1.聖書の目的
ヨハネによる福音書を御一緒に読み進めております。このヨハネによる福音書は、主イエスの十二弟子の一人でありましたヨハネが記したと考えられているものでありますが、そもそもこの書は、どうして、何のために記されたのか。それについて、この福音書の最後の方、20章31節にこうあります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」ヨハネは主イエスの弟子でありますから、主イエスと一緒に町々村々に旅をし、主イエスが語られること、主イエスが為されたことを、いつも近くで見聞きしておりました。そのヨハネが、主イエスはこのように語られた、主イエスはこのようなことを為された、それを記したのです。そしてその目的は、この福音書を読む私共が、主イエスを神の子メシア、キリストであると信じ、その信仰によって命を受ける、永遠の命を受けるためだったのです。この福音書には、明確な記された目的があるのです。何となくイエス様のことが懐かしいので、イエス様の思い出を書いたというのではないのです。
おおよそ書物というものは、何が書いてあるのか分からないで私共が読むということはありません。推理小説などは、もちろんその結論を知っていて読むということはありませんけれど、この本が推理小説であるということは分かっていて読むのです。ですから、その書物が何のために記されたのかということを無視して、そこに書かれていることを批判するということはありません。例えば、数学や物理の本を読んで、何と文学的でない文章かと言って腹を立てたりしても仕方ありません。また、詩集を読んで、何と非科学的なことを言っているのかと文句を言っても、それが御門違いであることは誰にでも分かります。ところが、この聖書に関して、私共はしばしばこの御門違いなことをしてしまうのです。字面だけを読んで、聖書が何を語っているのか、語ろうとしているのかを読まない、聞こうとしない。そういうことが起きるのです。
例えば、創世記の第1章です。ここには、神様が六日間で天地のすべてを造られたということが記されております。これを、現代の科学の知識を振りかざして、「こんな非科学的なことはない。宇宙が、地球の生命が、六日間で造られたなどということはあり得ない。」そんなことを言っても、それは御門違いなのです。聖書は科学の教科書でもなければ、単なる歴史書でもないのです。聖書は、イエス・キリストというお方について記しているのですし、その方をまことの神の子として信じるためにあるのです。
とするならば、創世記の第1章はどう読むのか。それは、天と地のすべては神様によって造られたのであり、主イエス・キリストというお方は、この天と地を六日間で造られるほどの全能の力を持った神様の子であり、この神様と等しいお方なのだから、イエス様は何でもお出来になるし、何でも御存知である、ということになるのでしょう。更に言えば、そのような大いなるお方が、私のために、私に代わって、私の身代わりとして十字架にお架かりになってくださった。だから、私の一切の罪は赦されている。何とありがたいことだ、ということであります。
2.聖書が分かる
このように申しますと、「それは信仰があるからそのように読めるのであって、信仰がなければそんな風に読めるはずがないではないか。」そう言われる方もあるかもしれません。そのとおりなのです。聖書というものは、信仰をもって読まなければ、何が記されているのか分からないのです。だったら、信仰がない者はどうしたら良いのか。どうしたら信仰を得ることが出来るのか。答えは、「聖書を読みなさい」です。これは矛盾しているようでありますけれど、真実なのです。「聖書を読まなければ信仰を得られない。しかし、信仰がなければ聖書は分からない。」ということです。これは、まことに矛盾しているように聞こえるでしょう。しかし、ここには言われていないことが一つあるのです。これがなければこの矛盾が解けないという大切なカギです。それは、「聖霊なる神様のお働き」というものです。聖書は、確かに人間が記したものです。千年以上にわたって書き継がれたものです。しかし、この聖書は、聖霊なる神様の導きによって記されたのです。そして、聖書を読む者は、いつの間にかこの聖書を記したのと同じ聖霊なる神様の御業に巻き込まれて、神様を、イエス様を信じるようになるのです。そして、いつの間にか聖書が語ろうとしていることを聞き取れるようになるのです。聖霊なる神様の御業によって、私共に信仰が与えられ、聖書が分かるようになるのです。聖霊なる神様の御業によって、聖書が分かり、信仰が与えられるのです。
3.聖書が分かる転機
私は今、「いつの間にか」と申しました。聖書を毎日読んだら三か月で、半年で、一年で、と期限を付けることは出来ません。しかし、読み始めた頃はさっぱり分からなかったのに、いつの間にか分かるようになっている。それが正直なところだと思います。ですから、「いつの間にか」としか言いようがないのです。ただ、この「いつの間にか」という場合、一つの転機と言いますか、分かり始めるきっかけというものがあります。これが訪れないと聖書が分かるようにならない、そういう転機が幾つかあります。
第一の転機は、自分が罪人であるということが分かるということです。聖書を読み始めた頃、教会に集うようになり始めた頃、私共は自分が罪人であるとはあまり考えていなかったと思います。自分が善人だとは言わないが、悪人ではない。それほど悪い人間ではない。人は誰でもそう思っています。何かトラブルを抱えていたとしても、人は誰でも「悪いのはあなた。正しいのは私。可哀想なのは私。」そんな風に思っているものです。そのような人間が、自分は罪人であるということが分かる。それは、人と比較してどうのこうのという話ではありません。「他の人と比べて」という世界にいたのでは、人は自分が絶対的な罪人であるという認識には、決して至らないのです。聖書を読んでいく中で、この礼拝において聖書の言葉を聞く中で、神様が自分を造り、守り、育ててくださった。神様はこんなに私を愛してくださっていた。自分は自分の力で生きていると思っていたけれど、何と傲慢なことであったか。この神様を崇めることも知らなかった自分は、何と神様を悲しませていたことか、何という罪人であったか、そのことが分かる。これは、神様の御前に立っての罪意識です。他の人と比べての話ではありません。そして、自分の親に対して、或いは妻や夫に対して、何と傲慢な者であったか、感謝知らずの者であったかということが分かる。また、これは逆の場合もあるでしょう。自分が周りの人に対して何と感謝知らずの愚か者であったか、道を外れた者であったかということを知って、神様に対して、自分は罪を犯し続けていたと告白するということもあるでしょう。
第二の転機は、第一の転機と裏表の関係にあるのですが、このような私を、神様は何と深く、決して見捨てずに、愛し続けてくださっているかということが分かるということです。私共は、自分を決して見捨てずに愛してくださっている神様と出会って、自分が感謝知らずの罪人であることが分かるということです。
第三の転機は、これも第一の転機、第二の転機と重なることが多いのですが、聖書には自分のことが記されているということが分かるということです。聖書が、遠い昔に外国で書かれた、自分と直接関係ないところにあると考えている限り、聖書は分かりません。教養として聖書を読もうとしている限り、聖書は分かりません。聖書が自分に向かって、自分のことを語っている。このことが分かった時、聖書は分かります。例えば、放蕩息子のたとえ話を読んで、この放蕩息子は自分のことだと分かるというようなことです。
4.証し
この第一の転機、第二の転機、第三の転機は、聖霊なる神様によって起こされます。神様御自身が働いてくださるのです。そして、この転機を起こすために聖霊なる神様が用いられるのが、「証し」というものなのです。証しもまた、聖霊なる神様によって与えられるものです。今朝与えられております御言葉において、「証し」「証しをする」という言葉が11回も使われています。とても大切な言葉です。
「証し」をするとは、証言するということです。これは元々法廷で使われた言葉で、誰かが犯罪を犯して裁判にかけられる。その人がその犯罪を犯すのを見た、と証言する。あるいは、その人はやっていないと証言する。それが証しです。聖書において、「証し」「証しをする」と用いられる場合、「主イエスがキリストであること」を証言するということです。私共の教会でも、アドベントの時や受難週の時に教会員の方に証ししていただくのですが、単なる体験談では「証し」にはなりません。私はこの出来事を通して、神様の愛が主イエスの愛が分かった。主イエスが今も生きて働き給う、神の独り子、キリストであることが分かった。神様がこのように私の人生に働きかけてくださったことによって、聖書に記されていることが真実であることが示された。そのようなことが「証し」となるのです。
さて、主イエスは31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」と告げます。主イエスが自分で、わたしは神の子だ、救い主だと言ったところで、それは真実ではないというのです。それは、偽預言者や、今でもよく見かける新興宗教の教祖がやっているもので、自分で神の子だと言っている人は信用してはいけません。だったら、何を信じたら良いのか。結論を言えば、神様です。神様御自身が、イエス様が神の子であることを証しされるのです。それは、具体的に言えば、聖霊の働きの中で神様によって証しする者として立てられ用いられた人によって、そして、聖霊の導きの中で記され説き明かされる聖書によってです。
5.証言者
主イエスはここで、主イエスを「見よ、神の小羊。」と証言した洗礼者ヨハネを挙げています。当時洗礼者ヨハネは、人々に大変注目され、この人こそメシアではないかとさえ思われていた人です。その彼が、主イエスをキリスト、メシアであると証言したのです。35節に「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。」と言われています。これは、暗い世にあって、人々をまことの光である主イエスの所にまで導く、足元を照らし、行く道を示すともし火であったということです。ともし火は暗い世に必要ですが、まことの光が来れば、太陽が昇れば、もう必要はありません。
私共も、この主イエス・キリストを指し示すともし火として立てられています。私共が立派で人々に尊敬されるような人だから立てられているのではありません。私共が立てられているのは、まことの光である主イエス・キリストを知っているからです。この方こそまことの神であり、私共に命を与える方であることを知っているからです。この方を指し示すことが出来るからです。
キリストの教会は、このキリストの証人たちの群れなのです。キリストの教会は、ただ主イエスをキリストとして証言し、この方によって与えられる救いの恵みの真実を証言するために建てられているのです。このキリストの証人に求められていることはただ一つ。証言したように生きるということです。私共は、主イエス・キリストの愛を信じ、主イエス・キリストが共に生きてくださっていることを信じています。だったら、その信じているように生きるということです。私共は愚かですし弱いですから、言わないで良いことを言ってしまったりもします。あれでもクリスチャンかと言われることもあるかもしれません。しかし、「この人から信仰を取ったら何が残るか?何も残らない。」というような、本気で信じている者であることは出来るのでしょう。
私は牧師をして生きていて、まさに証人としてのみ生きるように召されているわけですが、牧師として一番大切なことは、本気で信じ生きていること。講壇で語ることと生きることが分裂していないことだと思っています。そして、この語ること、信じることと生きることが分裂しない、ここに聖霊なる神様の導きの中にある私共の歩みがあるのだと思うのです。
6.証言集としての聖書
さて、主イエスは36節で「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」と告げます。ヨハネの証しは真実だけれども、神様御自身が主イエスに与えられた業こそが、更に主イエスが誰であるかを明確に証しするというのです。確かに、主イエスがお語りになった言葉、主イエスが為してくださった様々な奇跡、そして何よりも主イエスの十字架と復活の御業に、主イエスが誰であったのかが示されています。主イエスの弟子たちは、この主イエスの言葉と業とを告げることによって、主イエスの証人として立っていったのです。そして、この主イエスの証人として立てられた者たちの証言集として、私共に聖書が与えられているのです。
聖書は証言集です。39節「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」とありますように、聖書は主イエスについて証言しているのです。この証言集としての聖書は、証言としてのみ解き明かすことが出来るのです。聖書は、どんなに勉強し、言葉を調べ、分析し、考えてこれを説明しても、これを解き明かすことは出来ません。聖書を説き明かすとは、聖書を語り直すことです。証言である聖書を語り直すということは、これを説明するのではなくて、この聖書に告げられている恵みに生きている、生かされている者として語る、証言者として語る以外にないのです。
神様は、私共を一切の罪から救い、永遠の命を与えるために、その独り子主イエス・キリストを与えてくださいました。そして、主イエスを証しする聖書を与えてくださいました。さらに、この聖書を通して主イエス・キリストを証言する群れとして、教会を建ててくださったのです。まだ主イエス・キリストを知らない人々のともし火とするために、神様は教会を建ててくださり、この教会に満ちる証言を通して、人々を主イエスの救いへと導かれているのです。これは、すべて聖霊なる神様のお働きによります。
私共はただ今から聖餐に与ります。この聖餐を通しても、主イエス・キリストが誰であり、何をしてくださった方であるかということが明確に示されます。この聖餐において示された主イエス・キリストを指し示す証人として立つために、私共はここに集い、そしてここからそれぞれの所に遣わされて行くのです。この一週間も、聖霊なる神様の導きの中で、主の証人として、主の御前を、遣わされた場において、しっかり歩んでまいりたいと心より願うのであります。
[2011年8月7日]
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