富山鹿島町教会

礼拝説教

「裏切り」
列王記 上 11章1〜13節
ヨハネによる福音書 6章60〜71節

小堀 康彦牧師

1.知恵あるソロモン王の過ち
 旧約聖書において最も知恵ある人は誰かと問われれば、多くの人がソロモン王と答えるでしょう。また、イスラエルが最も繁栄した時代はいつかと問われれば、やはりソロモン王の時代と答えるでありましょう。最も知恵があり、最も富を得た人、それがソロモン王でありました。ダビデ王によって領土を広げたイスラエルは、次のソロモン王の時代に、その繁栄の頂点に達したのです。彼は、神様から何が欲しいかと問われ、知恵を求めました。神様はそれを良しとして、他に比べる者がないほどの知恵を彼に与えました。彼は正しい裁きをなし、彼の知恵を聞くために世界中から多くの人がやって来ました。彼は王宮を造り、エルサレム神殿を造りました。貿易を盛んに行い、その富は数えることが出来ないほどでした。彼ほど神様に祝福された者はいないと言っても良いほどの人でした。
 ところが、先程お読み致しました列王記上11章において、そのソロモンが、一転してまことに愚かな王となってしまうのです。彼は七百人の王妃と三百人の側室を持ち、彼女たちが持ち込んだ他の神々に心を向かわせてしまったのです。4〜6節「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神ミルコムに従った。ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。」とある通りでした。彼の知恵も彼の富も神様が与えたものでした。それなのに彼は道を外れ、主の目に悪と見られることを行ったのです。具体的には、他の神様を拝んだのです。神の民でありながら、十戒の第一の戒、第二の戒を破ったのです。どうしてこんなことになってしまったのか。彼は貿易で利益を得るために諸外国の王の娘たちと結婚しました。その妃たちが王宮の中に他の神々を持ち込んだのです。ソロモンはそれを止めることはせず、かえって自分の方がそれらの神々に心を奪われてしまったのです。
 先日、家庭集会でこの箇所が当たった時、出席していた女性の方々は口々に「だから男はダメなのよ!」と言いまして、何故か私が男性の代表のようになって、皆がソロモンのようであるわけではないなどと、男性を弁護することになってしまいました。もちろん、誰もがソロモンのようになるわけではないでしょう。しかし、ソロモンが遭った誘惑というものは、誰もが経験するものなのだと思います。そして、その誘惑に対しては、類い希なソロモンの知恵をもってしても対抗出来ないのだということなのであります。
 信仰の道における誘惑とは何か。それはそんなに難しく考えることはないのであって、普通に考えればすぐに分かることです。それは富であり、性の問題です。これは欲と言い換えても良いだろうと思います。目に見えるこの世の自分の欲を満たすもの、それが私共の心に働いて、私共の心を神様から引き離してしまうのです。それは、いつの時代でも誰の心にも働きかけるものなのです。主イエスが「神と富とに兼ね仕えることはできない。」と言われたとおりです。この富というところは、地位、名誉、仕事、家庭など、何でも私共の心を引き付けるものに置き換えることが出来るだろうと思います。

2.主イエスから人々が離れる
 ヨハネによる福音書を読み進めておりますが、この6章は五千人の給食の奇跡で始まりました。その時主イエスの周りには、男性だけでも五千人ですから、女性と子どもを加えれば一万人以上の人がいたのです。目に見えるパンを与えるという時、人々は主イエスの周りに数え切れないくらい集まっていたのです。ところが主イエスが、御自分が誰であるかということを明らかにされるにつれて、人々は主イエスのもとから去っていきます。41節からユダヤ人が出て来て、主イエスの言葉につぶやきます。主イエスにつまずくのです。そして今日の60節の所で、弟子たちの多くの者が「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言ってつぶやき、主イエスにつまずくのです。66節には「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」とはっきり記されております。そしてさらに、弟子の中の弟子である十二人の中にも主イエスを裏切る者、イスカリオテのユダが出るのです。主イエスの周りにいた一万人以上の人々が次々につまづき、主イエスを離れていき、いつの間にか周りには十二弟子しかいなくなります。そして、その中の一人にまでも裏切られるというのです。
 どうしてこういうことになってしまったのか。それは、主イエスが与えるものと人々が求めるものが違っていたからなのでしょう。目に見えるパンが与えられる時、人々は主イエスについて来た。ついて来るどころか、王にしようとさえしたのです。しかし、主イエスが与えるものが永遠の命であり復活の命であることが知らされると、人々は主イエスにつまずき始めたのです。
 これはいつの時代でも同じでしょう。人々は具体的な問題・課題を持って教会に来ます。信仰によって、主イエスを信じることによって、その問題・課題が解決されると思う。そのことを願う。しかし、それが解決してしまえば、もうイエス様は必要ないとなる。あるいは、その問題がなかなか解決されないとなると、イエス様では効き目がないということになって、心はイエス様から離れてしまう。そういうことが起きるのであります。

3.目の前の課題を乗り越えていく力
 誤解しないで頂きたいのですが、主イエスは、私共が人生で出会う一つ一つの問題や課題を、どうでもよいものとして捨てておかれるのではないのです。ですから、空腹となった一万人以上の人々にパンを与えられたのです。私共が出会う人生の様々な問題を主イエスは真剣にしっかりと受け止めてくださり、それに対しての解決の道をも拓いてくださるのです。しかし、それがすべてではない。それ以上のものを与えてくださる。これさえあればどんな困難も乗り切れる、そういう力ある希望、生きる力、まことの命を与えてくださる。それが永遠の命であり、復活の命なのです。
 週報にありますように、一昨日、富山地区の信徒修養会が行われました。K教会のY牧師が講師でした。先生は、幼い時に受けた予防接種の副作用で、てんかんになってしまいました。小学校の体育の時間は別メニューで、自分は他の人と違うという劣等感を強く持っていたそうです。しかし、主イエス・キリストと出会った。そして、変えられたのです。今も薬を常用されていますけれど、薬を飲んでいれば車の運転も出来るまでになられています。先生は主イエスと出会い、自分が神様に愛されたかけがえのない存在であることを知らされた。そして、この方と生涯生きていこうと思い洗礼を受けたと証ししてくださいました。
 主イエスは、一人一人が抱えている具体的な問題・課題を引き受けられ、道を開かれ、新しく生きる力と勇気とを与えてくださるのです。しかしその時、私共の眼差しは、目の前の問題・課題を突き抜けて、神の御国へと向けられるようになるのです。そして、その眼差しを与えられることによって、私共は目の前の問題・課題を乗り越えていくことが出来るのです。

4.永遠の命を与える主イエスにつまずく
 主イエスは、御自身が「天から降って来た命のパンである」ことを人々に語られました。それは、主イエスが人々を永遠の命に至らせるために天から降って来た方であり、この方との交わりに生きる中で私共は永遠の命を得るのだということであります。主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲むという言い方で、主イエスは御自身との命の交わりをお語りになったのです。弟子たちの多くは、それを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやきました。
 弟子たちの多くは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6章54節)という主イエスの言葉につまずいたのですが、それはこの主イエスの言葉の表現、肉を食べ血を飲むという言い方につまずいたように読めます。そう読むことも出来るかと思いますが、私はそうではなくて、主イエスが永遠の命を与えることが出来ると言われたこと、そのことにつまずいたのではないかと思うのです。彼らは主イエスが言われていることが全く分からなかったのではなくて、何となく分かった。しかし、それは彼らが求めているものではなかった。だから、彼らはつぶやき、つまずき、受け入れることが出来なかったのだと思うのです。
 主イエスは、弟子たちのつぶやきに気づいて言われました。61〜62節「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」最後が「……」で終わっているのですが、これはその後に否定が続くのか、肯定が続くのか、意見が分かれます。私はこう読むのが良いのではないかと思います。主イエスは、御自身が永遠の命を与えるために天より降って来られた神の御子であることを示されたのですが、人々は受け入れない。では、わたしが十字架に架かり、復活し、昇天するのを見るならば、あなたがたは信じられるようになるのだろうか。いや、それでもやっぱり信じるようにはならないのだろう。そんなニュアンスではないかと思います。
 63節「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と続きますが、主イエスが問題にしているのは、徹底的に永遠の命なのです。この世の命、肉体の命ではないのです。霊の食物であって、肉体を養う食物ではないのです。この永遠の命を与えるのは”霊”なのです。この”霊”は聖霊を意味します。ただの霊と区別をするために、翻訳において” ”を付けているのです。主イエスは、その言葉において、御自身が誰であり、私共にどのような希望があるのかを語られました。この主イエスの言葉と共に聖霊が働いてくださり、その言葉を聞く者に信仰が与えられ、永遠の命へと導かれていくのです。この私共の救いのプロセスは、主イエスの時代から現在に至るまで変わりません。主イエスの言葉が、聖霊なる神様のお働きの中で、聖書の言葉を通して私共一人一人に告げられ、私共に信仰が与えられるのです。このプロセスにおいて、神様は強制力という力の用い方をなさいません。私共が自らそれを受け入れ、信じるということに任されるのです。

5.神様の御前における自由と責任
 ここで、いささか難しい問題にぶつかります。64節「『しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。』イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。」とあります。イエス様は初めから、誰が信じ、誰が信じないかを知っておられた。しかも、65節で「そして、言われた。『こういうわけで、わたしはあなたがたに、「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言ったのだ。』」とありますから、人間が信じるのには父なる神様の許しがなければならないのです。とするならば、誰が信じ、誰が信じないのかは、神様が勝手に決めて、勝手に信仰を与えているのだから、人間に責任はないではないかということになるのではないか。さらに、70節を見ると、「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』」とあります。すべてを知った上で主イエスは十二人を選んで、その中のユダが裏切った。これも、全部神様が仕組んだことなのではないか。ユダを「悪魔だ」と言うのは、あんまりではないか。そんな風に考える人も出て来るかもしれません。
 実は、これはアダムとエバの罪の問題にまで遡ることです。神様は、アダムとエバが食べるなと禁じておられた木の実を食べてしまうことを知っておられた。それなら、どうして食べてはいけない木を、アダムとエバの手の届くところに置いていたのか。アダムとエバは悪くない。そういう考えです。
 しかし、ここで私共は自由と責任というものを忘れてはならないのです。もし私共に自由も責任もないのであれば、すべては神様のお見通しという中で、機械的に私共の運命は決まっているということになります。アダムとエバの罪も、ユダの裏切りも、本人のせいではない。全ては仕組まれていたことだ。そう言えるでしょう。しかし、私共には自由が与えられているのです。
 神様は私共に自由を与え、その自由を神様に従うために用いることを求めておられるのです。そして、それに応える責任が、自由を与えられている私共にはあるということなのです。神様は私共の弱さを知っておられます。どんなに誘惑に弱いか、目に見えるものしか頼ることをしないか、欲に引きずられていくか、私共以上に良く知っておられます。しかし、それにもかかわらず、神様は私共に自由を与え、なおも期待されるのです。私共がその自由を、神様に従い神様と共に生きるために用いることを、そして目に見える誘惑を退けて永遠の命に至ることを期待しておられるのです。

6.あなたも離れて行くのか?
 主イエスは、一万人以上いた人々が自分から離れ、弟子たちの多くの者が自分につまずき、十二弟子の中からさえも裏切ることを御存知でした。何と主イエスは悲しみの道を歩まれたのかと思う。主イエスの周りに、信頼に足る者は一人もいなかったのです。この人は自分を裏切る。そのことを知っていて、私共はその人を愛することが出来るでしょうか。しかし、主イエスはすべてを知った上で弟子たちを愛し、共に歩まれました。それは、人の子となった神の御子が、たとえすべての人間が神様の御前にその自由と責任を放棄しても、御自身が最後の一人として、まことの人間として歩まねばならないということを知っておられたからです。主イエスは、たった一人になっても神様と共にあることをやめません。神様の愛を具現する者としての歩みを止めません。それは、ここに神様と共に生きる、新しい人間の出発があるからです。主イエスは、罪に死んだアダムとエバに代わって永遠の命に至る、新しい最初の人となるために来られたからです。
 主イエスは、多くの弟子たちが自分を離れ去った後、十二弟子に問いました。67節「あなたがたも離れて行きたいか。」これは、「どうせ裏切るだろう。」ということではなくて、「あなたたちは裏切らないね。」という期待を込めた問いなのです。ペトロは答えます。68〜69節「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」これは、ヨハネによる福音書が記す信仰告白です。ペトロはこのように立派な信仰告白をいたしますが、皆様も御承知のように、このペトロもまた、主イエスが捕らえられ十字架にお架かりになる前に、三度主イエスを知らないと言うのです。主イエスは、この時、この告白をしたペトロも自分を裏切ることを御存知でした。しかし、このように問うたのです。ペトロがこの告白をした時、彼の心に嘘はありませんでした。本当にそう思ったのです。しかし、裏切った。自分の身が危険にさらされた時、ペトロは自分の身を守って、主イエスを裏切ったのです。
 主イエスはそのことを承知の上で、「あなたがたも離れて行くのか。」と問われたのです。それは、ペトロたちに期待したからです。その自由を、御自身と歩むために用いることを期待された。信仰とは、主イエスと共にあること、共に歩むこと、共に生きることです。しかし、その志は破れるのです。主イエスはそのことを承知しておられました。その上で主イエスは問うのです。それは、「その破れにわたしが立つ。その破れをわたしが担い、十字架に架かる。だから、恐れることなく我に従え。」そう促しておられるのです。
 私共も「主イエスを信じます。」と告白します。「主イエスと共に歩みます。」と心に決めて歩み出す。しかし、しばしばその歩みは破れるのです。知恵に満ちたソロモン王でさえ、その道を全うすることが出来なかったのです。しかし、その破れに主イエスが立ってくださる。十字架に架かって立ってくださる。だから私共は、自らの弱さを言い訳にせず、力の限り「主よ、あなたを離れてどこに行きましょう。」と言いつつ、主イエスと共に歩んでまいりたいと願うのです。自らの弱さも、愚かさも、絡みつく罪もかなぐり捨てて、主イエスと共に歩んでまいりたい。そう心から願うのです。

[2011年9月25日]

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