1.命を狙われる主イエス
ヨハネによる福音書を読み進めておりますが、今朝与えられた7章から主イエスが活動される場所が変わります。6章までは主イエスがガリラヤとエルサレムを行き来する中で語られたこと、為されたことが記されておりましたが、この7章から舞台はエルサレムとその周辺になります。それは11章まで続き、12章からは受難週の出来事が記されることになりますから、舞台はもちろんエルサレムです。ですから、この7章からヨハネによる福音書の最後まで、舞台はエルサレムということになります。そして、この7章からいよいよエルサレムにおける十字架に向かっての緊迫したやり取りが展開していくことになります。
それは、7章の1節「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」という所にはっきりと表れております。ユダヤ人たちが主イエスを殺そうとねらっていたというのです。このユダヤ人という言い方は、ヨハネによる福音書においては民族の名としてではなく、主イエスに敵対する人々、主イエスを殺そうとする人々、そういう人々を指す言葉として用いられています。具体的には、ファリサイ派の人々や祭司長、律法学者といった、当時のユダヤ教の指導者グループを指していると考えて良いでしょう。
主イエスが彼らに命をねらわれるようになったきっかけは、5章に記されております。主イエスは、エルサレムのベトザタの池で、38年も病気で苦しんでいた人を癒された。その日は安息日でありました。安息日というのは、モーセの十戒の第四の戒に「安息日を覚えてこれを聖とせよ。」とありますように、神様が天地を六日間で造られて七日目に休まれたことから、第七の日すなわち土曜日にすべての仕事を休んで、神様に感謝するための日として守られていました。この安息日を守るというのは目に見えることでしたので、具体的に何をしてはいけないかということが細かく規定されていたのです。その規定は、神様が定めたものではなく、ユダヤ教の伝統の中で決められていったものでした。主イエスはその規定をもちろん知っておられましたが、安息日に病人を敢えて癒されたのです。しかも、その癒された人に、自分の床を担いで歩かせたのです。多分、床を担いで家に帰らせたのだと思います。その床を担いで歩く主イエスに癒されたれ人を、ユダヤ人たちが見とがめまして、問題となったのです。主イエスは、安息日だからといって病気で苦しんでいる人を癒さないのが神様の御心にかなっているのか、そんなことはあり得ないと言うのですが、ユダヤ人たちは安息日規定を破るとは何事かと腹を立て、対立が生じたのです。しかし、そんなことぐらいで主イエスを殺そうとまでするだろうかと思われる方も多いと思います。そうなのです。これはきっかけであって、本当の理由はもっと別の所にあります。そのことについてこれから見ていくことにします。
2.仮庵祭
2節「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。」とあります。この仮庵祭というのはユダヤの三大祭りの一つで、この祭りを祝うために成人男子はエルサレムに上らねばならないことになっていました。三大祭りは、春の過越祭、その五十日後のペンテコステ、そしてこの仮庵祭です。これは秋の収穫感謝祭という性格を持っていました。レビ記23章を見ますと、「第七の月の十五日から始まる」ことになっています。第七の月というのは春分の日から数えますので、大体今の9月から10月になります。この祭りは七日間続きました。
仮庵祭という名は、この祭りの間、人々が仮庵つまり仮の小屋を作ってそこで生活したことから付けられました。この仮の小屋というのはちゃんとした材料を使っては駄目なのです。なつめやしの枝などを用いて作る、本当に仮の小屋です。これをどう説明しようかと考えたのですが、皆さんが子どもの頃に「隠れ家」のようなものを作って遊んだことはないでしょうか。私は小学生の頃に、近所の子どもたちと一緒に、竹藪の中に、その辺に落ちている竹の枝を集めて、一畳ほどの「隠れ家」を作ったことがあります。そんな感じのものだと思います。
イスラエルの民の先祖がモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野を40年にわたって旅したことを、この粗末な小屋で生活することによって覚える。それがこの祭りの目的でした。具体的な収穫によって神様が自分たちを養い、守って下さっていることを感謝すると共に、あの出エジプトの出来事という神様の救いの御業によって今の自分たちがある、神様の守りがあって自分たちはある、そのことを覚える祭りでした。
3.私の時・神様の時
この時、主イエスの兄弟たちが主イエスにエルサレム行きを勧めるのです。3〜4節「イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。』」これは一見もっともな言葉です。主イエスの兄弟たちは、主イエスが不思議な業を為し、神様からの言葉を語っているならば、みんなにそれを知ってもらわなければ意味がないではないか。そのためには、こんなガリラヤの田舎にいてはダメだ。神の民の都であるエルサレムに行って行動しなければ、誰も認めてくれやしない。しかも、祭りの時なら人々もイスラエル全土から来ているから好都合ではないかというわけです。
しかし、聖書はこの言葉に続いて、5節で「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」と記しています。どういうことなのでしょうか。主イエスはそれに対して、6節で「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」と答えています。「わたしの時」というのは、主イエスが救い主としてその本当の姿を現す時です。そしてそれは、十字架にお架かりになり復活する、その時を指しています。主イエスが誰であるのか、そのことが明らかにされるのは十字架に架かる時であり、それは神様がお決めになる時であって、その時はまだ来ていない。そう主イエスは言われたのです。一方、主イエスの兄弟たちは、この神様が定められた時というものがあることを知りません。自分の見通し、自分の判断、それで時を見ます。だから、今ユダヤに行け、エルサレムに上れと言ったのです。しかし、彼らは主イエスが誰であるのか分かっていませんでしたし、主イエスがまことの神の子であるとは信じていませんでした。主イエスは、神の子であるが故に、神様の時の中を生きなければならなかった。しかし、主イエスの兄弟たちは、自分の考え、自分の見通しだけで生きている。「神様の時」があることを知らない。だから、神様に従うのではなくて、自分の見通し、計画だけで生きている兄弟たちに主イエスは「あなたがたの時はいつも備えられている」と言われたのです。
私共はどうでしょうか。私共も神の子とされたということは、私共一人一人にも神様の時がある、神様の御計画というものがあるということ知っている者であるということであり、この神様の時というものを信じて今を生きる者とされているということなのでありましょう。確かに私共は、自分の見通しというものを持ちます。計画を持ちます。しかし、それは多くの場合、破れるのです。私共の人生は計画通りに進んでは行かないのです。けれど、私共はそれでもう駄目だとは考えないのです。何故なら、私の計画以上の計画、神様の御計画というものがあることを知っているからです。
4.世が主イエスを憎む理由1
さて、主イエスは7節で「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」と告げます。ここにユダヤ人たちが主イエスを殺そうとねらう原因が示されています。主イエスは、安息日に38年間も病気だった人を癒した。これは確かにユダヤ人たちの反感を買いましたが、これはきっかけです。本当の原因は、その癒しの業に伴って、主イエスが、安息日を守り自分たちは正しいと思っている人たちに対して、それは正しくない、神様に本当に従っているのでもないと指摘し、その人たちの嘘を明らかにしたからなのです。
このことは、主イエスが仮庵祭でエルサレムに上って神殿の境内で人々に教えていた時の会話にもはっきり表れています。21〜24節「イエスは答えて言われた。『わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。−もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが−だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。』」この一つの業というのが、5章で行われた38年間も病気でいた人の癒しの業を指しています。そして、あなたがたは安息日でも割礼を施していると指摘します。子どもが生まれるのは、日を選びません。割礼は出産後8日目に施されることになっていましたから、安息日が割礼を施す日に当たることも当然あるわけです。安息日は7日に一度来るわけですから、確率で言えば、単純に考えて7人に一人は安息日に割礼を受けることになるのです。そして、そういう場合には、安息日であっても割礼を施すことになっていたのです。主イエスは、それはおかしくないかと言われたのです。どうして割礼は安息日に行っても良いのに、38年間もの間病の中にいた人を癒すのは良くないのか。主イエスは、安息日に割礼を行うのがいけないと言っているのではありません。神様の民としてのしるし、神様の憐れみのしるしである割礼を施すのは、安息日であっても良いことだ。だったら、38年間もの間病の中にいた人を癒すことも、良いこととではないか。神様は、この38年間も病の中にいた人をあわれまないとでも言うのか。この人がいやされたことを神様があわれんでくださった喜びの出来事、恵みの出来事として、どうして一緒に喜べないのか。そう詰め寄ったのです。そして「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と言われた。あなたがたのやっているのは、うわべだけ見ての裁きだ。とても正しい裁きとは言えない。神様の御心を少しも分かっていないと言われたのです。
人は、自分の間違いを指摘されるとどうするか。防御します。この防御が、逆に相手への攻撃となる。売り言葉に買い言葉というのは、その辺のことをよく示しているでしょう。主イエスが殺されそうになった理由はここにあります。
5.世が主イエスを憎む理由2
このことを、さらに明確に告げているのが16〜18節「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」です。主イエスが神殿で人々に教え始められると、人々は主イエスの教えに驚いた。この人は神学校に行って学んだのでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろうと驚いたのです。それに対しての主イエスの答えがこれでした。
主イエスは自分を遣わされた方、つまり神様の教えを語っている。自分で考えたようなものでもないし、当時の律法学者が教えたように、有名なラビ誰々はこう言っているといって、誰かの考えを語っているのでもない。主イエスはまことの神の子であられますから、父なる神様の教えを、誰に教えてもらわなくても分かっておられる。当然のことです。人々は、この主イエスの権威ある、力ある教えに驚いたのです。
そして、大切なのはその次です。自分勝手に話す者、これは律法学者や祭司長など、当時のユダヤ教の指導者たちですが、「彼らは自分の栄光を求めている」と言い放ったのです。しかし、「わたしは神の栄光を求めている。神の栄光を求める者が真実な人なのであって、自分の栄光を求める者は真実な人ではない。」と告げたのです。
自分の栄光を求めるのか、神の栄光を求めるのか。私共、改革・長老教会の伝統として、ほとんど標語のようになっている「ただ神にのみ栄光あれ」という言葉を私共は耳にタコが出来るくらい知っています。しかし、知っているということと、そのように生きているというのは別のことです。
私は「神にのみ栄光あれ」という風に生きたいと願っています。しかし、なかなかそうではない自分の心の中を、この主イエスの言葉によって指摘されたと思うのです。私はどんな時に、自分はやっぱり自分の栄光を求めていると明らかになるかといいますと、それは自分が人から批判された時です。人から良く言われた時は、そんなことは感じません。ただ、いい気になって、いい気分になるだけです。「そんなことはありませんよ。」なんて言いながら、内心、満更でもないと思っている。しかし、人から批判されますと、すぐに防御反応が心の中に起きます。「この人は何も分かっていない」とか「あんたに言われる筋合いはない」などと思ってしまいます。実に、この心の動きの中に、自分はやっぱり自分の栄光を求めているのだということをはっきりと示されて、あ然とするのです。自分はやっぱり自分の栄光を求めている。神の栄光のためにと言っていても、心の奥底ではやっぱり自分の栄光を求めている。そう思うのです。ここで主イエスに批判されているユダヤ人たちと同じ心の動きが私の中にある。そのことを認めざるを得ないのです。そして、これは誰の心でも起きることなのではないでしょうか。だから、誰でも自らの罪を認めて、悔い改めて、神様に赦しを求めるしかないのです。
6.変化の途上の歩み
主イエスは、この私共の本当の姿をはっきりと示されるのです。しかし、勘違いしてはいけません。主イエスは単に、結局は自分の栄光を求めてしまう私共の姿を指摘して、やっぱりお前はダメな奴だと言っておられるのではないのです。それでは、主イエスはただ意地の悪い、嫌な人です。しかしそうではなくて、わたしはあなたのために、あなたに代わって十字架について、神様の栄光を求めないそのあなたの罪をすべて担う。そしてあなたを、本当に神様の栄光を求める正しい道へと導こう。それが神様の御心だから。そう言っておられるのです。神の栄光を求めるとは、自分の栄光を求めないということです。神様の栄光を求めつつ、自分の栄光を求めることは出来ません。「神と富とに兼ね仕えることは出来ない。」というのと同じです。そして、主イエスが「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり」と告げられたその真実とは、神様の御心に従うために自ら十字架につくというあり方で示されるものなのです。
しかし、私共は本当に「ただ神様の栄光だけを求める者」になれるのでしょうか。この地上の歩みにおいては、完全にはなれないでしょう。しかし、終末の時、主イエスが再び来られ、私共が復活して主イエスと似た者にされる時、私共は完全にただ神様の栄光だけを求める者となるのです。私共はその日に向かって、その姿に向かって、今日という日を歩むのです。この地上の私共の歩みは、その変化の途上の歩みなのです。
主イエスは、そのような途上にある私共に祈ることを教えてくださいました。そして、主の祈りを与えてくださいました。主の祈りの第一の祈りは、「願わくは御名をあがめさせ給え。」です。これは、御名があがめられますようにという祈りであり、神様の栄光を求める祈りです。私共は、主イエスに教えていただくまで、このような祈りを知りませんでした。自分の願い事ばかりしていた、つまり自分の栄光ばかりを求めていた者でした。そのような私共に主イエスは主の祈りを教え、自分の栄光を求める道から神の栄光を求める道へと、私共を招いてくださったのです。主イエスがここで私共の罪をはっきりと示されたのは、私共が悔い改めて、新しく神様の栄光を求める者として生き直すことが出来るようにするためだったのです。
私は、自らの栄光を求める自分の姿にあ然としながらも、失望しません。何故なら、主イエスがただ神の栄光を求める道を私共のために開いてくださったからです。私共は、不十分ながらもその変化の途上にあるのです。その明確なしるしが、私共に与えられている主の祈りなのです。この主の祈りに導かれ、主イエスが与えられた新しい祈りの生活の中で、私共は変えられ続けていくのです。ここで求められることは、自らの罪を否定して主イエスを亡き者にしようとしないということです。主イエスの指摘を受け入れ、悔い改め、新しい歩みへと導いてくださいと祈ることなのです。今、心を合わせ、声を合わせ、主をほめたたえたいと思います。この主をほめたたえる賛美の中に、私共の新しい歩みの始まりがあるからです。
[2011年10月2日]
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