富山鹿島町教会

礼拝説教

「聞いた、分かった、信じた」
イザヤ書 52章4〜10節
ヨハネによる福音書 4章27〜42節

小堀 康彦牧師

1.キリストの言葉へと導かれる
 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中でこう告げました。10章14〜17節「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。……実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」まさに、私共の信仰の歩みは、キリストの言葉を聞くことから始まりました。また、聞き続けることによって、私共は信仰の歩みを続けることが出来ているのです。聞くことをやめたなら、私共の信仰の歩みもやんでしまう、そういうものだろうと思います。
 では、私共は何を聞くのか。それはキリストの言葉です。キリストの言葉を聞くことによって信仰が与えられ、信仰の歩みを続けているのです。では、そのキリストの言葉を誰から聞くのか。私共は、主イエス・キリストというお方を直接目にすることは出来ません。直接、キリストの言葉を耳にすることは出来ないのです。私共は、キリストの言葉を、キリストの言葉を託された人、キリストの言葉の証人から、それを聞くということになります。聖書は、その証人たちの証言集と言っても良いでしょう。ですから、聖書を読むというあり方で、主イエスの言葉を聞くということがあります。しかし、独りで聖書を読んでキリストの言葉を聞くのは、最初はなかなか難しいだろうと思います。独りで聖書を読んでも、何が書いてあるのか、さっぱり分からない。そのような感想を求道者の方から、何度も聞いてきました。それが、私共が最初に聖書を読んだ時の正直な感想ではないかと思います。私自身、教会に通い始めた頃、聖書を家で読みましたけれど、さっぱり分からずに読み続けることが出来ませんでした。
 そこで、誰かに導かれるということになります。すぐに思い浮かぶのは牧師という存在だと思いますが、それだけではありません。皆さんが最初に教会に来られた時、そこには牧師以外のキリスト者との関係があったのではないかと思います。友人のキリスト者に誘われて教会の門をくぐったという人もいるでしょう。あるいは、キリスト教主義の学校で、友の会で、キリスト者に出会ったという人もいるでしょう。直接その人に会わなくても、キリスト者が書いた本や文章に出会って教会へと導かれた方もいるでしょう。私の場合は本でした。キリスト者が書いた本、文章を読み、そしてキリスト教を知りたいと思って教会に初めて行きました。
 人は様々なきっかけで教会の門をくぐるわけですが、そこには必ずキリストによって救われた人、主イエス・キリストの言葉によって新しく生きるようになった人がいるのです。しかし、その人は何か特別な人ではありません。ただ主イエスと出会ったという経験を持っている人です。自分の救いの体験を元に、イエス様のところへと人を連れて来るのです。

2.主イエスへと人々を招く
 今日与えられている御言葉においては、主イエスと出会い、主イエスと話をしたサマリアの女性がその役割を担います。サマリアのシカルという町の井戸端で、水を汲みに来た女性が主イエスと出会いました。主イエスはこの女性に向かって、あなたには五人の夫がいたが、そのすべてと別れ、今は六人目の男性と連れ添っている、と告げました。女性は、初対面のユダヤ人にこんなことを指摘され、この人はただ者ではない、神様から遣わされた預言者だと思いました。そして、サマリア人とユダヤ人が対立している信仰について、礼拝する場所について尋ねました。ゲリジム山での礼拝が正しいのか、エルサレムでの礼拝が正しいのか。主イエスの答えは、この女性の思いを超えたものでした。主イエスは、そのどちらが正しいとも言わないのです。そうではなくて、「霊と真理ともって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」と告げたのです。そして、この女性が「キリスト、メシアが来られる時にはすべてを知らせてくれるでしょう。」と言うと、主イエスは「わたしがそれだ。」と宣言したのです。この宣言に、この女性は驚いたと思います。しかし、ただ驚いたのではありません。喜び、驚いたのです。
 28〜30節「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」とあります。この女性は、何と水がめをそこに置いたままで、町に引き返し、人々に言ったのです。「さあ、みんな来て!見て!私の今までの人生を言い当てた人がいます。あの人はメシアかもしれない。さあ、みんな来て!」そう言って、人々を主イエスのもとに連れて来たのです。この時の、この女性の声は弾んでいたと思います。喜んでいたからです。水を汲みに来たことを忘れるほどに興奮していた。このことはとても大切なことでしょう。「とにかく来て見なさい。すごい方がいるんです。」彼女は、そう言って町中を歩いたのです。イエス様にそうするように頼まれたのでも、命じられたのでもないのです。ここには熱があります。水汲みという、大切な日常の生活を放り出してしまうほどの熱です。喜びの熱です。イエス様を伝えるとは、こういうことなのだと思います。暗い顔をしてつまらなそうにイエス様のところに来るように誘っても、誰も来ないでしょう。私は、無理に明るく演じましょう、と言っているのではありません。主イエスというお方との出会いは、私共を明るくするのです。今までの自分が変えられてしまうのです。
 この女性にとって、今まで五人の男性と連れ添って別れたことは、誰にも触れられたくないことだった。しかし、主イエスによって指摘され、そのことは隠しておきたい、隠し続けなければならないことではなくなったのです。自分を縛り付けていた過去から自由にされたのです。29節と39節で、聖書はこの女性が「わたしの行ったことをすべて言い当てました。」と繰り返し語って、人々を主イエスのところに連れて来ようとしたことを告げています。「わたしの行ったすべて」とは、五人の男性と連れ添い、そして別れたこと。そして今は6人目の男性と同棲しているということでしょう。そのことを、もうこの女性は隠さないでよくなったのです。隠しておきたい、触れたくない、そういう自分の過去から、この女性は自由にされたのです。昼に水を汲みに来るほどに、この女性は町の人々との関係だって良くなかった。町の人と会いたくない。それが今までのこの女性でした。しかし、この時彼女は自分から町の人々の中に入って行ったのです。そして、主イエスのもとに人々を招いたのです。女性自身が変えられているのです。そしてこの変化こそ、町の人々を驚かせ、主イエスのもとへと人々を導いたのでしょう。主イエスと出会って、この女性は変わったのです。自分を縛っていた過去から自由になり、人との関わりにおいても、引っ込んでいたのに自分の方から出て行った。そして、喜びの熱をもって、人々を主イエスのもとに連れて来ようとしたのです。

3.聞いて、分かって、信じる
 さて、この女性の言葉を聞いた町の人々はどうしたでしょうか。まず、この女性の言葉によって主イエスを信じました。次に、主イエスに自分たちのところにとどまるように頼みます。そして、主イエスは二日間その町にとどまりました。とどまったというのは、ただ二日間そこに居たということではないでしょう。二日の間、主イエスはこの町の人々に神の国の福音を宣べ伝えたに違いないのです。旧約聖書から説き明かされたことでしょう。41節に「イエスの言葉を聞いて信じた。」とあります。この町の人々の多くが、主イエスの言葉を聞いたのです。そして信じた。更に、42節に「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」とあります。町の人々は主イエスの言葉を聞き、そして主イエスが本当に救い主だと分かったので信じたというのです。整理しますと、町の人々は、最初この女性の言葉を聞いて信じた。そして次に主イエスから直接話を聞いた。それで本当に救い主だと分かったので信じたということです。ここでは、信仰が確かにされていく過程が明確に示されていると思います。
 最初に、主イエスを指し示す人の言葉を聞いて信じる。それが友人であれ、家族であれ、牧師であれ、主イエスを信じ、主イエスに救われている人の言葉を聞いて信じる。私共は皆そのようにして信仰へと導かれるものです。しかしそこから、「主イエスに聞く」ということが起きなければならないのです。それは、自分で聖書を読んで、主イエスの言葉と出会うということもありましょう。あるいは、この主の日の礼拝において聖書の説き明かしを聞いて、主イエスの言葉に出会うということでもあるでしょう。いずれにせよ、誰かが言ったから信じるというようなことではなくて、自分自身で本当に主イエスの言葉に出会う、そして主イエスの十字架が自分のためであることが本当に分かる、そして信じるということにならなければならないのです。
 キリスト教の信仰というものは、これこれをとにかく信じ込むというようなことではないのです。一人一人、自分自身が主イエスと出会い、主イエスの言葉を聞き、本当にこの方は私の救い主であると分かる、そして信じるということなのです。理性を失ったような信仰のあり方と、私共の信仰は違うのです。狂信、盲信、妄信ではないのです。主イエス御自身と出会い、本当にこの方が自分の救い主であると分かる、だから信じるということが大切なのです。

4.わたしの食べ物
 さて、主イエスとサマリアの女性との対話の中に、あまりつながりがないように見える話が31〜38節に入っています。サマリアの女性が町に行き、町の人たちを主イエスのもとに連れて行くという話の間にある、主イエスと弟子たちの会話です。これは一見話の流れとは別のように見えますけれど、そうではなくて、主イエスはこの弟子たちとのやり取りの中で、自分がサマリアの女性との間で話していたことは何なのか、これから起こることはどういうことなのか、そのことを説明していると読んで良いと思います。
 主イエスとサマリアの女性との対話は、弟子たちが町に食糧を買いに行っている間に起きたことが分かります。弟子たちが買い物から戻って来ますと、主イエスはサマリアの女性と話をしていた。それを見た弟子たちは驚いたと27節にあります。どうして驚いたのかというと、当時、男性と女性が一対一で話し込むなどということは、まことにふしだらなことと見なされていたからです。しかも、話をしていたのは、ユダヤ人がけがれていると考えていたサマリア人の女性です。弟子たちは主イエスがサマリアの女性と話している姿を見て、二重の意味で驚いたのです。しかし、あまりにも憚られるものですから、弟子たちの方から主イエスに、「何を話しておられたのですか。」などと聞くことも出来なかったのです。
 主イエスは、この時弟子たちの思いを察しておられました。それで、31節以下の主イエスの言葉になったのだと思います。弟子たちは町で買ってきた食糧を主イエスに差し出し、「ラビ、食事をどうぞ。」と言います。すると、主イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。」と言われました。弟子たちは何を言われているのか分からず、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか。」と互いに言い合いました。私もここにいたら、きっと弟子たちと同じように思ったのではないかと思います。弟子たちの反応はまことに常識的であります。ここで、サマリヤの女性との話のきっかけは「水」であったことを思い起こします。主イエスは、目の前のどんな物からでも信仰の話へと展開されます。弟子たちに対しては「食べ物」を手がかりに主イエスは話そうとされたのでしょう。
 主イエスは、34節「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と告げられました。これは、神様の救いの御業を行うこと、それが「わたしの食べ物」だということです。私共は毎日、食べ物がなければ生きられません。主イエスにとって、毎日神様の救いの御業を為していかなければ生きていけない、生きている意味がない、そう言われたのでしょう。つまり、あなたがたが町に食事を買いに行った時、わたしは神様の御業を行っていた。このサマリアの女性の救い、このサマリアの町の人々の救いのために働いていたのだ。そう答えられたのです。もちろん、この神様の救いの御業を成し遂げるのは、十字架によってであることは言うまでもありません。
 私の食べ物と言えるほどに、神様の御業に仕える日々を送りたいと思います。

5.刈り入れの業としての伝道
 また、35〜36節「あなたがたは『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」とあるのは、種を蒔けば刈り入れるまで四か月あると人は言うが、見てみなさい、このサマリアの町の人々は救いへの実りをつけ、もう刈り入れの時になっている、という意味でしょう。39節以下において、このサマリアの町の人々が主イエスを信じるという出来事が起きることを預言しているのです。
 そして、37節ですが、これは主イエスが種を蒔き、弟子たちが刈り入れると読むことが出来ますし、誰かが福音を告げ他の人が洗礼へと導くという代々の教会で続いている出来事を示しているとも読めます。私共が刈り入れるのは、自分以外の多くの人々が福音の種を蒔いたものですし、私共が福音の種を蒔いても、私共が刈り入れるとは限らないのです。ただはっきりしていることは、種を蒔かなければ実りを期待することは出来ないということです。「蒔かぬ種は生えぬ」のです。自分たちが刈り入れようと、次の世代、違う場所で刈り入れられようと、私共はせっせと種を蒔かねばならないのでしょう。詩編126編5節「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」と詩人は歌いました。確かに、収穫の刈り入れは楽しいものです。しかし、種蒔きはなかなか大変なのです。
 しかし、私共はここで良く考えなければなりません。私共は本当に自分たちで種を蒔いているのでしょうか。伝道は種蒔きなのでしょうか。大変な種蒔きは、既に主イエスが十字架の上でなさってくださったのではないでしょうか。だから、38節「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」と言われているのです。私共は自分で種を蒔くと考えているかもしれませんが、私共が種蒔きだと思っている伝道は、実は収穫の業なのではないかと思うのです。人々を主イエスのもとに連れて来る。これは収穫の業であり、それ故、このサマリアの女性は喜んでこの業を為したのでしょう。伝道は喜びの業、感謝の業、そうしないではいられない業であり、収穫の業なのです。だから、イザヤは「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」(イザヤ書52章7節)と歌ったのでしょう。既に神様の救いに巻き込まれ、神様の御支配の中に先に生かされた者が、良き知らせを伝えていくのです。既に救いの喜びの中に生きているのです。主イエスが救い主であるということが分かるということは、そういうことです。この一週もまた共々に、この喜びの業に仕えてまいりたいと思います。 

[2011年6月26日]

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