富山鹿島町教会

礼拝説教

「天から降って来た命のパン」
出エジプト記 16章1〜5節
ヨハネによる福音書 6章41〜59節

小堀 康彦牧師

1.信仰による眼差し
 週報にありますように、昨日、教会員のTさんがFさんとここで結婚式を挙げました。その時もお話ししたことでありますが、私が結婚式の説教の中で必ず話すことにしていることの一つは、結婚というものは神様の御業であるということです。神様が二人に命を与え、二人を出会わせ、二人に結婚への思いを与え、結婚へと導かれたということです。世の人は、自分がこの人を好きだから結婚すると考えているかもしれません。もちろん、好きだから、一緒にいたいと思うから結婚するのでしょう。しかし、それがすべてではありません。それがすべてであるならば、結婚というものはまことに危うい関係だと言わざるを得ないでしょう。人の心は移ろいやすいからです。しかし、神様がお決めになり、神様が導いてくださったものならば、それは決して揺らぐことのない確かな交わりとなるのではないでしょうか。ここに私共の結婚の基礎、根拠があります。
 この結婚ということを始め、私共の人生は、実に不思議な出会いに満ちています。人は、自分で出会いを生み出すことは出来ません。出会いは神様が与えてくださるものです。私と皆さんとの出会いもそうです。神様が出会わせてくださった。だから、お一人お一人との出会いを大切にしたいと私は思うのです。
 見える出来事の中に、見えざる神様の導き、御計画というものを見る。それが、信仰による眼差しというものでしょう。私共は、この教会に集い御言葉を受けていく中で、この信仰による眼差しというものを与えられていきます。今まで偶然、たまたまとしか思わなかったこと、あるいは、自分が決めて自分が努めてそうしてきたとしか考えていなかったことも、神様が導いてくださったからと思えるようになるのです。
 その最たるものが信仰です。私共の信仰は、神様が私共に与えてくださったものです。神様が、私共に信仰を与えると決めてくださり、不思議なように私共を教会へと導いてくださり、信仰を与えてくださったのです。これは本当のことです。しかし、私共は最初からそう考えていたわけではありません。最初のきっかけは、友人に誘われてということだったかもしれませんし、単にキリスト教ってどんなものだろうという興味だったかもしれません。両親が教会に来ていたので、物心が付いた時には教会にいたという人もいるでしょう。きっかけは人それぞれです。でも、自分から教会に来る、来てみようと思わなければ、信仰の歩みは始まらなかったでしょう。日曜日の朝、他にやること、やれることを捨ててここに集まった。それは確かなことです。私が決めて、私が来たのです。それは間違いないことです。しかし、このような理解の仕方に、信仰の眼差しはありません。私共は皆、そのように考えていたけれど、信仰が与えられて今から振り返ってみると、信仰による眼差しの中で、あれもこれも、神様の導きだったということに気付くのでしょう。
 主イエスは今朝与えられた御言葉の中で、こう告げられました。44節「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」ここには、信仰というものが神様によって与えられるものであることがはっきり示されています。この「わたしのもとへ来る」というのは、ただイエス様のところに来るということを意味しているわけではありません。イエス様を神の子と信じる者になるということです。信仰が与えられるということです。父なる神様が私共を主イエスの下に引き寄せてくださらなければ、私共は信仰を得ることは出来ない、信仰が与えられることはないのです。

2.二つのつぶやき
 主イエスがこのことを告げられたのは、主イエスが「わたしは天から降って来たパンである。」と言われると、それを聞いた人々がつぶやき始めたからです。41節を見ますと、主イエスの言葉を聞いてつぶやき始めた人々は「ユダヤ人たち」であったと記されています。ヨハネによる福音書は、この「ユダヤ人」という言葉を、単に民族を指す言葉としてではなく、主イエスを信じない人々、主イエスに敵対する人々という意味で使っています。ここでもそうです。
 この時、主イエスの言葉を聞いてつぶやいた人々は、二つの点で主イエスの言葉につまずきました。第一に「天から降って来た」というところ、第二に「パンである」というところです。第一のつぶやきは42節にあります。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」第二のつぶやきは52節にあります。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか。」この主イエスの言葉を信じられない、主イエスを信じられない理由は、主イエスが語られた事柄が、見えない世界、霊の命、永遠の命、神様の御心というものを指し示していたからです。主イエスの言葉につぶやいた人々は、目に見える世界の事柄、自分が今まで身につけてきた常識、そういうものの中で主イエス御自身を、また主イエスの語られることを理解しようとしたのです。しかし、主イエスはこの世の常識の中にある方ではありませんでしたので、彼らは理解できず、受け入れることが出来ず、つまずいたのです。
 もし、主イエスが単に目に見える世界の愛の教えを語る、不思議な力も持っている、そういう偉い人、立派な教師というだけならば、主イエスの言葉を聞いた人々は、主イエスの言葉につまずくこともなかったし、主イエスを受け入れることが出来たと思います。それどころか、自分たちの王に仕立て上げたことでしょう。しかし、主イエスが語られたことは、人々の常識の範囲のことではなかったのです。ですから、人々はそれを受け入れられず、つぶやいたのです。
 主イエスが私共に与えてくださる救いというものは、私共の常識を超えているのです。主イエスというお方自体が、私共の常識を超えているからです。ですから、私共が主イエスを信じるという出来事は、私の決断とか、私の理解力とか、私の宗教的熱心とか、そういうものによって手に入れることが出来るものでは決してないのです。主イエスの言われることが分からない。主イエスというお方が分からない。それは当然のことなのです。ここで主イエスにつまずいた人々、主イエスを信じられなかった人々は、特別に罪深い人、特別に不信仰な人ということではなかったのです。彼らは、当たり前の人たちであり、まことに普通の人たちだったのです。

3.第一のつぶやき
 この人たちの目の前にいる主イエスは生身の人間です。彼らは、主イエスの父親は大工のヨセフだ、母親はマリアだと知っているのです。それなのに、「わたしは天から降って来た」と言う。そんなことはないだろう。ナザレの大工ヨセフの息子ではないか。人々はそう思ったのです。第一のつぶやきです。私もその場にいたら、ユダヤ人と同じように思っただろうと思います。確かに、主イエスはナザレの村の大工ヨセフの息子なのです。しかし、主イエスは自ら「天から降って来た」と言われるのです。更に主イエスは、46節で「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と言われます。これは何を意味しているのでしょうか。これは明らかに、主イエスが天地を造られた神様の御子であるということを示しているのでしょう。天におられた御子が、大工ヨセフの息子として世に来たということです。主イエスはヨセフの子という人間でありますが、同時に神の子である。天におられる神と共におられた神の子であるが、人である。「まことの神にしてまことの人」であると告げられたということです。
 人々はこれを受け入れられず、つぶやいたのです。このつぶやきは、主イエスを信じる前の私共のつぶやきでもあります。聖書を読み、説教を聞いても、どうして死んだ人間が生き返るのか、どうして五つのパンと二匹の魚で五千人もの人が満腹になるのか、どうして処女マリアから子が生まれるのか、そんなバカなことがあるわけないではないか、そう心でつぶやいていた。それなのに、何故か今は、イエス様は天地を造られた神の御子、神様なのだから、それくらいのことをするのは朝飯前だろうと思っている。どうしてこんな変化が起きたのでしょうか。信仰が与えられたからです。聖霊なる神様が働いてくださって、不信仰な私共を、信じる者にしてくださったからです。私共が主イエスを信じている。このことこそ、生ける神様の御業が今も為されていることの確かな「しるし」に他なりません。父なる神様が私共を引き寄せてくださったからなのです。

4.第二のつぶやき
 さて、第二のつぶやきですが、主イエスは御自身のことを「命のパン」「天から降って来た生きたパンである」と言われました。52節で「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか。」と人々は言うのですが、これも常識から言って普通の反応でしょう。パンは、人が生きていく上で、なくてはならないものです。これを食べなくては人は生きられない。主イエスは、それと同じように、わたしを食べなければ永遠の命に生きることはできない、と言われたのです。主イエスは、我々の肉体の命を保つためのパンと言われたのではなく、永遠の命を得るためのパンだと言われたのです。しかし、ここで現在の命、肉体の命にしか心が向いていない人は、これが何のことかさっぱり分からないのです。主イエスが私共に与えようとしてくださっているのは、永遠の命であり、復活の命なのです。主イエスは永遠の命のパンですから、主イエスの肉を食らうと言っても、直接主イエスの体に食らいつき、食べるということではないのです。
 53節で「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」と主イエスは言われます。ここで、命のパンを食べることは、主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲むことであると言われます。そしてそれは、54、55、56節においても語られます。ここで使われている「食べる」という言葉は、動物がエサを食べるようにガツガツ食べるというニュアンスの言葉なのです。強烈な表現です。キリスト教が日本に入って来ました時に、キリスト教は人間の肉を食べ、人間の血を飲む、とんでもない宗教だと言われたことがあります。これと同じ批判はローマ帝国時代にもありました。救いと言えば病気が治ることであり、命と言えばこの肉体の命しか思い浮かべることの出来ない人には、これらの言葉は、全く何を言っているのか分からないことなのでしょう。
 主イエスは、この命のパンを、出エジプトの際に神様が神の民イスラエルを養われたマンナと比較して語ります。49〜50節「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。」40年にわたって、出エジプトの荒れ野の旅で神の民を養い続けたマンナ。実にこの奇跡は、神様が、神の民を養い守るということをはっきり示してくださった出来事でした。奴隷の地エジプトから、約束の地、救いの地へと導いてくださる神様の、具体的な守りと支えでした。しかし、主イエスは、そのマンナを食べた者も死んでしまったと告げます。マンナは肉体の命を養うものだったからです。そして、主イエスはここで「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(51節)と言われるのです。この命のパンは、マンナが奴隷の地エジプトから神の民を約束の地に導く荒野の旅の間中養い続けたように、私共を罪の奴隷の状態から救い出して永遠の命が備えられている神の国までの信仰の旅の間中、私共を養い続ける霊の食物なのです。

5.聖餐の恵に生きる
 ここには聖餐という言葉は全く使われておりません。しかし、このヨハネによる福音書が書かれた当時、これを読み聞かされた人々は、これが聖餐を示しているということを間違いなく聞き取ったと思います。福音記者ヨハネは、この主イエスの命のパンの言葉に、聖餐の意味と意義を重ねたのです。ヨハネによる福音書には、他の福音書と違って最後の晩餐の場面における聖餐制定の記事はありません。しかし、そのことを根拠に、ヨハネの教会においては聖餐は重要ではなかった、そんな風に言うことは全くの間違いです。ヨハネはここで、聖餐という言葉を用いずに聖餐を守っていた教会の人々に、この聖餐に与り続けることによって永遠の命に至る、終わりの日の復活に与るのだと告げているからです。
 しかし、確かに聖餐を特定する言葉は用いられていません。それは、この聖餐に与るということが、単に聖餐のパンと葡萄液を飲むことによって自動的に永遠の命に至るということではなくて、主イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むという、キリストとの命の交わりに与るということなのだということを示そうとしたからなのでしょう。主イエスのもとに来るということは、主イエスを信じることであり、主イエスを信じる者は、主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲むという、命の交わりに入ることなのだ。信仰はなくても聖餐に与れば良い、そんな魔術的なことではないのです。このキリストとの命の交わりに与り続けることによって、救いの完成としての復活の命に与る日まで、私共の信仰の歩みが保持される。そのことをヨハネは語りたかったのでしょう。
 聖餐というものは魔術・呪術のたぐいではありません。何でも良いから、食べて飲めば効き目があるということではないのです。この聖餐は、主イエスは何者なのか、主イエスは何を為してくださったのか、そのことを心に刻み、この主イエスを信じ愛する者として生きていく、その新しい歩みが始まるところなのです。
 聖餐に与る時、キリスト御自身が私共の中に入ってくださいます。しかしこれは、私共がキリストの中に生きるようになるということでもあるのです。56節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」とある通りです。主イエス・キリストとの交わりは目には見えません。しかし、私共の一日一日の歩みのすべてがこの方の中にあり、この方が私共の中に宿ってくださって、すべてを支配してくださる中での歩みなのです。私共が主イエスを愛する前に、神様が私共を捕らえてくださり、主イエスのもとに引き寄せてくださり、信じ得ないことを信じることが出来るようにしてくださり、信仰の養いを与え続けて、キリストの肉と血とに与って神の国への旅路を全うすることが出来るようにと支えてくださっているのです。主イエスが、そのようにすべてを備えて私共の信仰の歩みを支えてくださるのですから、私共は安んじて歩んでいけば良いのです。
 洗礼を受ける前、私共は、本当に生涯信仰を守っていけるだろうか、そう思ってためらうことがあったのではないでしょうか。確かに、信仰が私の気持ちや生き方の問題であるならば、環境が変われば気持ちも変わってしまうでしょう。自分で信仰を生涯保つなどという自信は、とても持てないと思います。しかし、信仰とは、父なる神様が私共をその全能の御腕で主イエスのもとに引き寄せてくださることによって与えられ続け、主イエスの肉を食べ血を飲むという命の交わりの中で養われ続け、支えられ続けるものなのです。だから安心して良いのです。この肉体の命を超えた永遠の命を私共に与えること、それこそが父なる神様の御心なのであります。
 この御心の中で生かされている恵みの現実を感謝し、この一週もその恵みの中を共に御国に向かって歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2011年9月18日]

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