1.文脈の中で
今朝与えられております「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という御言葉は、大変有名な聖句です。宗教改革者ルターは、この御言葉を「小さな聖書」と申しました。この短い言葉の中にキリストの救いというものがギュッと凝縮されている、そう言って良いでしょう。私が牧師から最初に覚えるように言われた聖書の言葉も、これでした。皆さんの中にも、私と同じように、この聖句を最初に覚えたという方もおられるかと思います。聖書の言葉について、何書の何章何節の言葉かということを覚えるのが苦手という人、私もそうなのですが、そういう人でも、これだけはヨハネによる福音書3章16節と言える、それほどまでに有名な御言葉です。
しかし、このように有名な聖句は、この一つの文章だけがクローズアップされまして、逆にどのような文脈の中での言葉であったのかを忘れられやすいという側面もあります。この聖句を覚えている方で、この聖句がどのような場面で告げられているかをきちんと言える人がどれほどいるでしょうか。この言葉は、主イエスとニコデモとの対話という文脈の中で記されている御言葉なのですけれど、その文脈抜きで語られる場合が多いようです。もちろん、「小さな聖書」と言われるほどですから、この一句に集中して御言葉を受けることも出来ます。けれども、私共はこのヨハネによる福音書を順番に、連続講解というあり方で御言葉を受けているのですから、今日は主イエスとニコデモとの対話という本来の文脈の中で、この言葉を味わいたいと思うのです。
2.聖霊が分からない
先週見ましたように、ファリサイ派に属し議員でもあったニコデモという人が、ある夜主イエスを訪ねて来ました。そのニコデモに対して、主イエスは「人は、新たに生まれなければ、水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と告げました。これは、「人は、神様によって、聖霊の働きによって新しい人に生まれ変わらせていただかなければ、人間は誰も救われない。」と言われたわけです。しかし、ニコデモはファリサイ派に属する熱心なユダヤ教徒ですから、自分の力で、自分が律法を守って、良い人間、正しい人間になることによって救われると思っていたわけです。二人の対話は、この救いについての根本的な理解の違いから、どうしても食い違ってしまいます。主イエスが「霊から生まれる」ということを語りますと、ニコデモは9節で「どうして、そんなことがありえましょうか。」と言うのです。
ニコデモは、神様によって、聖霊の働きによって、人が全く新しい人に生まれ変わるということが信じられなかった。受け入れることが出来なかったのです。しかし、誰もニコデモを責めることは出来ないでしょう。主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、神の子、神の僕とされる中で新しい人に生まれ変わるということを、私共も皆、少しも分かっていなかったと思うのです。私は25年牧師をしていますが、洗礼を受ける前から聖霊の働きが良く分かるという人に出会ったことがありません。私自身、父なる神や子なるキリストは何となく分かるけれど、聖霊がよく分からないということが随分長く続いたと思います。洗礼を受ける時、長老会の試問で「三位一体を信じますか。」と聞かれて、正直に「よく分かりません。聖霊がよく分からないのです。」と答えたことを覚えています。35年前のことです。
聖霊が分かるということは、この主の日の礼拝に集いながら、いろいろな神様の救いの出来事に出会う中で、少しずつ分かっていく、そういうものなのだと思います。ですから、この時ニコデモが、主イエスの言われたことが分からなかったとしても、少しも不思議ではない。むしろ当然のことだったと思います。
3.「地上のこと」と「天上のこと」
このニコデモに対して、主イエスは11〜12節「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と言われました。主イエスが「地上のこと」と言われているのは、主イエス・キリストを信じ、聖霊によって新しくされた者たちのことです。主イエスは十二使徒に代表される、主イエスの弟子たちを見ておりました。この聖霊によって人間が新しくされるというのは、私共自身の身の上にも起きたことですから、地上でのことなのです。しかし、主イエスは天から下って来られた神の独り子でありますから、天上のことも語ることがお出来になります。では「天上のこと」とは何なのか。天上では天使が音楽を奏で、舞い、白い衣を着た人が…といった話ではないのです。主イエスがここで天上のことと言われているのは、そういうことではなくて、13節以下で語られているようなことです。つまり、主イエスが天から来られた神の独り子であり、その神の独り子が十字架にお架かりになることで、すべての人の裁きの身代わりとなる。神様はそれほどまでに私共を愛してくださっている。このような神様の救いの御計画、神様の私共に対する愛、それこそが天上のことなのです。何故なら、それは天上の神様の御心であるからです。この神様の救いの御計画、愛、御心こそ、「天上のこと」そのものです。
4.命をかけた主イエスの言葉
14節は説明が必要でしょう。これは民数記21章4〜9節の出来事を背景としています。出エジプトを果たしたイスラエルの民が、旅の途中で神様とモーセに逆らってつぶやくのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。荒れ野で死なせるためか。パンも水もなく、粗末な食物では気力もうせる。」すると、神様は炎の蛇を民に送り、多くの民がその蛇にかまれて死んでしまいます。その時、モーセは神様に執り成しの祈りをささげ、神様から、青銅の蛇を一つ作り、それを旗竿の先に掲げるように言われたのです。そして、これを見上げた者は、蛇にかまれても死ななかったのです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」というのは、この出来事を指しています。
主イエスは、このモーセによって掲げられた青銅の蛇に御自分をなぞらえ、「人の子」つまり主イエス御自身も上げられなければならないと言うのです。どこに上げられるのか。それは十字架の上にです。主イエスが十字架の上に上げられることによって、主イエスを信じる者が永遠の命を得ることになるのです。14〜15節「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とはそういうことです。
主イエスは、人々が永遠の命を得る、神の国に入る、そのために自分は十字架に架けられる、と言われているのです。ここが大切なところです。主イエスは、こうすれば永遠の命を得ることが出来ます、神の国に入ることが出来ます、その方法を教えましょう、と言っているのではないのです。もし、そのようなことを教えるだけなら、それは教師です。しかし、主イエスはその道をただ教えるというのではなく、十字架の上で死ぬことによってその道をわたしが拓くと言われた。そして、実際にそうされたのです。これは、ただの教師ではありません。まさに救い主であり、我らの主なのです。
ニコデモは、どうしたら神の国に入れるのか、その方法、その道筋を教えてもらおうとして主イエスの所に来たのかもしれません。しかし、主イエスは、単にそのような宗教的知識を教えるだけの方ではなかったのです。自らの命を捨ててその道を拓く、あなたのために拓くと言われたのです。主イエスとニコデモとの対話は、いつしかそのような主イエスの命がけの対話となっているのです。
5.ニコデモが伝えた言葉
この時、ニコデモがどのような反応をしたのかは聖書に記してありませんので分かりません。しかし、この時の主イエスの言葉に納得して主イエスを信じるようになった、ということではなかったと思います。話されたことがすぐには分からなかったし、受け入れることも出来なかったはずです。しかし、主イエスが御自分の命を捨てて、人々を神の国へと導こうとされている。永遠の命への道を拓こうとされている。この命がけの力ある言葉、その人格的な迫力に、この時ニコデモは圧倒されたことは間違いないと思うのです。
ニコデモという人は、このヨハネによる福音書には後で二回出て来ます。7章と19章です。7章50〜51節で、主イエスが祭司長たちに捕らえられそうになった時、ニコデモは主イエスを弁護しています。そして、19章39節以下では、主イエスが十字架の上で死んだ後、アリマタヤのヨセフによって遺体が引き取られ墓に入れられる時に、ニコデモは没薬を持って来て、主イエスの遺体を葬ったのです。このような形で出て来るということは、ニコデモは主イエスの十字架と復活の後にキリスト者となったと考えて良いのだと思います。
更に言えば、この有名なヨハネによる福音書3章16節の御言葉は、ニコデモによって伝えられたのではないでしょうか。主イエスとニコデモとの対話の中での言葉なのですから、そのように考えて良いはずです。とするならば、ニコデモはこの主イエスの言葉を、あの時は分からなかったけれど、本当に本当のことだと分かった。私は、主イエスを信じて、霊によって新しく生まれ変わらせていただいた。本当にありがたいことだ。そういう思いの中で、この話を他の弟子たちに伝えたのではないか。そう思うのです。ですから、このニコデモと主イエスの対話は、後に主イエスを信じ、主イエスの救いに与ったニコデモが、主イエスに初めて出会ってお話しした時、自分は何も分かっていなかった。しかし、そんな自分に対して、主イエスは正面から向き合ってくださって、福音の真理を説いてくださった。何と幸いなことか。何とありがたいことか。だから、この福音をみんなに知ってもらいたい。そういう願い、思いをもって伝えられたものとして読むことが出来るのではないか。そう思うのです。
6.主イエスの十字架に現れた愛
16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「世を愛された」と言われている「世」とは、全世界、全人類を指しています。世を愛された神様の愛からこぼれ落ちている人は一人もいないのです。ですから、この「世」というところに、私共は自分の名前を入れて読むことが出来ます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、小堀康彦を愛された。独り子を信じる小堀康彦が滅びないで、永遠の命を得るためである。」ありがたいことです。ニコデモも、そのようにこの言葉を受け取ったのだと思うのです。皆さんも、自分の名前を入れて読んだらよい。自分の名前だけではありません。自分が愛する、あの人、この人の名前を入れて読んだら良いのです。
神様の愛は、まことに度外れた愛です。まことに激しい愛です。自分に敵対する罪人である私共のために、天地の造られる前から共におられた愛する独り子を、私共の身代わりとして十字架にお架けになったのです。それほどの価値が私共にあるとはどうしても思えない。しかし、神様はそうなさった。どうしてなのか、私共には分かりません。それが神様の愛だからとしか言いようがない。そして、それによって私共が罪赦され、神の子とされ、永遠の命を受けることになった。それは確かなことです。
愛というものは言葉に表しても、うまく伝えることは出来ません。神様の愛にしても、このような愛というあり方では言い表せません。しかし、この愛は愛する御子を十字架におかけになるというあり方で現れたのです。この主イエスの十字架という出来事によって、神様の愛は私共に示されたのです。何万回「愛している」と言われても、その愛は分かりません。しかし、この愛する独り子を十字架に架けてまでも、敵対してた罪人である私共を神の子とし、永遠の命を与え、救ってくださった。ここに愛があるのです。
7.光のもとに来ない罪人の現実
18節以下は、あまり頭の中でひねくり回さない方が良いと思います。とても単純に、信仰の現実、救いの現実が言われていると読むべきだろうと思います。
18節「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」「御子を信じる者は裁かれない。」これは私共与えられている救いの現実です。しかし、その次の「信じない者はすでに裁かれている。」というのは、ドキッとするでしょう。しかしこの御言葉は、まだ主イエスを信じていないあの人この人が既に裁かれている、もう救われない、そんなことではないのです。「信じない」というところに留まり続けるならば、信じることによってしか裁きを免れないのですから、裁かれるしかない。信じないというところに留まり続けることは、裁かれるということと同じことなのだと言っているのです。
また、19〜21節も、まことの光である主イエスが来られたのに、主イエスを信じない、主イエスのもとに来ないということは、闇を好み、光を憎んでいるのだ、ということです。これは私共の罪の現実でしょう。自分の罪を認めず、自分はそれなりに良い人、正しい人だと思っている。ニコデモもそうでした。私共もそうでした。そうであるが故に、全面的に主イエスを信頼し、悔い改めて罪の赦しを神様に求めることが出来なかったのです。それなりに良い人だ、正しい人だと思っている限り、まことの光である主イエスの所に、神様の方に来ることはないのです。それは、ゴキブリが暗いところから光の所に出てくると、すぐに暗闇の方に戻っていくのと同じです。ゴキブリは光が嫌いなのです。罪人の真の光である主イエスに対しての態度は、このゴキブリの習性と同じです。
人は反省はします。しかし、なかなか悔い改めることは出来ません。悔い改めは、全面的に神様の前に降伏すること、自分は根本的に間違っていたということを認めることだからです。反省は、自分が悪いことをしたと思った部分だけを悪いと認めることです。「あのことは本当に悪かった」と反省しても、「あのこと以外は悪いとは思っていない」のです。根本的に悪いとは思っていないのです。それが反省です。それに対して悔い改めというのは、全面的に、私という存在そのものが悪に染まっていることに気付き、根本から変えてくださいと神様の御前にひれ伏すことです。まことの光である主イエスのもとに来るということは、そのような悔い改めをもって主の御前にひれ伏すということなのです。しかし、なかなか人はそれを認めず、自分の正しさにしがみついている。それが、闇の方を好むということです。
ニコデモが「夜」に主イエスを訪ねたというのは、単に訪ねた時間が夜だったというだけではなくて、この時ニコデモは「自分の正しさ」というものにしがみつき、神様の御前に全面降伏することが出来ない者であったということを示しているのでしょう。それが闇です。それが罪人の習性であり、それが闇の中に生きているということなのです。しかし、そのようなニコデモもまた、主イエス・キリストのまことの光の中に生きる者とされ、永遠の命に生きる者とされたのです。私共も皆、夜に主イエスを訪ねたニコデモでした。しかし、変わった。変えていただいた。神の子、神の僕とされたのです。永遠の命を得る者とされたのです。まことにありがたいことであります。この救いの恵みに与っている幸いを感謝し、新しい一週も光の子として、闇と決別して、光に向かって、光の中を歩んでまいりましょう。
[2011年5月15日]
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