1.預言者エゼキエル
今、水曜日の「聖書を学び祈る会」では、エゼキエル書を一章ずつ読み進めております。預言者エゼキエルは、第一次バビロン捕囚においてバビロンに連れて来られた人々の中にあって、預言者として立てられた人です。その時、エルサレムはまだ陥落しておりません。エルサレムの陥落と共に第二次バビロン捕囚が行われるのですが、エゼキエルはその前に預言者として召された。しかもエルサレムにおいてではなく、第一次バビロン捕囚によって連れて行かれたバビロンの地において、その捕囚された人々に神様の言葉を告げるために立てられたのです。
今お読み致しましたエゼキエル書第2章は、エゼキエルが預言者としての召命を受けた時に神様から与えられた言葉です。3〜5節「主は言われた。『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。』」さらに7節で「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」と告げられております。預言者エゼキエルは、神様によってバビロンに捕囚された神の民に遣わされるのですが、神様はバビロン補囚された人々を「彼らは反逆の家、恥知らずで強情な人々」だと言うのです。そして、そういう人たちなのだから、彼らがあなたが語る言葉を聞き入れるとは限らない。それどころか、あなたに対して敵対し、あなたをひどい目に遭わせるかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、「あなたはわたしの言葉を語らなければならない。」と告げられるのです。神様は、「わたしがあなたを遣わすのだから、人々はあなたの言葉を聞き入れる。」とは言われなかったのです。まことに厳しい召命の言葉です。エゼキエルは、この神様の言葉に従って、神様が語るようにと告げられた言葉を神の民に告げていきました。
預言者エゼキエルは、聞き入れられようと拒まれようと語らねばならないという、このあり様において、やがて来られるまことの救い主、主イエス・キリストを指し示したのです。主イエスもまた、人々が自分の語ることを聞き入れようと拒もうと、語らなければなりませんでした。神様は、御自身に似せて造られた人間がその本来の姿を失い、神様との親しい交わりから離れ、滅びへの道を突き進んでいくそのあり様をあわれみ、愛する独り子を世に送られました。しかし、人々はその神の独り子を受け入れず、十字架に架けたのです。主イエスは、自分がどこから来てどこへ行くのか、つまり、自分は誰であるのかをお語りになりました。その不思議な業をもってそのことをお示しになりました。しかし、人々はそれを受け入れませんでした。強情な民、反逆の家だったからです。それでも、神様はその強情な民、反逆の家の者を、見捨てず、愛し、逆にその独り子の十字架をもって救われたのです。そのことを思いますと、私共はパウロと共に「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」(ローマの信徒への手紙11章33節)と言わざるを得ません。最も罪深い、最もあからさまな神様への反逆の行為を用いて、神様は私共の救いの御業を成就されたのです。
2.父の許から来て、父の許に帰るお方
今朝与えられております御言葉において、主イエスは、自らがどこから来てどこへ行く者であるのかを語られました。しかし、それを聞いた人々は、何を語られているか分かりませんでした。
28節を見ると「すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。『あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。』」とあります。主イエスは、人々が自分の出身地をナザレであること知っている、確かにその通りだと言われたのです。主イエスは、ナザレ村の大工ヨセフの息子でした。人々はそれを知っていました。主イエスはその通りだと言われたのです。しかし、その後があります。28節後半〜29節「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」ここではっきりと、主イエスは、わたしをお遣わしになった方は真実な方である、と告げます。この「真実な方」とは「真理である方」と訳すことが出来ます。「真理である方」とは、つまり天地を造られたただ一人の神様しかおられません。さらに、「わたしはその方のもとから来た者である」と告げたのです。つまり、わたしは天地を造られた天の父なる神様のもとから来た、そう告げたのです。
また、主イエスは33節「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」と告げられました。主イエスは、自分をお遣わしになった方のもとへ、つまり天の父なる神様のもとへ帰ると言われた。これは、十字架・復活の後の昇天の出来事を指しているのでしょう。このように、主イエスはここで、自分は神様のもとから来た者であり、神様のもとへ帰る者であると告げられたのです。
主イエスは、自分がどこから来て、どこへ行く者なのかを知っておられました。つまり、主イエスは、自分が何者であるのかを知っておられたのです。神様のもとから来られて神様のもとへ帰られる方、それは神の独り子です。主イエスは、自らが神の子であることを知っておられ、そのことを人々に告げられたのです。しかし、人々は主イエスの言われていることが分かりませんでした。いや、正確には、はっきりとは分からなかったと言うべきでしょう。全く分からなかったのならば、何の反応もしなかったはずだからです。しかし、30節に「人々はイエスを捕らえようとした」とありますし、32節には「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」とあります。全く分からなかったのならば、主イエスを捕らえようともしなかったでしょう。人々は、主イエスが神の子、救い主であると自ら語っていることは分かったのです。彼らは、それを決して受け入れることは出来ないと思った。だから捕らえようとしたのです。とんでもない、神様を汚していると思ったのでしょう。しかし彼らは、神の子である救い主とはどういうお方であるのかは、よく分かりませんでした。ですから、主イエスの言葉をトンチンカンに受け取ったのです。
3.旧約からの救い主理解
主イエスの言葉を聞いた人々は、ユダヤ教の教えの中で生きていました。旧約聖書は神様が与えられた神の言葉です。ここには、確かに神様の救いの御計画が示されております。しかし、それは誰にでも分かるというものではありませんでした。旧約聖書は、主イエス・キリストというお方を指し示し、主イエス・キリストによってもたらされる救いを指し示しているものですから、主イエス・キリストというお方から見なければ本当の所はよく分からない、そういうものだったのです。ですから、主イエスがナザレの大工ヨセフの子であるということが分かりますと、27節に「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」とありますように、メシアは誰々の子であるというのが分かるはずがないのだから、これは違うだろうということになりました。また、今日の御言葉の少し先の所の42節には「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」とありますように、ベツレヘムに生まれるはずではないかという理解もありました。旧約聖書からは、この二つの理解が生まれたのです。
この二つは、実は矛盾するものではありませんでした。肉においてはベツレヘムでダビデの子孫として生まれるが、霊においては神様のもとから来られるからどこから来られるのか分からないという意味で、実に「まことの人にしてまことの神」ということを示していたのです。しかし、人々はそれが分かりませんでした。主イエスが、「わたしの出身地をあなたがたは知っている。その通りだ。しかし、わたしは神様のもとから来た。」と言うのも、そういう意味でした。しかし、この目の前にいる肉体をもった人間が、同時にまことの神、まことの神の子であるということは、旧約聖書からだけではとても理解出来るものではなかったのです。
ですから、主イエスが天の父なる神様のもとへ帰ることを言われたときも、一体どこへ行くというのか、ユダヤを離れ、当時ローマ帝国中にあった、ユダヤ人が集まって住んでいる所へでも行くのか、そんな風にしか理解出来なかったのです。この肉体を持った人間が、天の父なる神様の所に行くなどとということは、考えることも出来なかったのです。
4.信じるが故に分かること
彼らは確かに聞いたのです。しかし、分からなかった。それは何故なのか。それは、主イエス・キリストを「まことの神にしてまことの人」である神の独り子、救い主として受け入れず、信じなかったからなのです。キリスト教の歴史において、偉大な足跡を残したアンセルムスという人がおります。中世を代表する神学者ですが、この人の言葉に、「知解せんがために信ず」という言葉があります。神様について、救いについて、世界について、人間について、本当に深いところは、信じなければ知ることが出来ない。私は本当に知りたいので信じるのだ、という意味です。知ることが出来たから信じる、のではないのです。信じるが故に知ることが出来る。信仰の世界とはそういうものなのです。
私共は、今朝の聖書の箇所を読んで、ここでイエス様は自らが「まことの人にしてまことの神」であると語っておられる、ここでイエス様は十字架・復活の後の昇天について語っておられる、と分かるのです。どうして分かるのか。それは、主イエス・キリストを神の独り子、救い主として信じているからです。信じている者にとって、主イエスが語られていることは少しも難しくないのです。しかし、信じない者には、何のことだかさっぱり分からない、そういうことなのです。
この主イエスと人々とのやり取りは、確かに二千年前にエルサレム神殿において為されたものですけれども、これと同じことはいつの時代でもどこでも為されているものなのです。この主イエスの言葉が何を言っているのかさっぱり分からなかった人々は、まさに主イエスに救われる前の私共の姿そのものでしょう。私共も聖書を初めて読みました時、主イエスの言葉がさっぱり分からなかった。しかし、今は分かる。まことにありがたいことです。それは、私共が主イエスを信じ、主イエスの救いに与っているからなのです。主イエスの言葉が分かる、主イエスの言葉が通じるというのは、主イエスを信じ、主イエスの救いに与っているからです。主イエスの言葉というものは、ただ頭の中でこういう意味だと分かる、そのような分かり方はしないのです。この主イエスの言葉が示す事柄に、私共の救いが掛かっているからです。ですから、私共はこの主イエスの言葉を感謝と喜びをもって聞くことになるのです。
それはこういうことです。神の子イエスが、ナザレのイエスとして肉体を持ってこの世に来られた。それは、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになるためでした。主イエスの十字架が私共の救いとなるには、主イエスが私共の滅びの身代わりとなるのですから、主イエスは私共と同じ人間にならなければならなかったということなのです。そうでなければ、私共の身代わりにはなれません。また、十字架にお架かりになった方がただの人間なら、私共すべての人の身代わりとはなれません。ですから、主イエスはまことの神、神の独り子でなければならなかったのです。まさに、私共すべての人の救いのために、その罪の裁きの身代わりとなるために、神の子がそしてまことの人が、十字架にお架かりにならなければならなかったのです。主イエスが「まことの神にしてまことの人」であるということは、私共が主イエスの十字架によって一切の罪をあがなわれるために、どうしても必要なことだったのです。そのために主イエスは来られたのです。主イエスが「まことの神にしてまことの人」であるということが分かるということは、このことが分かるということですから、感謝と喜びなしに分かることは出来ないのです。
そして、主イエスが天に昇られたということは、私共がやがてどこへ行くかということを示しております。ヨハネによる福音書14章1〜3節には、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と、主イエスは自ら十字架にお架かりになる前の日に、弟子たちに告げられました。主イエスが天の父なる神様のもとへ帰られたということは、私共がやがて父なる神様のもとに召される道を拓いてくださったということなのです。主イエスが天の父なる神様のもとへ帰られるということは、主イエスだけのことではないのです。私共の救いがかかっているのです。私共の救いの道が拓かれたということなのです。実に、主イエスの言葉が分かるということは、私共に与えられた救いが分かるということであり、それ故、感謝と喜びをもって分かるということになるのです。
「自分はどこから来て、どこへ行くのか。」この問いは、「自分は何者か」という問いと根本的に同じです。人は、自分がどこから来てどこへ行く者であるのかを、本当のところでは知りませんでした。自分が何者なのか、人はよく知らなかったのです。ただ、主イエス・キリストは御存知でした。そして、それを私共に教えてくださったのです。この主イエスの知恵と知識は、私共が何者であり、私共に与えられる救いとはどのようなものであるかということを教えるものだったのです。
5.語り続ける者
預言者エゼキエルも主イエスも、まことに強情な、神様に向かって心を開くことが出来ない人々の中に、神様によって遣わされました。私共が初め主イエスの言葉を聞いても受け入れなかったように、預言者エゼキエルも主イエスもその語ったことが人々に受け入れられることはありませんでした。しかし、彼らは語ることをやめませんでした。それは、神様が、御自分の遣わした者を受け入れない民を、強情な反逆の家の者たちを、愛してやまなかったからです。神様は、強情な反逆の家の者たちを決して見捨てられてはいなかったからです。だから、神様は預言者を送り、まことの独り子である救い主を与えられたのです。彼らはこの神様の救いの意志を受けて遣わされたのです。だから、語るのを止めることはなかったのです。
私共が主イエスの言葉が分かるということは、この言葉を告げ知らす者として召されたということなのです。私共は、この富山の地にあって神様に遣わされた者として生かされているのです。私共が語る福音がなかなか伝わらない、教会に誘ってもなかなか来てもらえない、そういう現実もあるでしょう。しかし、神様はこの富山の地に住む一人一人を愛しておられ、私共を救い、私共を遣わされているのです。だから、私共もなかなか通じないという現実の中にあってなお語り続けるのです。語ることを止めるわけにはいかないのです。
来週の礼拝は伝道礼拝です。この為に、チラシもハガキも作りました。どうか皆さん、一人でも良い、必ず自分の愛する人、主イエスに出会って欲しい人を誘ってください。祈って誘ってください。決して諦めないでください。神様が諦めておられないのですから。それが、主イエスの言葉を喜びと感謝をもって分かるようにしていただいた私共の、今為すべきことなのです。
[2011年10月9日]
へもどる。