1.神のことばによる結婚
今年は例年になく結婚式が多く、五月から九月まで毎月あります。昨日もここで結婚式が行われました。結婚されたお二人は教会員ではありません。何度か礼拝に出席され、準備会に出ていただけば、教会員でなくても結婚式を挙げることが出来るように、私共の教会では決めております。結婚が何であるのか、よく分からなくなっているこの時代の中で、神様の御業としての結婚というものを知ってもらう良い機会であると思っています。今回のお二人は、始め結婚式場に行ったけれども、どうも違うと感じて、結婚式は本当の教会で挙げたいと言って来られた方でした。七月の末にはもう一つ結婚式があります。黒部の結婚式場へ私が行って結婚式を挙げることになっています。
私共が行う結婚式おいて、とても重要な要素として宣言というものがあります。もちろん、二人の神様の御前における誓約がなければ結婚式は成立しません。しかし、誓約ということならば、人前結婚式というようなものにおいても為されます。人前結婚式においては、二人の誓い、それを参列した人たちが認める。そして、社会的に認知される。それがすべてです。しかし、私共の結婚式ではそうではないのです。神様の御名による宣言が、二人の誓約の後で為されるのです。宣言の言葉はこういうものです。「○○と△△は、神と会衆との前で誓約しました。ゆえに私は、父と子と聖霊の名によって、○○と△△が夫婦であることを宣言致します。神が合わせられたものを人が離してはならない。アーメン」どうして結婚式において宣言が大切なのか。それは、父と子と聖霊の名によって為されるこの宣言によって、二人は夫婦となるからです。二人が誓ったから夫婦になるのではないのです。神が宣言し、その宣言によって、神様が二人を夫婦として一つに結ばれる。神の言葉によって結ばれるのです。神の言葉によって、夫婦という新しい存在になるのです。
2.神の言葉は出来事となる
私共の信仰においては、この神の言葉というものが決定的な意味を持っています。人間の言葉ですと、一度発せられた言葉は音として空中に消えていきます。証拠として残ることはないのです。ですから、言った、言わないというのは水掛け論で、結論は出ません。しかし、神の言葉は違うのです。神の言葉は、神様の意志、神様の御心の表れですから、これは出来事となるのです。神様は「光あれ。」と言われて、光を造られました。言葉をもってこの世界を造られたのです。先程、詩編33編をお読み致しましたが、その6節で「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。」とあります。神様が御言葉をもってこの世界を造られ、そして御支配しておられるというのは、聖書の基本的信仰です。また9〜11節には「主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」とあります。国々が興り滅びるのもまた、神様の御心次第であり、その御心が表れた神の言葉によるのです。それが聖書が告げる「神の言葉」なのです。神の言葉は空しいものではありません。出来事となるのです。
イエス・キリストは、神様の御心そのものです。神様の救いの御計画、神様の愛、神様のいつくしみ、その神様の思いがそのままに現れた方であります。ですから、主イエス・キリストこそ、神の言葉そのものであるという言い方も出来るのです。ですから、私共が神様を信じるということは、聖書に記されている神の言葉を信じるということであり、神の言葉そのものである主イエス・キリストを信じるということでもあるのです。そして、神の言葉であり、神であられる御子イエス・キリストの言葉は出来事となるのです。
3.悔い改め無き歓迎
さて、今朝与えられております御言葉において、主イエスは一つの「しるし」を行われました。場所はガリラヤのカナです。カナという地名は、このヨハネによる福音書の2章に出てきました。結婚式の式文の祈りの中にも必ず入っているのですが、このカナの地で行われた結婚式において、主イエスが水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたのです。これがカナにおける一回目の「しるし」でした。そして、今朝与えられている御言葉に記されている出来事が、二回目の「しるし」です。
主イエスが、ユダヤからサマリアを通って、ガリラヤのカナに来られた。すると、人々は主イエスを歓迎しました。このことについて、聖書は大変注意深く記しています。44節で、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ。」と主イエスが告げられたことを述べて、45節で「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」と言うのです。理由は、「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」と告げられています。主イエスは、2章13節以下で、過越の祭りのエルサレムに行き、そこで神殿から商人たちを追い出すという大変なことをされましたが、その時「しるし」を行ったということが、2章23節に記されています。多分、癒しなどを行ったのでしょう。それを見た多くの人が主イエスを信じたのです。ガリラヤの人々が主イエスを歓迎したのは、この「しるし」を見た故であったというのです。それは、彼らが主イエス御自身を神の子として信じ受け入れたのでは決してない。ただ奇跡を見て、自分の願いを叶えてくれる、困ったことを解決してくれる、そういう不思議な力を持つ方として歓迎したに過ぎないと言っているのです。
主イエスは「預言者は自分の故郷では敬われないものだ。」と言われました。それは、預言者の故郷の人たちは預言者に対して、あれは誰々の息子ではないか、そんな風に預言者を見てしまう。肉において見てしまう。だから、預言者を霊において見ることが出来ない。神様に遣わされた方として見ることが出来ないということでありましょう。そしてまた、神様に遣わされた預言者というものは、人々に気に入られようとして奇跡を行うような人ではありませんから、昔から知っている自分のために何か良いことをしてくれるだろうという期待は裏切られ、結局故郷の人たちは預言者を敬わないことになってしまうということなのだと思います。
今、聖書を学び祈る会ではエレミヤ書をずっと読み進めておりますけれど、預言者エレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれます。それは、エレミヤが神様の言葉を告げれば告げるほど、人々から忌み嫌われたからです。何故エレミヤは人々から忌み嫌われたのか。それは、エレミヤが人々に悔い改めを求めたからです。ここで聖書は、ガリラヤの人々は主イエスを歓迎したけれども、それは主イエスが自分たちにとって益をもたらす不思議な力を持った方として受け入れたということであって、まことの悔い改めを求める預言者として見ていなかったからだと告げているのでしょう。
ここで私共は、主イエスがどういう方であったのか、何を告げた方であったのか、思い起こさなければなりません。マルコは、主イエスの宣教の第一声が「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書1章15節)であったと告げています。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」これが、主イエスが告げられたことです。これは、主イエスが十字架にお架かりなるまで、少しも変わらなかったと思います。主イエスが為された様々な奇跡、主イエスが語られた様々な言葉の中に、このメッセージはいつもあったと言って良いと思います。主イエスの告げられたメッセージから、「悔い改めよ。」を取り除くことは出来ないのです。
この「悔い改める」というのは、いろいろな言い方が出来ますけれど、神様に対する態度を改めるということです。つまり、自分の利益のために神様を信じたり、拝んだりするのではなくて、神様の御心を第一として、神様を愛し、神様に従う者となるということです。ここでガリラヤの人々が主イエスを歓迎したのは、悔い改め無き歓迎であったということなのです。自分たちの地方から不思議な力を持った方が出た。ガリラヤの誇りだ。そんな感覚だったと思います。主イエスの不思議な業を「見て信じる」とは、そういうことです。聖書は、それではダメだと言っているのです。それでは、あなたと神様との関係は変わらないと言っているのです。
4.「見て信じる」から「聞いて信じる」へ
さてこの時、主イエスのもとにカファルナウムから王の役人が来ました。カファルナウムからカナまで、直線で約30kmです。彼はこの道のりを、わざわざ主イエスを訪ねて来たのです。彼の息子が病気で死にそうだったからです。彼は父親として出来るだけの手当をしたと思います。医者にも診せたでしょう。しかし、どうにもならない。そこで、彼は主イエスのところに来たのです。主イエスなら何とかしてくれるのではないか。彼はそう思ったのです。彼は主イエスが不思議な力を持ち、人を癒すことが出来る方であることを聞いたのでしょう。彼は主イエスのもとに来て、息子をいやしてくれるように頼みました。
この役人である病気の息子の父親に対して、主イエスの答えは大変素っ気ないものでした。冷たいと思えるような言葉です。48節「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」と主イエスは言われました。30kmも離れた所からわざわざやって来たのに、こんな言い方をしなくてもと思う方もおられると思います。主イエスがここで言おうとされたのは、「あなたは、自分の息子が病気だから、それを治して欲しくて来たのですね。それだけでしょう。自分の願いを叶えてくれればそれで良い。そう思っているのでしょう。そういう態度で良いのですか。それで良いのですか。悔い改めなさい。」そう主イエスは言われたのだと思うのです。
彼には、この主イエスの言葉の真意が分からなかったと思います。ただ冷たくあしらわれていると思ったでしょう。しかし、彼は諦めません。こんなことで諦めるわけにはいかなかったのです。息子の命がかかっているからです。彼は、主イエスに更に願います。49節「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」彼は主イエスが家に来て、死にそうな息子に手を置いてくれれば助かるのではないか、そう思っていたのでしょう。これに対しての主イエスの答えは、更に彼に神様に対しての信頼、主イエスに対しての信頼を求めるものでした。50節「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と主イエスは言われました。ここでは「帰りなさい」と丁寧に訳していますけれど、直訳すれば「帰れ」です。主イエスはこの父親に、「帰れ」と言われたのです。わたしはあなたの家には行かない。あなたは帰れ、と言われたのです。家に来てくれという、父親のたっての願いを完全に拒否されたのです。この主イエスの言葉だけで、諦めて帰っても良さそうなものです。死にそうな息子のそばを離れてまでやって来たけれど、無駄だった。主イエスという人は大変力のある方だと聞いたから、この方ならばと最後の望みをつないだ自分が馬鹿だった。息子のことは諦めよう。彼はそう思って帰っても良かった。しかし、彼は「帰れ」の後の言葉に望みを置き、これを受け入れ、信じたのです。「あなたの息子は生きる。」この主イエスの言葉を彼は信じ、そして帰ったのです。
ここで、彼の中に大きな変化が起きています。それは、「見たから信じる」という信仰のあり方から、「聞いて信じる」「見ないで信じる」という信仰のあり方への変化です。この主イエスの「あなたの息子は生きる」との言葉には、目に見える何の保証もありません。ただ、この言葉を語った方が主イエスである、それだけがこの言葉の秘密です。これがただの人の言葉なら、言っただけで、気休めにもなりません。しかし、この言葉を語った方が神の子なら、神様なら話は別です。神様の言葉は出来事となるからです。彼は、主イエスの言葉を信じて帰っていったのです。つまり、主イエスを神の子と信じ、それ故この言葉は出来事となると信じ、帰ったのです。
「見たから信じる信仰」というのは、自分に利益を与えてくれるから神様を信じるという信仰のあり方です。しかし、この「見ないで信じる信仰」「聞いて信じる信仰」というのは、まず「信じる」があるのです。そこに神様の愛の業としての奇跡が起きるのです。
主イエスは、この「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」との言葉によって、「あなたは見たから信じるのか、それとも見ないでも信じるのか。あなたはわたしを神の子と信じるか。」そう問われたのでしょう。そして彼は、「見ないで信じます。あなたを神の子と信じます。」そう答えたのでしょう。彼は変えられたのであります。主イエスの一見冷たそうに見える言葉の中身は、実に、彼に「悔い改め」を求めるものだったのです。
5.信仰から信仰へ
彼が家路に就くと、その途中で彼の僕たちが迎えに来て、息子の病気が良くなったことを告げました。息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、昨日の午後一時に熱が下がったと言う。それはちょうど、主イエスが「あなたの息子は生きる。」と言われたのと同じ時刻でした。彼は、主イエスと自分とのやり取りを家族に話したことでしょう。そして、この家族は皆、主イエスを信じる者となったのです。
彼は「しるし」を見ずに信じました。そして、見ずに信じた彼の上に、主イエスの一言で息子が癒されるという「しるし」が与えられ、彼はいよいよ信じる者とされたのです。そして、家族までもが信じる者とされたのです。
「信仰から信仰へと歩ませてください。」という祈りがあります。私共の信仰は、初めは「見て信じる信仰」なのかもしれません。しかし、悔い改めて「見ないで信じる信仰」へと変えられ、更に「しるし」によっていよいよ信じる者へと変えられていくということなのでしょう。私共の信仰は、変えられ続け、成長し続けるのです。そして、それを引き起こしてくれるのは、いつも神の言葉、主イエスの言葉、聖書の言葉なのです。
最初に結婚式の宣言の話をしました。神の言葉が告げられ、それによって出来事が起き、二人が夫婦という存在へと変えられる。人の心は移ろいやすいですから、自分の誓いだけで何十年にも及ぶ結婚生活を支えていくことは出来ないのです。神の言葉によって夫婦とされる、一体とされるという出来事が起き、その歩みを支えられるのです。そのように、私共は神様の言葉による出来事に与り、それによっていよいよ神の言葉の真実を知らされ、ますます神様を愛し、神様を信じる者へと変えられていく。そこに、私共の信仰の歩みがあるのです。
私共は、主の日毎にここに集い、神の言葉を受けます。説教を受け、そして祝福を受けて家路につきます。その家路につく時に、この父親のように、「主イエスの言われた言葉を信じて帰って行」くならば、私共の上にも必ず主の出来事が起きるのです。御言葉が私共を造りかえてくださるのです。私共は何か自分の益となることが起きたら信じるのではありません。そうではなくて、御言葉を聞いて信じるのです。そして御言葉を受け続け、御言葉によって私共自身が変えられ続けていく。神様との豊かな交わりの中に生きる者となり続けていくのです。
[2011年7月3日]
へもどる。