富山鹿島町教会

礼拝説教

「聖霊による礼拝」
イザヤ書 32章15〜20節
ヨハネによる福音書 4章16〜26節

小堀 康彦牧師

1.ペンテコステの出来事
 今朝私共はペンテコステの記念礼拝を守っております。主イエス・キリストは十字架にお架かりになり、三日目によみがえり、四十日間にわたって弟子たちにその復活の御姿を現され、天に昇られました。そして十日後、主は約束通り、弟子たちに聖霊を注いでくださいました。使徒言行録の第2章に記されていることです。この日、弟子たちは、ペトロを始め皆が、主イエス・キリストによって成就された神様の救いの御業を語りました。そして、悔い改めて洗礼を受け、神様から罪の赦しをいただくようにと告げました。キリスト教会の誕生であります。この日三千人もの人々が洗礼を受けたと使徒言行録は記します。私共は、この三千人という数字に驚いてしまうところがありますが、もっと大切なことは、主イエス・キリストの福音が告げられ、その救いに与る出来事が起きた。そして、その福音に生きる群れ、キリストの教会が誕生したということであります。このことは、今朝与えられている御言葉で言うならば、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来た」(23節)ということになるでしょう。

2.霊と真理をもって父を礼拝する
 ペンテコステの出来事は、まさに「霊と真理をもって父を礼拝する」という出来事が始まったということを意味しているのです。では、それまでの礼拝は「霊と真理をもって父を礼拝する」ものではなかったのか、という問いが生まれてくるでしょう。それについては、こう言って良いと思います。それまでの礼拝は、十分に「霊と真理をもって父を礼拝する」ものではなかった。では、どこが十分でなかったのか、不十分だったのか。
 第一に、「霊をもって」ということですが、これは文字通りの意味としては、聖霊によってということではなくて、人間の肉的なものと対比される霊によってということです。ですから、儀式や供え物や目に見える様々な形式によらず、真心をもってということですが、これは悔い改めをもってと言い換えても良いと思います。それまでの礼拝は、自分はアブラハムの子孫であり、救われるに値する者である。自分たちは律法に従った正しい礼拝を捧げている。そのような、自分の正しさを根拠に礼拝をささげていたのです。そうではなくて、礼拝というものはただ神様にあわれみを求める者として、悔い改めをもってささげられなければならないということなのです。しかし、この「まことの悔い改め」を与えてくださるのは聖霊なる神様ですから、その意味では「霊をもって」というのは、聖霊なる神様の導きによってと言っても良いのであります。そして、それはペンテコステにおいて与えられたのです。
 第二に、「真理をもって」ということでありますが、この真理というのは、数学や物理学における真理ではありません。ここで思い起こすべき聖句は、ヨハネによる福音書14章6節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。』」です。主イエス・キリスト御自身が真理なのです。つまり「真理をもってささげられる礼拝」とは、主イエス・キリストによって与えられた救いによって、一切の罪を神様に赦していただき、神様との親しい交わりの中で礼拝するということです。このような礼拝は、まさにペンテコステにおいてキリストを信じる群れに与えられた礼拝なのです。私共は日曜日に礼拝しているわけですが、十戒に示された安息日は土曜日であるにも関わらず、何故私共は日曜日に礼拝するのか。それは、主イエスがこの日に復活されたからです。主イエスの十字架によって罪赦され、その御復活によって新しく生きる者とされたことを喜び、祝い、礼拝するのです。このキリストの救いの御業、この救いを与えてくださった主イエスとの交わりの中で守られる礼拝、これこそが真理をもってささげられる礼拝なのです。そして、それはまさにペンテコステにおいて私共に与えられた礼拝なのです。
 第三に、「父を礼拝する」ということです。ペンテコステにおいて聖霊が注がれるまで、人は天地を造られた聖なる神様に対して、「父よ」と呼ぶことは出来ませんでした。しかし、聖霊を注がれ、主イエス・キリストの霊を与えられ、私共は神様に対して誰憚ることなく「アバ、父よ」と呼び奉り、礼拝することが出来るようになったのです。
 このように見て来ますならば、「霊と真理をもって父を礼拝する」という出来事は、ペンテコステにおいてキリスト教会に与えられたものであるということが明らかだろうと思うのです。そして私共は、今、こうして霊と真理をもって父を礼拝する者とされている。まことにありがたいことだと感謝せずにはおられないのであります。

3.悔い改めへ導く
 さて、この「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」との御言葉を主イエスがお語りになったのは、サマリアの女性との会話の中においてでした。先週見ましたように、主イエスは、このサマリアの女性との会話の中で「生きた水」「決して渇かない水」「永遠の命に至る水」を与えると告げ、この女性は「その水をください。」と主イエスに求めました。この水は聖霊を指しているのですが、この女性はそのことを分からないまま、まるで魔法の水を求めるかのように主イエスに求めました。それに対する主イエスの応答が、今朝与えられている主イエスとサマリアの女性との対話です。
 主イエスはいきなり、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われます。女性は言います。「夫はいません。」それに対して、主イエスは「まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」この女性は今まで五人の夫と連れ添ったが、そのすべてと別れて、今は六人目の男性と連れ添っている。しかも、その男性は夫ではないというのです。この女性は、何ともすさまじい人生を歩んで来たということが推察されます。この五人の夫との別れが、死別であったのか離婚であったのかは分かりませんけれど、五人という数は大変なものです。この女性にしてみれば、人に触れられたくない過去ではなかったかと思います。過去だけではありません。今連れ添っている男性が夫ではないということも、触れられたくはないことでしょう。しかし、主イエスはこの初対面の女性に対して、驚くほどずけずけと言われたのです。初対面の人にこんなことまで言うのは失礼ではないか、そう思われる人もいるでしょう。私などは、とても言えません。しかし、主イエスは言われたのです。何故でしょうか。
 ここには、主イエスが神の子であり、すべてを知っておられる方であるということが示されているのですが、それだけではありません。ただ知っているだけではなくて、その誰にも知られたくなく、自分でも触れたくない、その過去をはっきりと示すことによって、主イエスはこの女性に悔い改めを求められたのです。悔い改めは、具体的な出来事に対して起きるものです。確かに、私共が悔い改めるのは、私共の根本的罪、私共の存在の根っこにある、神様に反逆している有り様を悔い改めるのですが、それは少しも抽象的なことではないのです。私共は、自らの罪というものをどこで明らかにされるのかといえば、具体的な生活の中の出来事においてなのです。この具体的な罪の指摘を受けなければ、私共は自らの罪を認めようとは決してしない者なのです。ですから、主イエスはここで、この女性がもっとも触れられたくないところを、あえて白日の下に曝されたのです。この女性は、この指摘を受けて、主イエスに対して「あなたは預言者だとお見受けします。」と言わざるを得なかったのです。

4.ゲリジム山かエルサレムか
 そして、この女性は、「預言者であるならば、礼拝について知っているはずだ。」そう思って尋ねるのです。20節「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」これは、当時サマリア人たちはゲリジム山という所で礼拝しており、ユダヤ人たちはエルサレムで礼拝していた。そのどちらが本当なのかということです。サマリア人とユダヤ人とは、元をたどれば共にイスラエルの部族でしたが、当時は互いに異邦人に対するよりも忌み嫌う仲になってしまっていたのです。ちなみに、ゲリジム山というのは、申命記11章29節に「あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、」とあり、また、アブラハム、ヤコブにさかのぼる、伝統ある礼拝所だとサマリア人は考えていました。一方、ユダヤ人たちはエルサレムこそが神様が選ばれた礼拝所であると考えていたのです。この女性は、いつの間にか主イエスのお語りになりたいこと、信仰の話へと引き込まれていっています。「水を飲ませてください。」という一言から始まって、いつの間にか信仰の話へと導かれている。本当にイエス様はすごいなと思わされます。私も伝道者として、いつでも信仰の話をしたいと思っているのですけれど、なかなかそれが出来ずに、世間話をして終わってしまうことが多いのです。しかし、イエス様はそうではありません。この女性を救いへと導かれるために、話を展開されているのです。
 さて、主イエスはこう答えられます。21節「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」大切なことは、礼拝する場所ではない。ゲリジム山で捧げられているから正しい礼拝、エルサレムで捧げられているから正しい礼拝、そいういうことではないと言われるのです。大切なことは、誰を礼拝するのか、何を弁えて礼拝するのか、そのことが大切なのだ。そう言われたのでしょう。霊と真理をもって父を礼拝するかどうか、しているかどうか、そのことが問われなければならないのです。

5.神様は礼拝する私を求める
 そして、主イエスは言われました。23節「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」ここで、「なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられる」と言われていることに注目しなければならないでしょう。まことの礼拝を、霊と真理をもって父を礼拝することを神様は求めておられる。そのように礼拝する者を神様は求めておられるのです。
 私共は、礼拝というものを、しばしば自分を基準にして考えてしまうところがあります。礼拝に出席すると気分が晴れるとか、感動するとかしないとか、オルガンの音が良いとか悪いとか。それらがすべて意味がないとは思いません。しかし、まことの礼拝というものは、私共の気分が晴れるために為されるようなものではないのです。神様が求められるが故に、神様が与えてくださっているものなのです。私共の礼拝は、「招きの言葉」をもって始まっています。それは、この礼拝は神様が私共を招いてくださって、それによって成立しているということを意味しているのです。今朝ここに集っている方は、一人の例外もなく、皆、神様に招かれた方なのです。神様が私共一人一人を求められた。まことの礼拝をささげる者として求められた。だから、今ここに居るのです。私共が神様を求める前に、神様が私共を求められた。霊と真理をもって父を礼拝するようにと、私共を求められたのです。
 この女性は、主イエスのこのまことの礼拝についての言葉を聞き、25節「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と答えます。それに対して、主イエスは遂に「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と告げられたのです。主イエス御自身が、ここではっきりと、わたしが救い主、キリスト、メシアなのだと告げられたのです。これほど明確に、主イエス御自身が、御自分が救い主であることをお語りになられた箇所は、そんなに多くありません。ここで主イエスは、御自身が救い主、キリストであることを示すことによって、21節における「婦人よ、わたしを信じなさい。」との招きをより明確にされました。「わたしを信じなさい。」それは、主イエスのお語りになったことを信じるということであると同時に、主イエス御自身を信じるということです。そして、そのことによって、そのことによってのみ、まことの礼拝、霊と真理をもって父を礼拝するということが成立するということなのです。まことの礼拝は、私共の宗教的熱心や気分によって成立するのではないのです。聖霊なる神様が私共の中に主イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださり、一切の罪を赦してくださり、神様を「父よ」と呼び奉る者とされることによって与えられるものなのです。そしてこの礼拝は、この地上において為されるだけではなくて、天上においても為されるものなのです。何故「まことの礼拝」が大切なのか。それは、この「まことの礼拝」が天上へと繋がる、終末へと繋がっているからです。この礼拝こそが、私共が神様に似た者として造られた目的だからです。
 私共はただ今より聖餐に与ります。この聖餐は、天上において私共が与る、主イエスとの共なる食事を指し示しています。神様に招かれてこのまことの礼拝に与る者は、やがて主イエスが再び来たり給う時、共々によみがえり、主イエスの御前で共に祝いの食事に与ることになるのです。そのことを覚えて心から主をほめたたえ、その日に向かってこの一週も歩んでまいりたいと願うのであります。

[2011年6月12日]

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