1.新しい心を、新しい霊を
「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(エゼキエル書36章26節)と、神様は預言者エゼキエルを通して約束してくださいました。新しい心を与え、新しい霊を置く。石の心を取り除き、肉の心を与える。この神様の救いの御業の預言を成就するため、主イエス・キリストは来られたのです。
主イエスが来られる六百年ほど前、神の民イスラエルは、天地を造られた神様と契約を結んだ神の民でありながら、その神様を裏切り、神様から離れ、偶像を拝むという愚かな道を歩みました。神様は、そのような神の民に対して、バビロン捕囚という裁きをもって臨まれたのです。神の民を懲らしめ、神の民に悔い改めを求めるためでした。しかし、神の民は神様の御心を受けとめて、心から悔い改めて歩み直すということが出来ませんでした。人間は、神様の真の愛を受け止めることの出来ない自分の思いや考えに凝り固まっていて、石のように硬い心しか持っていないのです。これが人間の罪、私共の罪です。神様は、そのような人間に、神様の真の愛を受け取ることの出来る軟らかな肉の心を与え、神様との親しい交わりの中に生きることが出来るように、新しい人間として造り変えようとしてくださいました。新しい心、新しい霊を与えてくださり、神の子、神の僕としての新しい歩みを与えようとしてくださったのです。そして、その神様の救いの御業を成就するために、主イエス・キリストは来てくださったのです。
2.ニコデモの訪問
今朝与えられました御言葉において、ニコデモという人が出て来ます。1節を見ますと、ファリサイ派に属する人で議員であったと記されております。ファリサイ派に属するということは、何百とある律法を守って日々の生活をしている、大変熱心なユダヤ教徒であったということです。食事の時の作法から、安息日にしてはならないことまで、たくさんの細かな律法をきちんと守ることによって救われる、そう信じていた人でありました。また、議員であったとあります。当時ユダヤはローマ帝国の支配のもとにあったわけですが、軍事と税金のこと以外は殆どユダヤ人による自治を認めておりました。そのユダヤ人の自治組織である議会の議員であったということです。ですから彼は、社会的地位もあり、人望もあり、教養もある人だったと考えて良いと思います。
そのような人が主イエスの所を訪ねて来たのです。2節を見ますと「ある夜」とありますから、ニコデモが主イエスを訪ねたのは夜であったことが分かります。どうして夜だったのか。理由は記されておりませんけれど、分かる気が致します。ニコデモが主イエスを訪ねる前に、主イエスは神殿で犠牲のための動物を売っている人や両替をしている人たちを追い出したのです。そのようなことをした主イエスは、エルサレム神殿の当局者やユダヤの自治を委ねられている人々から見れば、とても困った人物、要注意人物と見られていたと考えて良いでしょう。主イエスはこのエルサレム神殿での騒動の後で、エルサレムにおいていくつかの奇跡を行い、それを見た人の多くが主イエスを信じたということが2章の23節に記されております。多分、ニコデモもその内の一人ではなかったかと思います。しかし、彼には社会的立場があるわけで、とてもエルサレム神殿で騒ぎを起こしたような人の所を白昼堂々と訪ねることは出来なかったのだと思います。彼は人目を忍んで主イエスに会いに来たのでしょう。だから、彼は夜に主イエスを訪ねたのだと思います。
この時、彼は何のために主イエスを訪ねたのか、はっきりと記されてはおりませんけれど、主イエスとのやり取りから想像することは出来ます。彼は、どうしたら神の国に入ることが出来るのか、そのことを主イエスに教えていただこうとして来たのだと思います。彼は真面目に、真剣に主イエスに教えを請いに来たのだと思います。ですから、たとえ夜であろうと、わざわざ自分から主イエスを訪ねて来たのです。しかし彼はこの時、新しい心、新しい霊が自分には必要だとは思っていなかったのです。
彼はファリサイ派の人です。自分はアブラハムの子孫であり、律法も守っており、自分が救われるということについて疑ってはいなかった。自分は正しい人であり、良い人であり、根本的に変わらなければならないとは思っていなかったのです。これが石の心です。自分の正しさにしがみつき、その正しさによって救われようとする、神の国に入ろうとするのです。それで神の国に入れると思っているのです。もし自分の正しさに、少し何かが足りないのならそれを教えてもらい、それを加えましょう。その程度で、自分は神の国に入れると思っている。主イエスは、このニコデモの持っている根本的な問題、自分の正しさで神の国に入れると考えている石の心を取り除こうとされたのです。
3.ニコデモと主イエスの対話@
ニコデモは主イエスを訪ねて、こう言います。2節「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」彼は、主イエスが行われた奇跡を見たのでしょう。それで、この方は預言者たちが告げていた救い主なのかもしれない、そう思ったのだと思います。主イエスのことを、神のもとから来られた方、神様が共におられる方だと、素直に思ったのでしょう。要するに、ここでニコデモが告げたことは「イエス様、あなたは神様のもとから来た素晴らしい方だ。」ということだったと思います。このニコデモの言葉に嘘はないと思います。
これに対して、主イエスは3節「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と告げられます。この主イエスの応答は、ニコデモの言葉とかみ合っているでしょうか。どうもピントがずれているとしか思えません。ニコデモは主イエスに対して「あなたは神様の元から来られた方だ。」と告げたのですから、それに対して応えるのでしたら、「その通りである。」とか、「あなたはどうしてそう思うのか。」とか告げるのが普通でしょう。しかし、主イエス「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言うのです。この「はっきり言っておく」というのは、主イエスがとても大切なことを告げられるときに使われる言葉で、直訳すれば「アーメン、アーメン、あなたに告げる。」となります。主イエスは、ニコデモの挨拶と言っても良いような語りかけに対して、どうしてこの様なことを言われたのでしょうか。
これを考える上で大切なのは、この直前に告げられている「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(2章25節)との御言葉です。主イエスは、この時ニコデモの心の中にあることを見抜いておられた。それ故にこう言われたのです。つまり主イエスはここでニコデモに対して、「あなたは、自分は正しい人間だと自負していて、根本的に変わらなければいけないとは少しも思っていませんね。自分に少し足りないところがあるならそれが何かを知りたい、そんな思いでわたしの所に来たのでしょう。しかしそんなことでは、あなたは決して救われることはありません。あなたが正しいと思っていることなど、神の国を見、神の国に入るのには何の役にも立たないのです。あなたは全く新しくならなければなりません。生まれ変わるほどに、全く新しくならなければならないのです。」そう言われたのでしょう。
4.ニコデモと主イエスの対話A
これに対してのニコデモの答えはこうでした。4節「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」この答えは、主イエスの言葉を全く理解していないように見える言い方ですが、私はそうではないと思います。もちろんニコデモは、主イエスの言われる「新たに生まれる」ということがどういうことなのか、はっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、彼はファリサイ派という熱心なユダヤ教徒であり、聖書をよく読んで知っている人だったのです。だから、主イエスの言われたことを、何を言っているのか全く分からなかったということではなかったと、私は思います。ニコデモには何となく分かったのだと思います。そして、自分が新しく生まれ変わるほどに根本的に変わらなければならないということに対して、拒否したのです。「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」というのは、主イエスに対しての皮肉と読むべきだと思うのです。つまりニコデモは主イエスに対して、「何を言っているのですか。そんなことは出来るはずがないではありませんか。どうして人が新しく生まれ変わるようなことが出来ますか。私にはそんなことは出来ませんし、そんなことは嫌です。」そう言っているのだと思います。「私は変われないし、変わりたくない。そんなこと出来るはずがない。」そう言ったのです。
それに対して、主イエスは5節「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われました。ここでも「はっきり言っておく」です。「人は変われない、変わらない。」と言うニコデモに対して、主イエスは「いや、人は変われるし、変わらなければ救われない。変わらなければ神の国に入ることなど決して出来ない。」とはっきり宣言されたのです。このニコデモと主イエスの、「変わらない。」「いや、変わる。」「変われない。」「いや、変われる。」この違いはどこから来るのか。それはニコデモが「変わる」ということを、自分の力、自分の努力によって変わると捉えているのに対して、主イエスは、神の力によって変わるということを告げている。この違いだと思います。
私共は自分で何かを変えようとしても、確かになかなか変えることは出来ません。長年の習慣というものは日々の生活の隅々にまであって、心の中にも心の習慣というものがある。人に注意されたぐらいでは何も変わらない。それが私共です。その意味で、ニコデモが言っていることは正しいのです。しかし、もしそれが私共のすべてだとするならば、私共は誰一人救われないことになります。これに対して主イエスは、そうではないと言われるのです。人は変われるし、変わらなければならない。何故なら、私共を変えてくださるのは神様だからです。
5.水と霊によって生まれる
主イエスが「新たに生まれる」と言われた時、この「新たに」という言葉には「上から」というもう一つの意味があるのです。「上から生まれる」つまり神様によって生まれるということです。主イエスはそれを更に説明して、「水と霊とによって生まれる」と言われた。これは、洗礼をイメージすることが出来る言葉です。聖霊なる神様によって信仰を与えられ、洗礼を受け、神の子、神の僕となって新しく生まれ変わることによって、人は救われ、神の国に入ることが出来るようにされるのでしょう。一生懸命努力して、良い人になって、神の国に入るのではないのです。そのような自分の力、努力では、神の国の門は開かないのです。6節「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」と主イエスは言われましたが、人間が努力して良い人になろうとしても、それは人間のやることで、どこまでも肉の業に過ぎないのです。肉の業で神の国に入ることは出来ません。神は霊であり、神の国は霊の国です。ですから、霊によって新しく生まれなければ、神の国の住人にはなれないのです。
洗礼は、全く圧倒的なものです。聖霊が働いてくださり、私共を根本から生まれ変わらせて、「我が国籍は天にあり」という人に造り変えてくださるのです。信仰を与えられ、洗礼を受けようという思いは、神様によってしか起こされません。私は、牧師をしていて、あの人にもこの人にも信仰が与えられるように、洗礼へ導かれるようにと願います。しかし、私が働きかけて、その人に洗礼への志が与えられることはありません。神様が働いてくださらなければ、事は起きないのです。そして、その洗礼によって、人は根本的に全く新しく変えられるのです。それは、すべてのキリスト者が味わったことでしょう。目に見える自分の損得しか考えなかった人間が、神様の御心を思い、神様の御用に仕えることを喜びとするようになった。もちろん、キリスト者になったからといって、次の日から神様の愛を体現するようになるということではないでしょう。相変わらず、言わないでもよいことを口にして、人を傷つけたりする。しかし、洗礼によって、私共の根本が変えられるのです。神の子とされ、神様に向かって「父よ」と祈ることが出来、神の僕として生きるようになるのです。罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命の希望に生きるようになるのです。死んだら終わり、だから生きている間はおもしろおかしく生きよう、という歩みとは全く決別するのです。
6.聖霊の御業
これは聖霊なる神様の御業です。主イエスはこのことを、聖霊を風にたとえて言われました。7〜8節「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」ここで「風」と訳されている言葉は、「霊」と訳してもよいのです。元のギリシャ語では全く同じだからです。
風そのものは見えません。しかし、風が吹けば木々が揺れますし、外を歩けば風が顔に当たって、風が吹いていることが分かります。聖霊も同じです。誰も聖霊を見ることは出来ません。しかし、聖霊が働けば、人が新しく生まれ変わり、神様を愛し、神様に従い、神様をほめたたえる人が生まれるのです。この聖霊なる神様の御業を見るとき、私共はここに聖霊なる神様が働いておられることを知るのです。それは何も、洗礼者が生まれるということだけを指しているのではないのです。私共が祈るとき、賛美をささげるとき、聖霊なる神様は確かに働いてくださっています。このことに気付くならば、実に私共は聖霊なる神様の御業に囲まれていることが分かるでしょう。
しかし、風も聖霊も自由です。人が風を起こすことが出来ないように、聖霊を人が思いのままに吹かせることは出来ません。ただ神様だけが、聖霊を注ぎ、信仰を与え、人を神の子として新しく生まれ変わらせることがお出来になるのです。
ニコデモは、9節「どうして、そんなことがありえましょうか。」と言います。彼は、人は自分の努力と熱心で良き業を積み上げることによって神の国に入ることが出来る、救われると信じていたのです。だから、自由な神様の御業によって人が新しく生まれ変わるということを、どうしても受け入れることが出来なかったのでしょう。このニコデモのような考え方は、私共の中にも深く根を張っているものです。自分の側には何一つ誇るべきものがないのにもかかわらず、神様の自由なあわれみによって、聖霊を注がれ、信仰を与えられ、神の子とされました。牧師であろうと、偉大な聖人と呼ばれる人であろうと、例外はない。それなのに、いつの間にか、自分の努力や熱心で救われるかのように考え違いを始める。その一つのしるしが、「あの人はダメだ。」などと人を裁くことです。まことに愚かな私共なのです。
私共が救われるのは、ただ神様の恵み、信仰によってのみです。神様の力を侮ってはなりません。天地を造られた神様は、どのような頑固な人間も自由に造り変えることがお出来になるのです。私のような者でさえも、神様はあわれんで新しく造り変えてくださったのです。だから、あの人が変わらないなどということは、誰にも言えませんし、言ってはなりません。神様は全能であり、自由な方なのですから。この自由な聖霊の風に吹かれて、この一週もまた、神様の子、神様の僕として、自由に、神様の御前に歩んでまいりましょう。
[2011年5月8日]
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