富山鹿島町教会

伝道礼拝説教

「希望に生きる祈りの道」
エレミヤ書 29章10〜14節
ルカによる福音書 11章5〜13節

小堀 康彦牧師

1.私の「祈り」との出会い
 今朝は伝道礼拝ということで、キリスト教にあまり馴染みがないという方もおられますけれど、私が体験してきたことを交えつつ、御一緒に「祈り」ということについて聖書から聞いてまいりたいと思っております。
 私が生まれて初めて教会の門をくぐりましたのは18才の時、もう37年も前になります。その時のことは今でも覚えておりますが、ちょうど今朝ここに集まっているくらいの人たちが日曜日の礼拝を守っておりました。讃美歌を歌い、聖書が読まれ、説教が語られる。私共が毎週ここで守っているのと同じ礼拝が為されておりました。私は讃美歌も知りませんし、聖書を開くことも出来ません。説教を聞いてもチンプンカンプンでした。ただ、心に残ったことがありました。それは祈りでした。祈られている内容が分かったわけではありません。ただ、司会している方が祈り始めると集まった100人弱の方々がみんな頭を垂れて、手を合わせて、コトリとも音がしない。そして、最後にみんながアーメンと唱える。その姿といいますか、雰囲気と申しますか、その時はアーメンという言葉の意味も分かりませんでしたけれど、ここには私の知らない何かがあると思ったのです。私はその時まで、祈りの姿といえば毎年元旦に神社に行く初詣しか知りませんでした。家には神棚も仏壇もあって、毎朝水をあげ、ご飯もお供えしていました。幼い頃はそれが私の役目でもあって、その時には手を合わせ、祈る格好はしておりました。しかし、それは正直なところ格好だけで、祈りというようなものではありませんでした。私はこの時、キリスト教の教会の礼拝に出て、初めて祈るという世界があるのだということを知ったのです。そして、これは私が今まで全く知らなかった世界であるということも分かったのです。そして、それを何とか知りたいと思った。それで、何か良く分からないのですけれど、毎週日曜日には礼拝に通うようになったのです。これが、私が教会に通うようになったきっかけです。
 私は普通の家に育ち、公立の学校に行って、普通の教育を受けて育った。そこで、祈るということを学ぶことはなかったのです。私はたまたま、いや神様の導きと言うべきでしょうが、18才の時に祈るということと出会うことが出来た。それは本当に幸いなことでした。しかし、あの時教会に一歩足を踏み入れなかったならば、私は今でも祈るということを知らずに生きていたのではないか。そう思うのです。それは、自分の人生は自分の努力で切り開いていけば良いのであって、それが出来なければ自分の努力が足りないのだと諦めれば良い、諦めるしかない。そういう生き方をしていくしかなかったということだと思うのです。あるいは、あっちの道を行けばこういうメリットがある、こっちの道を行けばこういうメリットがある。こっちの方がメリットが大きいから、こっちにしよう。そういう生き方しかできなかったと思うのです。

2.「絆」と「祈り」
 しかし、人間は本当に自分の力と努力だけで生きているのだろうか。生きていけるのだろうか。今、日本を覆っている問題は、あの3・11の出来事でしょう。テレビから何度も流れる津波のシーンに、心を締め付けられる思いをしなかった人はいないでしょう。そして、それに続く福島原子力発電所の事故による放射能問題。日本人の多くが、何かをしなければいけない、何かをしてあげたいと思った。ボランティアに行った人もいるでしょう。義援金に協力した人もいるでしょう。そして、多くの人が、祈りたい、祈らなければ、そう思ったのではないでしょうか。被災者の方々を励ます多くのイベントが開かれましたし、今も開かれています。そこでのキーワードは二つあります。それは「絆」であり「祈り」です。日本人は今、本当に祈りたいと思っている。祈らなければと思っている。しかし、どう祈ったら良いのか分からないのではないか。私が18才の時までそうだったように、初詣の祈りしか知らずに、この3・11がもたらした悲惨、放射能による不安のただ中で、祈ることが出来るのか、祈り続けることが出来るのか。そう思った。そして、一人でも多くの方と祈りたいと思ったのです。
 「絆」と「祈り」というキーワードが生まれましたけれど、この二つは深く結びついているものです。絆があるから人は人のために祈るのですし、また、祈りの営みの中で絆がより強く結ばれていく。そういうものでしょう。
 私共が今必要としている祈りとは、強靱な祈りです。目の前の悲惨、どこへぶつけて良いのか分からない怒り、明日に対しての展望が全く見えない不安、そういう中で泣き崩れるしかないような現実の中で、なおも祈ることが出来る祈りです。それは、自分の願いや願望を、誰に向かって祈っているのか分からないけれどとにかく祈る、そのような祈りではないのだと思うのです。そのような祈りは、気休めにはなりますけれど、力にはならない。私共が今求めているのは、強靱な祈り、力ある祈りなのだと思うのです。困窮のただ中にある人を支える祈り。明日へのどうしようもない不安の中にある人を立ち上がらせて、そこから一歩を踏み出させることの出来る祈りです。
 聖書が私共に教えてくれる祈りとは、そういう祈りです。キリストの教会が二千年の間、困窮のただ中にある人々と共に捧げ続けてきた祈りとは、そういう祈りなのです。祈りたい、でも祈れない。そういう人が、聖書が教える祈りについて少しでも何かつかんでいただいて、祈りへの一歩を歩み出していただきたい。そう心から願っているのです。

3.誰に祈るのか
 聖書が教える祈りにおいて第一に大切なことは、誰に向かって祈っているのか、そのことをはっきりさせるということです。自分の願いを叶えてくれるならば、どんな神様でも良い。そういう心の態度ですと、強靱な祈りは生まれません。そのような祈りは、聞かれるかどうか分からないけれど、祈らないよりは祈った方がいいのかなというぐらいの祈りですから、目を覆うような悲惨を前にした時には、その現実に飲み込まれてしまいます。祈れなくなるのです。明日への展望を全く開かれない人々の不安を前にすると、その不安に飲み込まれ、祈れなくなってしまうのです。
 私共が祈るべき方は、天地を造られたただ一人の神様、全能の神様です。天地を造られ、すべてをその御手の中に治められる方です。そして、その方は私共一人一人を愛しておられる。わたしを「父」と呼んで祈って良い。そのように私共を祈りへと招いてくださっている方なのです。もし全能でもただ力があるだけの方なら、何をされるか分かりませんから、私共は恐れるしかありません。また愛の神というだけで力がなければ、頼りにはなりません。しかし、私共が祈るべき方は、天地を造られ、そのすべてを御手に治めれられる全能の方であり、同時に私共一人一人を愛してやまない、父なる神様なのです。私共はこの方に向かって祈るのです。天地を造られた神様ですから、この方に出来ないことは何一つありません。そして、この方は私共一人一人を愛しておられるのですから、必ず私共に良いことをしてくださる。そのことを信じて祈るということです。3・11で被災された方々を、神様は愛しておられる。放射能の不安の中で生きる一人一人を愛しておられる。だから、神様は必ず何とかしてくださるのです。そのことを信じて祈るのです。
 主イエスはこう言われました。9〜13節「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」ここで、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさいと言われておりますが、これらはすべて、祈りなさいと言い換えても良いでしょう。父なる神様に願い求めるならば、それは必ず与えられるのだと、イエス様が約束してくださったのです。我が子が魚を求めているのに蛇は与えないだろう。卵を求めているのにさそりは与えないだろう。人間の父親でさえそうなのだから、まして天の父なる神様は良い物を与えてくださるに違いない。そのことを信じて、安心して祈れ。そうイエス様は教えてくださいました。祈りは、自分の心の中でつぶやく独り言ではないのです。全能の父なる神様というはっきりした相手がいて、その方に向かって願い求めることなのです。

4.粘り強く祈る
 第二に大切なことは、祈りはねばり強く続けなければならないということです。一回何となく雰囲気で祈ったということではダメなのです。もちろん、それでも神様は聞いておられます。しかし、私共が必要としている強靱な祈りは、祈り続ける祈りなのです。
 イエス様は、このことをたとえ話で語られました。5〜8節「また、弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』」旅行中の友達が来たけれど出すものがないので、友人のところにパンを貸してくれと頼みに行く。子供も寝ているしこんな夜中に何をしに来たと断られたとしても、しつこく頼めば、しょうがないなと起きて来て、求めるものをくれるだろう。だったら、神様だって祈り続けていたら、必ず与えてくださる。そのことを信じて良い。そうイエス様は言われたのです。
 しつこく祈る。ねばり強く祈る。そのことが大切なのです。しかし、私共の祈りというものはややもすると、何日かは祈るけれど、長くても一ヶ月祈っても何も起きなければやめてしまう。そういうことが多いのではないでしょうか。ここで大切なのは、愛です。先程、絆と祈りは結びついていると申しましたが、絆がなければ、それを愛と言い換えても良いでしょう、愛がなければ、その人のために祈り続けるということはなかなか出来ないものなのです。
 この主イエスのたとえ話の中で、この人は旅行中の友達のためにパンを求めに行ったのです。自分が食べるためではありません。ここが大切なところです。この人は、何としてもこの旅行中の友達にパンを食べさせてあげたかったのです。当時のことです。皆歩いて旅をしています。宿屋もありませんから、親類や友人、あるいは友人の友人の家を頼りに旅をしたのです。夜も更けて、やっとの思いでこの家に辿り着いた。空腹にちがいないのです。しかし、自分を頼ってきたこの人に、出してあげるパンがない。そこで夜中だけれど友人のところに、パンを三つ貸してくださいと頼みに行ったのです。この人は、何とかしてこの人の空腹を満たしてあげたいと思った。だから、パンを求めに行って友人が不機嫌でも、ああそうですかと帰るわけにはいかなかったのです。パンをもらえるまで、しつこく戸をたたいてお願いしたのです。私共がしつこく祈るというのは、これと同じです。困窮の中にある人との絆がある、愛がある。だから、おいそれと祈ることをやめるわけにはいかないのです。
 このことは、父親や母親の祈りを思えばすぐに分かることです。親は子のために祈る。我が子が幼い時には幼い時の祈りがあり、学校に行くようになれば学校に行くようになったで祈ることがあり、働けば働いたで、結婚すれば結婚したで、孫が出来れば孫が出来たで祈ることがある。親が子のために祈ることをやめるということはないのでしょう。
 私は、この3・11の出来事の後、私共の愛が問われているのだと思います。ここで、私共は自分の貧しさ、力の無さに気付かざるを得ません。東北の人たちのために、福島の人たちのために、何かしてあげたいのです。しかし出来ない。何もしてあげられない。もちろん、義援金の協力はします。しかし、そのくらいのことでどうにかなるものでないことは分かっている。このたとえ話の、旅行中の友達にパンをあげたいと思ってもあげられない人と同じです。そこでこの人は、パンを持っている友人にパンを求めに行った。そのように、私共は自分で何とかしてあげたいのに何もしてあげられない、この自分の貧しさ、力の無さというものに直面して、全能の父なる神様にお願いする、祈るしかない。そこに至るのだと思うのです。自分で何とか出来ると思っている限り、人は祈らないのだと思います。自分では何ともしようがない、何も出来ない。そのことを知らされた時、私共は祈るのでしょう。

5.信じて祈る
 第三に、祈りは必ず神様に聞かれるけれど、それは自分の願ったとおりになるということではない、そのことを知っておくことが必要です。例えば、生まれつき目の見えない人が、目が見えるようにと祈っても、それは見えるようにはならないかもしれません。しかし、見えなくても本当に生きることの喜びと幸いを味わう道を、神様は必ず備えてくださるのです。神様は、私共に本当に必要なことが何なのか、良く知っておられるのです。私共がこうなったら良いのにと思っても、それは自分がそう思っているだけで、神様はそう思っておられないことがあるのです。例えば、我が子がこの学校に入って欲しいと願ったとします。しかし、それがその子にとって本当に良いのかどうか、それは分かりません。いつも言うことですが、私共の祈りが叶えられない時、それは三つの理由以外にありません。一つは、私共の願いそのものが御心にかなっていない時。例えば、あの憎らしい人が死んでしまいますように、こんな祈りは神様は聞いてくださいません。二つ目は、まだ時が満ちていない時。子供が車を欲しいと言ったからといって、親がすぐ与えるというものでもないでしょう。それと同じです。三つ目は、神様は私共が願ったよりももっと良いものを与えようとしておられる時です。祈りが聞かれることを知る唯一の道は、祈ることです。祈らなければ、祈りが聞かれていることが分かるということは決してありません。
 以前、私が洗礼を授けた方にこういう婦人がおられました。80才を過ぎて洗礼を受けられたのですけれど、この方のいつもの祈りは、「寝たきりにならないように。」というものでした。高齢になられた方にとって、これは真剣な祈りです。しかし、この毎日の祈りにもかかわらず、この方は洗礼を受けて数年後に脳梗塞で寝たきりになってしまいました。訪ねていきますと、「神様は私の祈りを聞いてくださらなかった。」とよく恨み言を言われました。しかし、この方が寝たきりになりたくない一番の理由は、同居していた養女である娘さんに面倒を見て欲しくなかったからだったのです。同じ家に40年、50年一緒に住んでいながら、同じテーブルで食事はしない。本当に困った関係でした。ところが、この方が寝たきりになって、この養女の娘さんが本当に良く面倒を見られたのです。7年くらいにわたって、自宅でずっと面倒を見られた。そして、亡くなる少し前に、「私はぼけてきてしまって、あなたを産んだ時のことをどうしても思い出せない。覚えてないんだよ。ごめんね。」と養女の娘さんに言ったというのです。この娘さんは、私に嬉しそうに報告してくれました。この婦人は、寝たきりになりたくないという祈りは聞いてもらえなかったけれど、もっと良い物、養女の娘さんと本当の親子になるというもっと良い物を神様は与えてくださったのでしょう。

6.聖霊が与えられる
 イエス様は13節で「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と言われました。神様が祈りによって私共に与えてくださるのは聖霊です。これは少し分かりにくいかもしれませんが、祈ることによって、神様が共にいてくださること、すべての道にあって守り支え導いてくださっていること、私共を愛してくださっていることが分かるということです。そして、そのことによって、どんな時にも失うことのない希望、神様の御手の中にある明日を信じることが出来るということなのです。
 どうか皆さん、天の父なる神様に向かって、その力と愛とを信じて祈ってみましょう。祈り続けてみましょう。そこで必ず神様は出来事を起こし、わたしはここにいる、あなたと共にいる、あなたの愛するあの人もわたしは必ず守る、そのことを私共に分からせてくださいます。この祈りの道において、私共は決して失われることのない希望の道を歩むことが出来るのです。祈りたい。祈る人になりたい。そう思う方は、ぜひこの教会の礼拝に集っていただきたい。そうすれば必ず祈れるようになります。

[2011年10月16日]

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