富山鹿島町教会

礼拝説教

「生きた水」
出エジプト記 17章1〜7節
ヨハネによる福音書 7章37〜52節

小堀 康彦牧師

 今朝私共に与えられた主イエスの御言葉は、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という招きの言葉と、「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」という約束の言葉です。

1.主イエスの約束1
 まず、主イエスが与えてくださった約束について見てみましょう。主イエスを信じるならば、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる、そう主イエスは約束してくださいました。この「生きた水」とは何かと言いますと、すぐ後に「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」とありますから、この「生きた水」というのは、主イエスを信じる者に与えられる霊、聖霊ということになります。ここで注目しなければならないのは、この生きた水としての聖霊は、主イエスを信じる者から川となって流れ出ると言われていることです。しかし、この「その人」というのを主イエスを信じる人と理解するのではなくて、主イエスを指しているという理解の仕方もあるのです。事柄の順序から言えば、主イエス・キリストから聖霊としての生きた水が流れ出し、主イエスを信じる人々に聖霊が注がれる。そして、主イエスを信じる人から、周りの人々に向かって聖霊が流れ出るということなのでしょう。ですから、「その人」というのは、主イエス御自身であり主イエスを信じる人という、二重の意味で理解することが出来ると思います。
 主イエスはまず、自分を信じるならば聖霊がその人に注がれると約束してくださった。この約束を私共はしっかり受けとめたいと思うのです。聖霊は生きた水です。私共一人一人を生かす水です。水がなければ、誰も生きることは出来ません。この私共を生かす水としての聖霊の実は、「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であるとガラテヤの信徒への手紙5章22〜23節に記されておりますが、もちろんこれだけではありません。信仰、希望、愛、自由といったものも挙げることが出来るでしょう。私共はこれらのものがなければ、楽しくいきいきと生きることは出来ません。人が生きるには衣食住が必要ですけれど、それだけあれば生きられるというものではないのです。人は愛なしに生きられるか。親子、夫婦、兄弟、友人等、人と人との関係がうまくいかなければ、生きること自体がつらくなる、そういうものでしょう。希望もそうです。明日への希望がなければ、人は今を生きることが出来ません。自由もそうです。やりたいことも出来ず、行きたい所にも行けず、そんな状態でどうして楽しく生きられるでしょう。主イエスは、わたしを信じるならば、その人が本当に喜んで生きていくことが出来る、その人を内側から生かしていく力を与える生きた水としての聖霊を与えると約束してくださったのです。
 使徒パウロは、この生きた水としての聖霊を与えられた者として、こう語りました。フィリピの信徒への手紙4章11〜13節「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」私共は、貧しくなったり、空腹になったり、目に見えるものを失えば元気がなくなるものです。しかし、生きた水としての聖霊を注がれた者は、そのような境遇になってもへこたれない、生きる力を失わないのです。神様が備えてくださっている明日に向かって歩んでいく力を与えられるのです。何と幸いなことでしょうか。これが、私共に与えられている恵みの現実です。使徒パウロだけに与えられているのではないのです。主イエスを信じる者には、誰であっても与えられているのです。

2.主イエスの約束2
 次に、この生きた水は主イエスを信じる者から川となって流れ出ると約束されています。主イエスを信じる者は、主イエスから聖霊を注がれ、聖霊の実としての善きもので満たされる。これは本当にありがたいことですが、事はそれにとどまらないのです。主イエスを信じる者、つまり私共から周りに向かって聖霊が川となって流れ出すと言うのです。私にそんな力があるだろうかと思ってしまうかもしれません。これは、次のようなイメージで理解されたら良いと思うのです。ここにキリストの体としての教会があります。キリストの教会は、聖霊を注がれ、聖霊で満たされ、そして礼拝が成立しているわけです。この教会に、キリストを信じる者たちの群れに、聖霊が注がれる。そして、この礼拝から私共はそれぞれの場に散って行くわけですが、私共はここで御言葉を受け聖霊を受けた者としてそれぞれの場へと遣わされていくのです。それは、まさに川の流れのように、この教会からそれぞれの場へと聖霊の息吹が流れ出していくということなのでしょう。私という個人から聖霊が周りに流れ出していくというよりも、キリストの教会に注がれた聖霊が私という人間を通してこの世界へと流れ出していく、そういうイメージで捉えたら良いと思うのです。私共は、この人を生かす水である聖霊を運ぶ器とされているということなのです。まことに畏れ多いことでありますけれども、そのような者とされているのです。
 私共は自分の欠けを知っています。短気でわがままでおっちょこちょいで、まことに困った者です。それにもかかわらず聖霊の器とされている。このことは、私共が自分自身を見る時に、もう一つの視点が与えられるということでもあります。私共は、自分で自分を評価したり、人の目にどう見えるかということを気にしたりします。しかし、主イエスを信じる者にはもう一つの大切な視点、神様は自分をどう見ておられ、どのような者として用いようとされているかという視点が与えられるということなのです。自分が評価するのでも、他人の目からどう見えるかでもない、全く別の視点で神様は私共を見、私共を用いようとされているということなのです。それは、私共を聖霊なる神様の器、人を生かす水を運ぶ者として私共を見、私共をそのような者として用いようとされているということです。使徒パウロの言葉で言えば、私共は「キリストの使者」とされているということなのです。本当に畏れ多いことでありますけれど、そうなのです。そんな力も才能も美しさもありません。そう言いたいところですけれど、神様はそんなことは百も承知です。承知の上で、私共をそのように見てくださり、用いようとしてくださっているのです。ここに私共の誇りがあります。サタンはこう言うでしょう。「お前に神様の愛が語れるのか。神様の愛を証し出来るのか。お前はそんなに立派な者か。」それに対して私共は、はっきりこう告げなければならないのです。「サタンよ退け。私は主イエス・キリストを信じる者だ。キリストのものだ。神様が私を立ててくださったのだ。私は洗礼を受けた者だ。もうお前の言いなりになりはしない。」

3.主イエスの招き
 主イエスはこのような約束を私共に与えてくださり、その約束を果たしてくださっていますが、この約束に与る者にはただ一つ、主イエスの招きに答えるということだけが求められています。その招きとは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という招きです。主イエスのところに来て飲むということは、主イエスを信じるということです。主イエスを私の救い主、まことの神にしてまことの人、私の一切の罪を担ってくださる方として信じるということです。ただ信じるだけです。それ以外、何も求められておりません。
 ただ、ここで注目しなければならないことは、「渇いている人は」と言われていることです。何に渇いている人なのでしょうか。私共は生きていく上で、様々な渇きを覚えるでしょう。愛したい、愛されたいという渇き。人と人との関わりの中で平和を得たいという渇き。明日への希望を持ちたい、明日への不安から逃れたいという渇き。自分が生きている、生かされているという実感を得たいという渇き。人に認められたいという渇き。主イエスは、その様々な渇きに対して、わたしのところに来なさい、わたしを信じなさい、そうすればその渇きはいやされる、そう約束して招かれているのです。ここで、ヨハネによる福音書4章の、主イエスとサマリアの女の会話を思い起こして良いでしょう。主イエスは、4章14節「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われました。この時に言われた「わたしが与える水」が「生きた水」であり「聖霊」なのです。人は生きていく上で様々な渇きを覚えます。その渇きをいやすために、一時しのぎのお酒に走ったり、ギャンブルに走ったり、薬物に走ったりするのでしょう。しかし、それはただの一時しのぎであって、醒めてしまえばいよいよ渇きを増すことにしかなりません。主イエスは、そんな一時しのぎではなくて、本当に自分が生きている、生かされている、そのことが分かって、どんな時も喜んで生きることが出来る、困難に出会ってもへこたれないで生きることが出来る、そのような生きる力と勇気を与える生きた水を与えると言われたのです。そのためには、ただ私を信じること、それだけが必要なことなのだ。そう招かれたのです。

4.仮庵祭において
 この時、主イエスが人々を招かれた状況を少し見てみましょう。主イエスは仮庵祭の時に、人々が祭りで盛り上がっているその時に、このことを語られました。この仮庵祭というのは秋の収穫感謝の色彩の濃いものでしたが、それだけではなくて、エジプトの奴隷の状態から救い出された、出エジプトの出来事を覚えるためのものでもありました。だから、仮庵つまり仮の小屋をシュロの枝などで作ってそこに祭りの間住み、先祖たちが40年に及ぶ荒野の旅を神様の守りの中で歩んだことを思い起こしたのです。この仮庵祭のクライマックスは、先程お読み致しました出エジプト記の17章にあります、イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野の旅をしていた時に水がなくなった。水がなくなれば死を待つしかない。その時、神様がモーセに岩を打つように命じ、モーセが岩を打つとそこから水が出た。そして、人々は命を保った。このことを覚えて、エルサレムにあったシロアムの池の水を汲んで神殿に運び、祭壇に水を注ぐ。この水を汲みに行き神殿に運ぶ間、人々は歌を歌い、楽器を鳴らし、水が注がれると歓声が上がる。この水を注ぐ儀式は、雨乞いの儀式であったとも言われていますが、いずれにせよ、仮庵祭のクライマックスはこの祭壇に水を注ぐという一連の儀式でありました。この水は文字通りの水、肉体を保ち、作物に実りを与える水でした。主イエスは、この儀式の最中、人々が盛り上がっていたその時に、大声で、「渇いている人はわたしのところに来て飲みなさい。」と告げたのです。あなたがたが本当に必要としている水は、この水ではない。人を本当に生かすことが出来る命の水、聖霊ではないか。肉体の渇きだけをいやして何になる。その渇きは、何度水でいやしても再び渇くではないか。人間に本当に必要な水は、神様から与えられる命の水、死をも打ち破り永遠の命へと人々を導く水ではないか。人に希望を与え、自由を与え、愛と平和を与える水ではないか。それをわたしは与えよう。わたしのもとに来るが良い。そう招かれたのです。

5.主イエスへの様々な態度
 しかし、この主イエスの招きの声は、人々の心には届きませんでした。この7章を見ると、主イエスに対する当時の人々の様々な反応が記されています。12〜13節を見ると、「良い人だ」と言う人がおり、「群衆を惑わしている」と言う人がおりました。25節からの所では、「この人がメシアだということを議員たちは認めたのではないか」と言う人がおり、「メシアではない」と言う人がおり、「イエスを捕らえようとする」人がおり、31節には「イエスを信じる者が大勢いた」とあります。そして、祭司長たちとファリサイ派の人々は、主イエスを捕らえるために下役の人を遣わしたのです。40節を見ますと、人々の中には主イエスを「本当にあの預言者だ」とか「この人はメシアだ」と言う人々がいました。しかし、そうではないと言う人もいて、対立が生じたのです。このように、主イエスに対しての人々の反応は実に様々でした。主イエスをメシア・救い主として信じる人、預言者だと言う人、そんな者ではないと言う人、人々を惑わすとんでもない者だと言う人、そして主イエスを捕らえようとする人。百人百様と言っても良いほどです。その中で、祭司長たちとファリサイ派の人々、これは当時のユダヤ教の指導者たちと言って良いでしょうが、彼らは主イエスを捕らえようとしました。この人たちは、主イエスの言葉が最も届かなかった人々と言って良いでしょう。どうして届かなかったのか。それは彼らが渇いていなかったからです。渇いていなければ、水を求めることはないのです。しかし、主イエスが与える命の水は、これを必要としていない人はいない、そういう水でした。これがなければ、神様と共に、神様の御前に健やかに生きることは出来ない、そういうものでした。何故なら、人は皆罪人であり、誰も神様の裁きから逃れることは出来ないからです。しかし、祭司長たちやファリサイ派の人々はそうは思っていなかった。自分は正しく、世の中のすべての人が神様の裁きによって滅んでも、自分だけは決して滅びることはない。そう思っている人たちだったのです。だから渇かないし、渇かないから求めもしない。主イエスの言葉は届かず、彼らの反感を買うだけだったのです。
 この祭司長たちやファリサイ派の人々によって主イエスを捕らえるように遣わされた下役の人たちは、主イエスを捕らえることなく戻って来ました。そして、彼らは「今まで、あの人のように話した人はいません。」と言って、自分たちが主イエスを捕らえなかった理由を述べました。これは正直な感想でした。彼らは主イエスが救い主・メシアであると信じたというのではありません。しかし、主イエスの言葉の中に、今まで聞いたことのない何かを感じたのです。私は、彼らの中に渇きがあったのではないかと思います。彼らは神殿で働いてはいますけれど、祭司長たちやファリサイ派の人々のように人々から尊敬されるわけでもなく、自分たちは絶対に正しい人間だから神様の裁きを前にしても決して滅びることはないと言い切れるような人々でもなかったのだと思うのです。そして、本当に自由で愛に満ち、誠実で希望に満ちた日々を歩みたいと願う心がどこかにあったのでしょう。だから、主イエスの言葉に耳を傾けることが出来た。しかし、祭司長たちやファリサイ派の人々はそうではなかったのです。救いから最も遠い人、それは自分が正しい人間だ、良い人だと思っている人なのです。人と比べて良い人というのはいるでしょう。誰でもそう思っている。しかし、神様の御前に出た時、自分は責められるところは少しもない正しい人だと言える人など一人もいないのです。神様の御前に立つならば、誰でも「罪人である私をお赦しください。」そう言わざるを得ないのです。この一言を神様の御前で言う者こそ、渇いている者ということなのです。
 ここでニコデモという人が出て来ます。ヨハネによる福音書の3章に出て来た人です。彼はこの時点で主イエスを救い主と信じていたということではまだなかったと思います。しかし、彼は主イエスのところに直接話を聞きに行ったことがあった。人に見られると困るので、夜に行ったのですけれど。彼はファリサイ派の人であり、当時のユダヤの議会の議員の一人であり、明らかにユダヤの指導者層に属する人でした。何故ニコデモは主イエスのもとに行ったのか。やはり渇いていたのでしょう。彼は社会的地位もあり、教養もあり、それなりに富もあったでしょう。目に見えるところにおいての不足はなかったかもしれない。しかし渇きがあった。それは、神様とのいきいきとした交わり、救いの確信、永遠の命の確かな希望を求めるというものではなかったかと思います。だから、彼は主イエスのところに行った。ここにニコデモの救いへの歩みは始まっていたと見て良いと思います。この後、ニコデモは主イエスが十字架にお架かりになられた時、主イエスの御遺体を引き取ることをアリマタヤのヨセフと共に申し出たのです。十字架に架けられた犯罪人の遺体を引き取るということは、その人と深い関わりにある者であることを表明するのと同じです。この時、ニコデモは主イエスに対しての信仰を表明したのです。ニコデモは変えられ続け、遂には主イエスを信じる者となったのです。
 人は誰も、一回主イエスの話を聞いて信じられるというものではないでしょう。下役たちもそうでしたし、ニコデモもそうでした。しかし、主イエスのところに来るのなら、主イエスの言葉を聞き続けるなら、この礼拝に来て主イエスの言葉に耳を傾け続けるなら、必ず生ける水としての聖霊を受けることになるのです。大切なことは、主イエスのところに来るということなのです。主イエスの言葉を聞き続けるということなのです。そうするならば、私共は必ず生ける水としての聖霊を受け、さらにその水が川となって外に流れ出し、私共の周りの人々を愛と平和と喜びで満たしていくことになるのです。この主イエスの約束を信じ、招きに応えて、この一週もここから歩み出していきたいと思います。

[2011年10月23日]

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