富山鹿島町教会

礼拝説教

「床を担いで歩きなさい」
イザヤ書 35章3〜10節
ヨハネによる福音書 5章1〜18節

小堀 康彦牧師

1.ベトザタの池
 今朝与えられております御言葉の場面は、エルサレムのベトザタの池です。この池の名前の由来は、多分、ベト「家」とヘセド「あわれみ」を組み合わせて「あわれみの家」ということだったと思われます。今お読みしました聖書の箇所で、4節が抜けていることに気付かれたでしょうか。この4節が抜けているのは、有力な写本にはこれが無いものが多いので、多分本来は無かったのだろう。けれど、写本していく中で、意味をはっきりさせるために付け加えられたものだと考えられ、新共同訳では本文から抜いたのです。しかし、話の流れの上では、あった方が良く意味が分かります。ヨハネによる福音書の最後のページに抜いた部分がありますので読んでみます。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」この説明がありませんと、どうしてこの池の周りに病人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢身を横たえていたのか分かりません。彼らは、この池の水が動くのを待っていたのです。この池に天使が降りてくる。そうすると水面が動き、水面が動いたときに最初に水に入った者はいやされる、そう信じていたからです。しかし、水面が動くのは、風が吹いても、虫が落ちても動くわけで、いやしを願い求める人たちはその度に池に入っていったのかもしれません。そして、ほとんどの時は空振りだったのでしょう。何度空振りしても、また池から上がり、じっと水面に目を向ける人たち。
 1節を見ますと、「ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。」とあります。この祭りが何の祭りだったのかは分かりません。ユダヤでは、春の過越祭、五旬祭、それに秋の仮庵祭、これが三大祭りですが、その時には成年男子はエルサレム神殿に詣ることになっていましたので、そのどれかかと思います。主イエスがエルサレムに来られたとき、町は祭りのにぎわいを見せていた。その喧噪の後ろで、人々から忘れられた者たちが大勢この池の周りに横たわっていたのです。彼らの多くは、家族の者によって朝ここに運ばれ、夕方になると家に連れ帰られるということだったのかもしれません。皆、医者に見放され、この池でいやされることだけが頼みの綱という人たちばかりです。互いに語り合うこともなく、じっと池が動くのを待っている。いつ動くか分からない池に、病気の人や体の不自由な人たちの目が注がれている。
 そして、この「あわれみの池」と名付けられた池には、とても神のあわれみとは思えない法則がありました。天使が降りてきて、池が動いたときに一番最初に水に入った者だけがいやされるという法則です。二番手、三番手では駄目なのです。厳しい競争がここでも繰り広げられることになります。池の水が動いたとたん、病気の人や体の不自由な人たちが、その不自由な体を動かし、我先にと池の中へ入っていくのです。そして、一人だけがいやされ、大喜びする。他の者は、そのいやされた者に羨望のまなざしを向ける。そして、また池が動くのを待つ静かさに戻る。

2.良くなりたいか?
 ここに主イエスが来られます。この華やいだ祭りの時に、この池の周りに横たわる人々のことを心にかけていた人が主イエス以外にいたでしょうか。主イエスは、祭りのにぎわいの中でも、この池にじっと目を向ける人たちのことを見逃されませんでした。主イエスは、大勢居る人の中の一人に目を留められました。主イエスは、この人がもう長い間病気であることをすぐにお知りになりました。実に38年間も病気で苦しんでいたのです。この人が何歳であったのかは分かりませんが、38年間といえば人生の大半が病におかされていたということでしょう。10代で発病したとしても、当時の平均寿命を考えれば、既に両親も亡くなっていたと考えて良いでしょう。
 主イエスはこの人に声をかけます。6節「良くなりたいか。」何とぶしつけな問いでしょう。良くなりたいに決まっているではないですか。だからこの池に来ているのでしょう。しかし、この人は主イエスの問いに対して、「はい、良くなりたいのです。」とは答えなかったのです。7節「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」とあります。この人は、自分が治りたいということを素直に言い表すことが出来ず、口から出たのは、自分を池に入れてくれる人がいない、ほかの人が先に池に入ってしまう、という言葉でした。この人は、自分より先に池に入った人がいやされるのを何度も見ていたのかもしれません。そして、うらやましい思いを何度も抱いてきたのでしょう。この人の心は、素直に「私は良くなりたい。」と言い表すことが出来ないほどに、自分には池に入れてくれる人がいない、ほかの人が自分より先に入る、といった、自分の不幸を嘆き、人を羨む思いに支配されてしまっていたのです。主イエスは、そのような思いに囚われているこの人に向かって、「良くなりたいのか。」と問われた。これは当たり前のことを聞いているだけのように見えますが、この当たり前のことが分からなくなるほどに、心が散り散りになっているのが私共の姿なのではないでしょうか。ああだったら良いのに、こうなれば良いのに、いろいろ思いはあるでしょう。しかし、本当にあなたが求めているものは何なのか、そう主イエスは問われたのでしょう。

3.あなたが本当に望んでいることは何か?
 今朝の説教の備えをしている中で、ずっと私の頭から離れなかった問いがあります。それは、この「あなたは本当の所、何を望んでいるのか、何を求めているのか。」という問いです。神様が聖書を通して、私に問われたのです。
 私の心の中には、様々な求め、望み、願いがあります。様々な具体的な課題があります。あれもこれもと望んでいます。私事でありますが、母が脚を骨折してリハビリ病院に入院しています。また歩けるようになって欲しいという願いがあります。牧師として、求道者が与えられ、洗礼者が与えられるようにという願いがあります。年老いた教会員たちが一日一日守られるようにという願いがあります。結婚式を迎える若者、結婚式をした若者たちが、主の祝福を受けて、愛の満ちた家庭を築かれるようにという願いがあります。教会学校のことも祈ります。また、連合長老会に属する諸教会にある課題、無牧の教会に良い牧師が与えられるようにという願いがあります。東日本大震災で被災した人々、被災した教会の復興が成されるようにという願いがあります。数え上げたら切りがないほどに、祈るべき課題がたくさんあります。どれも、どうでも良い願いではありません。一つ一つ真剣に願い求めている祈りです。そういう中で、改めて「あなたは本当の所、何を望んでいるのか、何を求めているのか。」そのように問われ、はたと考え込んでしまったのです。あれもある、これもある。しかし、「本当に願い求めているものは何か。」と問われると、よく分からなくなる。願い求めるものは、なにも一つでなければならないということではないのです。しかし、本当に必要なもの、なくてはならないもの、心から願い求めているもの、それは何なのか。そのことを弁えて、自分は神様に願い求めているかと問われたのです。そう問われて、はたと困った。本当に困ってしまったのです。
 そして、前任地でのことを思い出しました。前任地の教会には幼稚園がありました。その幼稚園では、卒園式の時にアルバムを渡すのです。その幼子の二年間分、三年間分の様々な行事の時のスナップ写真を集めて、一人一人のアルバムを作るのです。その最後のページに、先生たち、そして両親がそれぞれ三つの願いを書くところがありました。親御さんは当然、○○ちゃんが元気で素直な子に育ってくれるように、というようなことを書かれるのですが、私はいつも「@御名があがめられますように。A御国が来ますように。B御心が天になるごとく、地にもなりますように。」と書いておりました。そのことを思い出したのです。牧師になりたての、もう20年以上前のことです。この三つの願いを書いたときに、私の中に迷いは無かった。それなのに、牧師になって25年、様々な課題の前で、具体的な願いや求めに心が乱れ、私の本当の願い、これさえあれば他に何もいらないと言い切れる願いや求めを置き去りにしていたのではないか。そう思わされたのです。
 特に、第一の願いである「御名があがめられますように」、これは言うまでもなく、主の祈りの第一の祈りです。「御名があがめられますように。」この祈りに基づいて、この祈りに導かれて、一つ一つの願いや求めが出ていたのだということに気付かされたのです。

4.起きあがれ
 主イエスは、この男の人が言うことに応えられたのではありません。池に入れてくれる人を備えてあげたのでもないし、ほかの人が自分より遅く池に入るようにされたのでもありません。主イエスは、この人の本当の求めを、本当の願いを見抜かれて、この人に向かって命じられたのです。8節「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」何という言葉でしょう。起き上がれないから、歩けないから、床に伏してこの池のほとりに横たわっていたのです。この主イエスの命令は、実行不可能な命令です。38年も横たわっていたら、筋肉は衰え、関節は固まり、歩けるはずがないのです。しかし、主イエスの言葉は神の言葉です。神様の言葉は出来事となるのです。
 「起き上がりなさい。」これは「復活しなさい。」とも訳すことが出来ます。主イエスは、単にこの人の病気をいやされたのではないのです。ここで起きているのは、主イエスの言葉による新しい創造の御業です。主イエスの言葉によって、死んでいた者がよみがえるということと同じ、復活の出来事、新しい再創造の出来事が起きたのです。だから、長年歩いたことのないこの人が、リハビリも要らずに歩けたのです。
 この出来事は先ほどお読みしたイザヤ書35章に預言されている、神が来られたときに起きる出来事です。終末の時、神の救いの到来を示す出来事であり、これを為す主イエスは、神であることを示しているのです。

5.新しくされた者は、新しく生きる
 この人は、主イエスが言われるように床を担いで歩き出しました。床を担いで家に帰ろうとしたのかもしれません。その途中で、祭りに来ていた多くのユダヤ人に会いました。その中で、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」と言う人に出会うのです。ファリサイ派の人か、律法学者か、ユダヤ教の当局者かだったと思われます。祭りの日に、白昼堂々と、安息日規定を破って床を担いでいく者がいる。これは黙って見過ごすわけにはいかない。そう思ったのでしょう。それに対して、この人は正直に、11節「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです。」と答えました。彼を見とがめた人は、すかさず、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ。」と問います。しかし、この人はそれが主イエスであることを知りませんでしたので、知らないと答えるしかありませんでした。主イエスはこの人をいやすと、さっさとそこを立ち去っておられたからです。
 この人は、後で主イエスと神殿で出会いました。そして、主イエスはこの人にこう言いました。14節「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」これは重大な言葉です。私共は主イエスに救われることを求めます。そして、主イエスは私共に信仰を与え、罪を赦し、神の子として新しく生きる道を与えてくださいます。この主イエスに救われるということと、新しく神の子として生きるということは分けることは出来ません。この人にとっては、自分の病気が治りさえすれば、主イエスが誰であるか、そんなことはどうでも良いことだったのかもしれません。しかし、そうではないのです。主イエスによって神様の新しい創造に与った者は、神の子として生きるようになるのです。神様なんてどうでも良いという生き方は出来ないのです。主イエスと共に生きるようになるのです。罪を犯さないようにというのは、完全に正しい人として生きよということではなくて、神様と共に、主イエスと共に生きよということなのです。もし、神様なんてどうでも良いというような生き方をするならば、もっと悪いことになるかもしれないのです。それは、神様を侮り、神様の愛を無視し、神様を裏切ることになるからです。多分、主イエスは、この人は自分の身に起きたことが何を意味するのか分かっていない、と知っておられたのでしょう。だから、こう言われたのだと思います。
 日本の宗教習慣に「お礼参り」というのがあります。神社仏閣でお願いをする。それが叶えられると、ありがとうございましたとお礼にお参りするという習慣です。これは自然な心の動きだと思います。キリスト教ではお礼参りとは言いません。しかし、神様のあわれみの御業に与ったのなら、その恵みに感謝して生きる、その恵みに応えて生きる、それは当然のことであり、神様が求めておられることでもあるのです。
 しかし、この人は何と、主イエスとのこの会話の後で、自分をいやしてくれたのはイエスであるとユダヤ人たちに知らせに行ったのです。この知らせを受け、「ユダヤ人たちは主イエスを迫害し始めた。」と聖書は記します。理由は二つです。一つは、主イエスがこの人をいやされ、床を担いで歩かせたのが安息日であったからです。安息日には、してはいけないと言われている規定が613ありました。これを公然と破るということは、当時のユダヤ教の権威を真っ向から否定するものと捉えたからです。彼らは、38年も病の床に伏していた人がいやされたことを喜ぶことが出来なかったのです。第二に、多分、彼らが主イエスに、何故安息日にいやすのかと問うたときに、17節「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と答えられたからです。ここで主イエスは、御自身を神様と等しいものとしている。これこそ、ユダヤ人たちにとって、決して許すことが出来ないことだったのです。
 この人は、自分がユダヤ人たちに報告したことが、そのような結果になることを全く予想していなかったのかもしれません。しかし、自分が安息日に床を担いでいると見とがめられたのです。彼もユダヤ人です。この安息日規定というものが、どれほど重要なものと考えられていたかは知っていたはずです。ですから、主イエスのことをわざわざ言いつけに行くということは、自分を新しくしてくれた主イエスよりも、ユダヤ教当局者の味方に付いたということなのだと思います。これは、やはり裏切りだったのだと思います。このように生きてはいけない、そう聖書は私共に告げているのです。

 今朝、私共は「起きよ。床を担いで歩け。」との主イエスの御言葉を受けました。この言葉は、私共の中においても出来事となります。キリストの復活の命に生きる者として、主イエスの再創造の業に与るのです。主イエスによって神の子として新しく創造され、「御名があがめられますように。」という祈りと共に生きる者にしていただいたのです。ですから、この恵みの中に生涯とどまり、主イエスの御業にお仕えする者として、一日一日を歩んでまいりたいと思うのです。そこに、罪の赦しに与り、復活の命に生かされた者の歩みがあるからです。今、共々に、主イエスの御復活の命に与っていることを、心からほめたたえたいと思います。

[2011年7月17日]

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