1.天を裂いて降ってください
主イエスがお生まれになる600年ほど前、神の民はバビロンに国を滅ぼされ、エルサレム神殿は灰燼に帰し、民は捕らえられてバビロンに連れて行かれました。バビロン捕囚であります。預言者イザヤは、このバビロン捕囚という困窮のただ中にあって、神様の愛が分からない、神様の憐れみが見えないと嘆きました。イザヤ書63章15節「どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは抑えられていて、わたしに示されません。」しかし、その嘆きのただ中で、イザヤはすべての神の民に代わって神様に祈り、訴え、願ったのです。16節「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』、これは永遠の昔からあなたの御名です。」イザヤは、その困窮の中でなおも神様への信頼を失いません。神様の御前に立ち、「あなたはわたしたちの父」ではありませんか、「あなたはわたしたちの贖い主」ではありませんか。そう訴えるのです。そして、17節「立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために。」と願います。イザヤは、「神様、あなたが私たちを永遠に捨てるはずがありません。そんなことをするなら、あなたの真実はどこにあるのでしょうか。あなたの真実は、どこまでも神の民を見捨てないという愛の中にこそ現れるのではありませんか。だから、あなたは立ち帰ってくださらなければならないし、そうしてくださるはずです。そうでなければ、あなたの真実が立たないではないですか。」そう信じ、祈り、訴え、願ったのです。そしてついに、19節「どうか、天を裂いて降ってください。」と祈りました。
天は神様がおられる所、地は人間の住む所です。天と地とは、決して交わることのない、隔絶したものです。イザヤは、そんなことは百も承知です。この地は人間の世界であり、それ故罪に満ち、力ある者が弱い者を支配し虐げている。悲しみがあり、嘆きがある。その嘆きのただ中から、イザヤは神様を見上げて、「どうか天から降ってください。」と訴えるのです。「あなたが天から降って来てくださって、この地に満ちた罪を、不正を裁いてください。あなたの憐れみを、あなたの真実を直接示してください。」そう願い、訴えたのです。このイザヤの祈りは、度はずれた、あり得ないことを願い求める祈りです。天におられる神様に向かって、「天から見ているだけじゃなくて、地に降って来てください。直接あなたの憐れみを、真実を示してください。」そう祈ったのです。
2.神の御子の到来
そして、神様はこの祈りを退けられませんでした。「そんなことはありえない。」と言って退けられたのではないのです。もちろん、神様がそのまま天から降って来るというあり方で、この訴えを聞き入れてくださったのではありません。何故なら、神様御自身が直接降って来られたなら、地は地でなくなります。神様が直接天から降って来られたなら、地にあるすべては一瞬にして滅びるしかありません。聖なる神様の御前に直接出ることが出来る者、つまり一点の罪の曇りもない、罪のかけらもない者など、ただの一人もいないからです。神様は、天を天とし、地を地としたままで、このイザヤの祈りを聞き、すべての被造物を救いへと導かれる道を与えてくださいました。それが、神の独り子である主イエス・キリストの到来でした。永遠に神と一つであられる神の独り子が、天を引き裂いて地に降って来られたのです。それは神様の愛と真実とを現すためでした。地に住む愛する民を罪の滅びから救い出し、天の御国へ、御自分のもとへ受け入れるためでした。一切の罪を赦し、神の子として受け入れるためでした。愛する独り子を地に降って来させて、すべての罪の身代わりとして十字架の裁きを受けさせ、それによって赦しを与えるためでした。この独り子の誕生、十字架、復活。ここに神様は自らの愛と真実とを示されたのです。それが救い主、メシアの到来でした。長い間預言者たちによって預言され、神の民によって待ち続けられていた救い主、メシアの到来でした。
主イエス・キリストが天から降って来られた時、このことを知っている者は誰もいませんでした。ほんの一握りの人、主イエスの父ヨセフと母マリア、それに天使たちによって知らされた羊飼いたちだけが主イエスの誕生を喜んだ、とルカによる福音書は記します。クリスマスの場面です。しかし、天上においては全ての天使達がこのことを喜び祝いました。地においては隠されている神様の救いの御心と御業とは、天上においては明らかにされていたのです。やがて主イエスは成人し、救い主としての歩みを始められます。その時、この神様の救いの御計画を知らされている人がおりました。それが洗礼者ヨハネです。彼は、主イエスを救い主として証しし指し示すために、神様から遣わされた者だったからです。
3.天のことと地のこと
今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネの言葉です。31〜32節「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」ここでヨハネは、「地は地であり、地から出た者、地に属する者は、天を語り得ない。そして、天から来られる方は、御自身が直接見たこと、直接神様から聞いたことを語る。しかし、人々はこの方の語ることを受け入れない。」と言うのです。
これは難しいことを言っているのではありません。当たり前のことを言っているのです。人間は、地上のこと、目に見えること、それしか分からないし、それしか語れない。しかし、天から来られた主イエスは、神の独り子であられるが故に、神様の御心を知っておられ、だからそれを語る。しかし、それは地に生きる者にとっては、さっぱり何のことか分からないので、受け入れることが出来ないと言うのです。
これは説明の必要がないほど、私共にはよく分かることでしょう。自分が初めて教会に来た頃のことを思い出せば良いのです。まさにその時の状態が、ここで言われていることなのです。あるいは、私共が誰かにキリストの福音を伝えたいと願い、語った時に、何が起きるかを思い起こせば良いでしょう。私共が主イエスの福音を愛する者や友人に話したときに、初めから「あなたの言うことは良く分かる。」そんな風に伝わったことがあったでしょうか。私共が教会に始めてきたとき、「牧師の説教が良く分かる。」そんなことがあったでしょうか。歴史や文化や経済の話なら、話し方の問題はあるにせよ、人間が考えることですから、分からないことはない。しかし、天のこととなると話は別です。何を言われているのかさっぱり分からない。分からないのですから、受け入れようがない。この天のことというのは、神様のこと、神様の御心、神様の御計画というものです。「これは神様に聞いてみなけりゃ分からない。」そういうものでしょう。それを知っているのは、神様と永遠に一つであられる神の独り子である主イエス・キリストしかおられない。主イエスは、神様を直接見、神様と直接語り合い、神様の御心と一つであられた方だからです。だから分かるのです。しかし、その主イエスの話を聞いても、人々はこれを受け入れないというのです。分からないからです。これが、主イエスが来られて二千年の間続いていることなのです。私共は、日本という国がとても伝道困難な国であると思っているところがありますけれど、日本が特別に困難だということではないのです。地に属する者は天のことが分からず、主イエスのお語りになることが分からず、それ故これを受け入れないものなのです。二千年間、ずっとそうなのです。
4.聖霊の働きによって信じる者とされる
だったら、私共はどうして主イエスの語られたことを受け入れ、信じたのか、信じているのか。これこそまさに奇跡と言うべきことなのだと私は思っています。私は、自分がキリスト者である、しかも牧師として歩んでいる。これは本当に不思議なことで、奇跡としか言いようのない、本当にありがたいことだと思っています。私共がキリスト者であるということは、少しも当たり前のことではないのです。私共一人一人がキリスト者として誕生したという出来事は、まさに奇跡なのです。「神様の奇跡などどこにあるのか。」と言う人に対して、私共は「ここに奇跡の証人がいます。私の存在そのものが奇跡なのです。」そう語ることが出来るほどのことなのでしょう。
33節で「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」とあります。主イエスのお語りになったことを信じ受け入れた者は、神様の真実、独り子を与えるほどに私を愛してくださったという神様の愛の真実を知らされた者です。神の真実とは、どこまでも私共を見捨てず、愛し通されるというあり方において示される真実です。この神の愛の真実によって生かされている。そのことを、ただ感謝をもって確認させていただいている。それが私共なのでありましょう。主イエスを信じ、主イエスがお語りになったことを信じ、受け入れながら、神様に感謝することが出来ない。それはあり得ないことです。主イエスを信じるということは、神様の愛を信じるということと一つだからです。
キリスト教は、キリスト教の教えを信じ込むということではないのです。主イエス・キリストというお方を信じるということであり、この方によって私共への真実な愛を示してくださった神様を信じるということです。主イエス・キリストとの愛の交わり、生けるただ一人の神様との愛の交わりに生きるということです。それはまさに親子、夫婦のように、神様との親しい交わりの中に生きることなのです。
さて、このキリストを信じるという奇跡が私共に与えられた時のことを思い出していただきたいのです。それは一人一人違うあり方で、それぞれの証しがあることと思いますが、誰にでも共通しているのは、ある時、神の真実に触れたということだと思います。神様の愛に触れて分かったということだと思います。ある人は、神様が自分を決して見捨てないということが分かったということかもしれません。ある人は、自分が神様にとらえられているということが分かったということかもしれません。ある人は、自分が本当に罪人であり、そのためにイエス様が十字架に架かってくださった、自分がイエス様を十字架に架けた者だということが分かったということかもしれません。またある人は、自分は今まで当たり前だと思っていたけれど、本当に神様に愛されていたのだということが分かったということかもしれません。それぞれ分かった観点は違うかもしれませんが、ある時「ハッと分かる」「本当にそうだと分かる」そういう経験が誰にもあったのです。
そしてその時、その「分かる」という出来事を引き起こすきっかけとなった「言葉」があったと思うのです。その言葉が説教の言葉である場合もあるし、聖書の言葉がよみがえってということもあるでしょう。あるいは友人の語った一言であるかもしれない。この「言葉」が大切なのです。34節「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が”霊”を限りなくお与えになるからである。」とあります。主イエスが語られた言葉は、聖霊の働きと共にありました。聖霊が働く時、言葉は、神の言葉として私共に臨み、生ける神様の御心を私共に示し、私共に分からせ、受け入れさせてくださるということなのです。私共の理解力が優れていたから分かるというようなことではないのです。人間は誰でも地に属する者なのでありますから、自分の力や能力で神様の言葉が分かるということは起き得ないのです。本来分かるはずがないことが分かり、受け入れられ、信じられる。それは、ただ聖霊なる神様のお働きによるとしか言いようがないのです。
私共は、あの人はクリスチャンホームに育ったから、あの人はミッションスクールに通っていたからという風に、その人の育った環境に信仰へと導かれた理由を見つけようとするところがありますが、それは違うのです。どんな所で生まれようが、育とうが、聖霊が働いてくださらなければ分からない、受け入れられないのです。クリスチャンホームに育った、ミッションスクールに通ったというのは、この神様の言葉に触れる機会が多かったということでしょう。しかし、同じ言葉を聞いても、受け入れる人と受け入れない人が出る。これもまた現実なのです。神様の言葉を私共が受け入れ、信じられるというのは、まさしく聖霊なる神様の御業だからです。
5.信じない者にならないで、信じる者になりなさい
35節「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」とありますように、その人が救いに与るかどうかは、御子イエス・キリストの御手の中にあることなのです。これが「神の選び」というものです。この「神様の選び」ということについて、決して誤解して欲しくないことがあります。それは、この「神様の選び」というものは、あの人は救われている、あの人は救われていないというように、人間の目に明らかになることは決してないことなのです。私共は、キリスト者でない人を未信者と呼びます。「まだ信者になっていない人」という意味です。今日までキリスト教に対して大変厳しい態度だった人が、明日はキリストを信じる人に変えられる、そういうことだって起きるのです。聖霊なる神様の働きの中でのことですから、そのことに関して、私共には見通しなどというものは決して立たないのです。だから未信者なのです。このことをきちんと弁えていませんと、36節の言葉は誤解してしまうことになります。
36節「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」とあります。主イエス・キリストを信じる人は、主イエスと一つに結び合わされて、主イエスの十字架の救いに与り、復活の命にも与ります。既に救われている。これが私共に与えられている恵みの現実であります。ありがたいことです。一方、「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」というところは、「だからイエス様を信じていないあの人は」という風には決して読んではいけないのです。誰が最後まで主イエスに従わないのか分からないのですから、誰にもそんな風に言うことは出来ないのです。もちろんそれは、ここで告げられていることがどうでもよいということではありません。ここに告げられておりますことは、厳然たる神様の御心、救いの秩序です。このことを知ったなら、私共は御子を信じない者にならないで、信じる者になろう、信じる者であり続けようと願うのでしょう。私共が救われるかどうか、それは御子を信じるかどうかにかかっているのです。すべての人の前に、救いに至る、永遠の命に至る御子を信じる道と、神の怒り、永遠の滅びに至る御子を信じない道がある。私共は皆、この二つの道の分岐点に立たされているということなのです。これは、あの人この人のことではありません。私自身のことです。私の命がかかっていることです。実にここには、信じない者にならないで、信じる者になりなさいという、神様の招きがあるのです。この招きに応えて、主イエスを信じる者として、主イエスによって拓かれた救いの道、永遠の命に至る道を、この一週も歩んでまいりたい。そう心より願うのであります。
[2011年5月29日]
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