1.何が私共の幸せなのか
以前、大学の学生たちに聖書の話をした時のことですが、話しをする前に全員に「三つのお願い」を書いてもらったことがあります。「今あなたの願いが三つ叶うとしたら、あなたは神様に何をお願いしますか。」というものです。講演の直前でしたから丁寧に集計することは出来ませんでしたけれど、1.恋人が出来るように、2.車の免許あるいは車が欲しい、3.試験に合格するように、4.就職先が見つかるように、5.お金持ちになる、といったところではなかったかと思います。これは二十歳前後の若い人たちに聞いた場合ですが、もう少し年齢が上になれば、家が欲しいとか、子供が健康であるように、というようなものが入ってくるでしょうし、さらに年齢が上がれば、自分の健康というものが入ってくるのだろうと思います。皆さんなら何と答えるでしょうか。
この「三つの願い」を書いてもらった意図は、このお願いの中に、自分が幸せだと考える姿や、自分がそれを得ようと生きる目的のようなものが表れる、と思ったからです。
人生の目的とは何か。人間の幸せとは何か。これは大問題ですが、学校では教えてくれませんし、考える機会さえあまりないのかもしれません。宗教改革者カルヴァンが青少年のために記した「ジュネーブ教会信仰問答」は、「あなたの生きる主な目的は何ですか。」という問いで始まります。その答えは、「神を知ることです。」です。続いてまた、「最高の幸福は何ですか。」という問いに対して、「それも同じです。」と答えるのです。つまり、神を知ることですということです。この「神を知ること」というのは、単に神様がいるとかいないとかというようなことを知るというのではありません。神様をあがめ、神様を愛し、神様に従うというあり方で神様を知るということです。つまり、「神様を信じること」と言い換えても良いのです。これは実に驚くべき答えではないでしょうか。実に、信仰による知恵に満ちた答えです。宗教改革者カルヴァンは、これから社会人として巣立っていく青年たちに、神様を信じるという人生の目的、人生最高の幸せを見失わないで歩んで欲しい、そのことを何より願ったのでありましょう。これは、子を持つキリスト者である私共は、皆同じ願い、思いを持っているのではないかと思います。
2.主イエスと人々とのズレ
しかし、この信仰の知恵に満ちた答えは、いつの時代、どの場所においても、人間が自然に抱く思いとは違っていると言って良いでしょう。人間は、放っておけば、自然にその様に思うようになるということはないのです。さっきの「三つの願い」ではありませんが、目に見える何かを手に入れることによって自分は幸せになる。それを手に入れるために生きる。そうなってしまうものなのです。そして、それが実現されるようにと神様にお願いする。神様は、自分の願いや自分の欲を満たすために働いてくれれば良い。そんな風に思ってしまう。しかし、聖書によって私共に語りかけてくださる神様は、そのような私共の願いを叶えてくれるために存在している神ではないのです。そうではなくて、私共の願いそのものを変えてしまう、自分の罪に満ちた欲望から私共を自由にし、全く新しい命へと導いてくださるお方なのです。
ヨハネによる福音書を共々に読み進めておりますが、この福音書には、主イエスと人々、あるいは主イエスと弟子たちとの対話がいくつも記してあります。ところが、その対話というのがトンチンカンと申しますか、かみ合っていない、両者が全くずれていることが多いのです。この対話のずれの一つの大きな原因は、人々が神様に求めていることと、神様が人々に与えようとしていることの間に、全くかみ合わないほどの大きなずれがあるということなのです。
先程の「三つの願い」のように、恋人が欲しい、就職先が欲しい、試験に合格出来るように、と思って神社にお参りする人は多いでしょう。神社にはそんな願い事を書いた絵馬がたくさんあります。しかし私共は、今朝ここに、そのような願い事を叶えてもらおうとして集っているのではないでしょう。もちろん、私共一人一人は、日々の生活の中で様々な課題を持っています。その解決を主なる神様に願い求めています。しかし、だからここに来たというのではなかろうと思うのです。自分の願いを叶えるためではなく、神様の言葉を、神様の御心を求めてここに集ってきたのです。
3.主イエスを王に
さて、今朝与えられております御言葉は、パンをめぐる主イエスと人々との対話が記されております。ここで、主イエスと話をしている人々は、6章の始めに記してある五千人の給食という奇跡に与った人々でした。この五千人の給食については先々週見たところですから繰り返しませんが、成人男子だけで五千人、女性と子どもを加えれば一万人以上の人々が、五つのパンと二匹の魚で満腹したという出来事です。これは大変な奇跡でした。6章14節にありますように、人々は、このような奇跡をなさる主イエスこそ「世に来られる預言者だ」と言って、主イエスを王にしようとしたのです。実はこの「世に来られる預言者」というのは、申命記18章15節において、モーセが「わたしのような預言者が立てられる」と告げた、自分たちにいつか神様が与えてくれると待ち望んでいた「モーセのような預言者」ということです。人々は、主イエスの奇跡を見て、この方こそ自分たちを救うために神様が遣わしてくださった方だ、長い間待ち続けた「モーセのような預言者」だと思ったわけです。そして、主イエスを自分たちの王にしようとしたのです。当時ユダヤはローマ帝国の支配の下にあったわけですから、この主イエスを自分たちの王にするということは、当然ローマ帝国に対抗し、これと戦い、その不思議な力で圧倒し勝利する、ということを意味していました。しかし、主イエスはそれを良しとはなさいませんでした。ですから主イエスは人々を離れ、山へ退かれたのです。人々は主イエスを追い、探し、カファルナウムの町で見つけたのです。そこで生まれた対話が今朝与えられている御言葉のところなのです。
4.永遠の命に至る食べ物のため
25節「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。」とあります。人々は、主イエスを王にしようとして連れて行こうとしたのに、いつの間にかいなくなってしまって、やっと次の日にカファルナウムの町で捜し出し、「やっと見つけました。」そんな思いで主イエスに言ったのでしょう。「ラビ(これは先生という意味です)、いつ、ここにおいでになったのですか。」これに対して、主イエスは全く答えません。26節「はっきり言っておく(これは主イエスが大切なことを言う時に使う言葉です)。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」そう主イエスは言われました。五千人の給食は大変な奇跡でした。これは、主イエスが天地を造られたまことの神の子である「しるし」でした。しかし人々は、五千人の給食の奇跡によって自分を神の御子として信じたのではなくて、五つのパンと二匹の魚で一万人以上の人々を満腹にさせることが出来る不思議な力を、自分の願いのために利用しようとしているだけでした。主イエスはこのことを見抜かれていたのです。人々が求めたのは、主イエスを王にしてローマから独立することでした。そうすれば、自分たちの生活もましになる。ユダヤ民族としての誇りも持てる。そう思っていたのです。人々が願い、求めたのは、この世の目に見える世界における満足であり、それはパンで腹を満たしたいというのと少しも変わらないことでした。
しかし、主イエスが五千人の給食において与えようとされたのは、そういうことではなかった。神様は生きて働いておられる。このことが分かって、神様のために、神様と共に、神様の求められる歩みをしようという、新しい命へと人々を導くことだったのです。ですから主イエスは、続けて27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と告げられたのです。これは、自分の願いや欲を満たすために働くのではなくて、神様の求められることのために、永遠の命を与えられるために働きなさいということです。人々は、この主イエスの言葉をちゃんと聞き取ることが出来ました。ですから、28節で「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」と主イエスに問うたのです。彼らは、主イエスの答えとして、「十戒を行いなさい。」「律法に従いなさい。」というものを予想していたのではないかと思います。しかし、主イエスの答えは違っていました。29節「神がお遣わしになった者(つまり主イエス)を信じること、それが神の業である。」と答えられたのです。
良いですか、皆さん。イエス様は、永遠の命に至る道はわたしを信じることだと言い切られているのです。何か良い業を積み上げていけば永遠の命に至るのではないのです。主イエスを信じること、それが神の業なのです。神様が求めておられる業であり、神様がそこに生きて働いておられることが明らかにされる、神様御自身の業なのです。信じるだけで良いのか?と思う方もいるでしょう。良いのです。主イエスを信じるということは、主イエスとの愛の交わりに生きるということであり、自分の人生の目的が永遠の命に至ることにシフトすることであり、人生の最高の幸福が主イエスと共に生きるということにシフトするということです。私共が何をするのか、どう生きるのか、何を大切にするのか、何を捨てるのか、そのすべてがここから生まれ、ここから変わっていくのです。この主イエスを信じるというところに立たなければ、人は変われないし、新しくなれないし、自分のこの世の欲からも自由になっていくことは出来ないのです。
5.どんなしるしを行ってくださいますか
人々は主イエスの答えを聞いて、こう言うのです。30〜31節「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」ここに、主イエスを王として立てようとした人々の本心が表れています。モーセは出エジプトの時、食べ物のない荒れ野を旅し、40年にわたって天から降りてくるマンナをもってイスラエルの民を養いました。モーセのような預言者であるあなたは、それと同じように私たちを毎日養ってくれますか、そうしたら信じてあげましょう。そう言うのです。彼らはすでに五千人の給食という奇跡に与っているのです。しかし、一回じゃダメだということなのでしょうか。何々してくれたら信じる。これはもう、主客が逆転しています。神様と取引をしているのです。これは、神様をあがめ、敬い、信頼し、従うのではなくて、自分の願いを叶えるために利用しているに過ぎません。そして、ここには永遠の命への憧れも、神様への畏れもありません。これが、偶像礼拝ということなのです。
主イエスは彼らが、パンから心が動かないのを見て、「パン」というイメージを用いて神様の恵みを語ろうとします。32〜33節「すると、イエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。』神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と答えます。荒れ野のマンナはモーセが与えたのではない。わたしの父である神様が与えたのだ。天の父なる神様が与えるまことのパンは、世に命を与えるものだ。食べればなくなってしまうマンナのようなものではない。それ以上に素晴らしいものだと言われたのです。そう言われれば、人々は34節「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」と言います。これは、4章にあったサマリアの女性と主イエスとの対話を思い起こさせます。サマリアの女性は主イエスに「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われ、「その水をください。」と言いました。ここでも人々がモーセのマンナの話をするものですから、主イエスがマンナ以上のもの、「まことのパン」「世に命を与えるパン」と言うと、人々は「そのパンをいつもわたしたちにください。」と言います。一回じゃダメなのです。「いつもください」です。
6.私が命のパン
そして、ついに主イエスは、そのパンが何であるかを告げます。35節「わたしが命のパンである。」主イエスは自分こそが、マンナ以上のパン、永遠の命を与えるパン、人々を永遠の命へと導くパンであると告げるのです。このパンを食べる者は、もはや飢えることはありません。あれがないこれがない、これがあれば幸せなのに、そんな飢えから解放されるのです。主イエスを信じるということは、この命のパンである主イエスを食べる、この命のパンによって養われて生きるということです。信仰というものは、決して心の中だけのことではないのです。実際に一日一日生きるということと結びついているのです。何を目的に、何を幸いだと思い、何を目指して、何を希望として生きるのか。このことと深く結び付いているのです。
40節「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」とあります。ここに記されていることが、主イエスが来られた意味であり、神様が主イエスを通して私共に為そうとされていることであり、私共に与えようとされているものなのです。私共が信仰を与えられ、命のパンである主イエスによって生かされるということは、この神様の思いに私共の思いが重ね合わされていくということです。神様が与えようとされていることと、私共が神様に求めることが一つになっていくことなのです。ここに私共の人生の目的、私共の最高の幸せがあります。
私共はただ今から聖餐に与ります。私共はこの命のパンである主イエスの養いに生き、永遠の命を目指して歩むために、この主の日の礼拝へと集まってきました。その私共に向かって、主イエスは「我が肉を食え。我が血潮を飲め。」そう言って、御自身の体と血とを差し出されるのです。この聖餐に与り、最高の幸せ、人生の本当の目的を知らされた者として、私共は主イエスを信じ、まことの命のパンである主イエスの養いに生き、永遠の命、復活の命に与る日を目指して、この一週も歩んでまいりましょう。
[2011年9月4日]
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