歩みを為していくために、今、聖霊なる神様の導きを、心から請い願い、祈りを捧げたく思います。

[2011年11月6日]

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