1.全てを知っておられる神様
詩編の詩人は、「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。」(詩編139編1節)と歌いました。私の心の中にあること、私がしていること、しようとしていること、そして私の過去も私の将来も、神様はすべてを知っておられる。これが聖書の信仰です。神様は私共自身よりも私共を知っておられる。私共を知り尽くしておられるのです。これは嬉しいことでしょうか。それとも困ったことでしょうか。私共は自分が大変な状況になりますと、神様にすべてを知っていただいてこの状況から助け出して欲しい、私を助けてくれるためには私の困窮のすべてを知って欲しいと思います。特に、人間関係においてややこしいことになったりしますと、私が悪いんじゃない、私は誤解されているのだ。神様は、私が受けている仕打ちは不当なものだと知っておられるはずだ。知っておいてくれなければ困る。そんな風に思います。「被害者は私」というわけです。しかし私共は、いつも神様の御心に適うことを思ったり、考えたり、行ったりしているわけではありません。いつも被害者というわけではない。ですから、そういう時は、神様は見ないでいてくれたら良いと思う。ちょっと顔を向こうに向けておいてください。そんな風に思います。神様がすべてを知っておられることが、こっちの都合で、嬉しかったり困ったりする。こっちの都合で、全てを知っていて欲しかったり、全ては知らないでいて欲しいと思う。それが私共の正直なところなのかもしれません。しかし神様は、私共の都合ですべてを知っていたり、知らなかったりされる方ではありません。神様は、いつでもどんな時でも私共一人一人のすべてを知っておられる。知り尽くしておられます。私共以上に、私共のことを知っておられるのです。
私共は、実は自分のことをそれほど良く知っているわけではありません。この時期、花粉症で困っておられる方も多いと思いますが、私も十年ほど前でしょうか、この時期に一ヶ月以上鼻水が止まらず、いつも頭が重い感じだったことがありました。ついに私も花粉症になったか、困ったことになったなと思っておりました。ところが次の年、今年も鼻水が止まらなくならなくなるかと思って覚悟しておりましたら、少しもならない。別に何ともないのです。お医者さんに話をしましたら、去年のは鼻風邪だったのでしょうということでした。自分の体のことなのに、自分では分からない。そんなものです。体のことばかりではありません。心だって、少しも自分の思い通りになってくれません。人に優しくしなければと思っても、カチンとくることを言われると、優しくなんかしていられない。つい言わなくてもよいことを言ってしまい、後で失敗したと落ち込んだりします。冷静になって考えれば、あんな風に言い返す必要など少しもなかったと思うのですが、後悔先に立たずで、つい言ってしまう。程度の差こそあれ、こんなことは誰でもしょっちゅう経験していることでしょう。私共は、自分自身の心も体も十分にはコントロール出来ないし、知り尽くしているわけでもありません。しかし、神様は私共を知り尽くしておられる。それは、私共を造られたのが神様だからです。私共は、自分で自分を造ったわけではありませんから、十分に知り尽くしていないのも当たり前なのです。しかし、神様は知っておられる。このことが私共の安心の大きな根拠なのです。私共を愛してくださっている神様が、私共のすべてを知っていてくださる。ですから、私共は神様にすべてを委ねることが出来るのです。お任せすることが出来るのです。
2.人々に自分をお任せにならない主イエス
さて、今朝与えられております御言葉は、神殿の境内から商人たちを追い出すという「宮清め」の出来事と、主イエスとニコデモとの対話という記事に挟まれた、とても短い段落です。しかし、ここに記されておりますことはとても重要なことです。
23節「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とあります。主イエスは過越祭の時にエルサレムに上ってこられ、「宮清め」の出来事を為されたのですが、それからすぐにエルサレムを発たれたのではなくて、少しの間エルサレムにとどまられました。そこでいくつかの「しるし」を為されたのです。この「しるし」が具体的に何を指しているのかは分かりませんけれど、人々を癒すというようなことを考えて良いのではないかと思います。他の三つの福音書ならば、この「しるし」が具体的にどういう業だったのかを記すところでしょうが、ヨハネによる福音書はそういうことは何も記しません。しかし、このいくつかの主イエスが為された「しるし」によって、多くの人が主イエスを信じるようになったとヨハネによる福音書は記します。
問題はその後です。24節「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」とあります。主イエスは自分を信じた人々を「信用しなかった」というのです。ドキッとする表現ではないでしょうか。せっかく主イエスを信じる人々が起こされたのに、主イエスはその人たちを信用しなかったというのです。このような言葉を読みますと、私共の中にも「自分たちはイエス様に信用されていないのではないか。」とか、「イエス様は私を愛してくださっているのではないのか。信用しないのに愛するということがあるのか。」など、いろいろな思いが湧き上がってきます。
この「信用されなかった」という言葉は、その直前の「多くの人がイエスの名を信じた」と記されているところの「信じた」と同じ言葉です。つまり、「多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信じなかった。」と直訳出来ます。そして又、この「信じる」という言葉は、元々「信頼する」「委ねる」「任せる」という意味があります。ですから、口語訳のように「イエス御自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」とも訳せるわけです。私は、この口語訳の翻訳が良いのではないかと思っています。「信用しない」とか「信じない」という訳では、主イエスの心の有り様を言っているかのように読めますが、ここではもっと主イエスの主イエスを信じた人々に対しての態度について告げていると思うからです。
3.「しるし」を「見て、信じる信仰」
どうして主イエスは、ここで御自身を信じた者を信じなかった、信用しなかった、彼らに御自身をお任せにならなかったのでしょうか。それは、彼らの主イエスを信じるということが「しるしを見て信じた」というものだったからではないかと思います。
このヨハネによる福音書には「見て、信じた」という表現が何度も出て来ます。例えば、少し前のカナの婚礼における奇跡のところでも、2章11節に「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。あるいは11章45節、ここはラザロの復活の場面の直後ですが、「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」とあります。主イエスの弟子たちも多くのユダヤ人たちも、主イエスの不思議なしるしを見て信じたのです。彼らはその後どうしたかと言えば、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ出したし、ユダヤ人たちは主イエスを十字架につけたのです。彼らは、しるしを見て信じたのですが、この信仰ははなはだ当てにならないものだったのです。この主イエスの為された不思議なしるしを見て信じる信仰は、信仰が全く無いよりは良いのですけれど、ヨハネによる福音書はこれを本当に大切なかけがえのないものとしては評価していないのです。
その決定的な評価が述べられているのが、主イエスの復活の場面です。主イエスはイースターの日に復活され、弟子たちにその復活の姿をお見せになりましたが、その時トマスはその場におりませんでした。そしてトマスは、復活の主イエスに出会い「主イエスが復活された」と証言した弟子たちの言葉を信じなかったのです。それから一週間後、次の日曜日に復活の主イエスは再び弟子たちのところに現れました。今度はトマスもその場におりました。主イエスはトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(20章27節)と言われたのです。トマスは、「わたしの主、わたしの神よ。」(28節)と答えますが、それに対して言われた主イエスの言葉が「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)なのです。見たから信じたのか。信じないより信じる方が良い。しかし、見ないで信じる方がもっと良い。そう主イエス御自身が言われた。つまり、「見て、信じる」という信仰のあり方は、ヨハネによる福音書においては、決定的に重大な「信仰の有り様」として評価されてはいないということなのです。このヨハネによる福音書において決定的に大切なのは「見ないで信じる」信仰なのです。
4.「見て、信じる信仰」と「見ないで信じる信仰」
では、「見て、信じる」信仰と「見ないで信じる」信仰とは、何が違うのでしょうか。それは、「見て、信じる」信仰というのは、自分のイメージ、自分の考え、自分の都合、自分の利益と合致したところで主イエスを受け入れる信仰と言って良いと思います。逆に言いますと、自分のイメージ、考え方、自分の都合、自分の利益に反するならば、すぐに主イエスを捨てる。そういう信仰のあり様です。これは何のことはない、主イエスを偶像として受け入れ、信じるという信仰のあり方なのです。偶像というのは、自分の願いを叶えるために造られた神様のことです。あくまで大切なのは自分であり、自分の都合であり、自分の利益なのです。「しるしを見て、信じる」信仰とは、この不思議な業を見て、これはただごとではない、この方なら自分を救ってくださるだろう、そう考え信じるわけです。この信仰のあり方においては、決定的に欠けるものがあるのです。それは、「悔い改め」です。この信仰は、主イエスをどこまでも自分に幸をもたらす方である限り信じましょう、という姿勢なのです。
もし、主イエスがこのような信仰のあり方の人を信頼し、御自分をお任せになったらどうなっていたでしょう。はっきりしているのは、主イエスは十字架にお架かりになることは出来なかったということです。彼らは、自分たちの夢、自分たちの理想を実現させるために、主イエスに働いてもらわなければ困るわけです。ユダヤの民を集め、不思議な力でローマ軍を打ち破り、ローマに代わってユダヤの民が全世界を支配する。そんな夢もあったと思います。主イエスはそれが分かっていた。だから信用されなかった。御自分をお任せにならなかったのです。
25節「イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」とありますように、主イエスは「あの人はこんな人だ」とか、「あの人たちはこんなことを考えている」というようなことを人に教えてもらう必要はありませんでした。何故なら、主イエスは一人一人の心の中にあるすべてを御存知だったからです。主イエスは、詩編139編の詩人が「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。」と歌った神の子、神そのものであられるからです。私共のすべてを知っておられる神様は、私共の都合の良いようにはならないのです。イエス様は、私共の心の中にある罪、神様さえも自分の利益のために利用しようとする心、神様の御前にへりくだることのない心、それを見通しておられたのです。その罪は私共の中にもあります。そして、主イエスはそのことも御存知であります。私共を知り尽くしておられるからです。
では、主イエスはそのような私共とどう関わってくださったのでしょうか。主イエスは、私共の都合の良いように扱われることを断固拒否されます。主イエスは私共の都合によってではなく、神様の意志、神様との愛の交わりの中で歩まれます。それが十字架への歩みだったのです。もし、主イエスが、「しるしを見て信じた人々」に御自分を任せたのならば、この十字架への歩みは決して成就されることはなかったでしょう。「しるしを見て信じた人々」は主イエスの十字架など、求めてはいなかったからです。しかし、主イエスは敢然と十字架への道を歩まれました。それが、この「彼らを信用されなかった」ということの意味なのです。
主イエスが求めておられるのは、「見ないで信じる」信仰です。この「見ないで信じる」信仰とは、「聞いて信じる」信仰と言っても良いかもしれません。主イエスの言葉を聞き、主イエスの御人格に触れ、主イエスを愛し、主イエスとの交わりの中で喜ぶ信仰です。イエス様を信じたら目に見える何か良いことがある、御利益がある、そういう理由で信じるのではないのです。そうではなくて、イエス様が自分のために十字架にお架かりくださったことを、喜びと感謝をもって受け取るのです。まだ見たことのない、天にある永遠の命の希望に生きるのです。目に見える御利益のために主イエスを信じるのではなく、目には見えない命の祝福の故に信じるのです。この「見ないで信じる」信仰は、必然的に悔い改めを私共に求めます。主イエスの十字架の御前に立たされるとき、正しいのは「私」ではなく、神様であることを私共は知らされるからです。
5.赦され、赦す者として
私共の信仰心や熱心さというものは、はなはだ当てになりません。どんなに熱心に見えても、いつの間にか礼拝の席に見えなくなる。今まで何人もの人がそうでした。その度に牧師は心を痛めます。人が教会に来なくなる理由、それはいろいろあるでしょう。牧師につまずく。教会につまずく。教会員の言動につまずく。人それぞれです。しかし、その根っこには、その人自身が「見たので信じる」という信仰のあり方を乗り越えられなかったということがあるのだろうと思います。もちろん、私は牧師として、「見ないで信じる」信仰へと導くことの出来なかった、羊飼いとしての責任を思います。自分の力の無さを心から悔います。もっと何か出来なかったか。もっと力強く明確に、神様を、イエス様を指し示すことが出来なかったか。神の愛を運んでいく道具となれなかったのか、心が痛みます。傷ついたその人の心にもっと寄り添うことが出来なかったかと、自らの愛の無さを悲しく思います。
私共は、牧師とはこうあるべき、キリスト者とはこうあるべき、教会とはこうあるべき、いろいろな「こうあるべきだ」というイメージを持っているものです。しかし、そのイメージ通りのものなど、この地上には存在しないのです。みんな欠けがある。誰よりも自分自身が理想的キリスト者からほど遠いのではないですか。しかし、自分のことは棚に上げて、人を批判する。そのような愚かなことをついしてしまう私共です。しかし、自分の姿を顧みるならば、私共は悔い改めるしかないのでしょう。そして、主イエスの赦しに与る者として、赦していくしかないのです。主イエスの十字架の前に立つならば、私共は赦せないと言って、そこに立ち続けることは出来ないのではないですか。自らの罪を悔い、そして自分に罪を犯した者を赦す者として立つしかない。
先週、週報にありますように、A・T姉妹が召天され、前夜式・葬式がここで為されました。たくさんの教会員の方が参列してくださいました。その葬式の聖書の箇所は、Aさん自身が選ばれていた、ヨハネによる福音書8章1節以下の「姦淫の女」の所でした。どうしてこの箇所を選んだのかと少し悩みましたけれど、Aさんの生前の姿を思い起こしていく内に、主イエスがこの姦淫の女に言われた言葉、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」を、Aさんは本当に自分に告げられた言葉として聞いていたのだということが分かりました。そして、この主イエスの赦しの言葉を受けたAさんは、自分も又赦す者として生きたいと心から願っていたのだと思う。まさに、Aさんは「見たので信じた」のではなくて、この主イエスの言葉を「聞いて信じた」のです。この主イエスの言葉を自分への言葉として聞いた者は、主イエスの御前に悔い改め、自分もまた人を裁かずに赦す者として生きようとするのでしょう。私共は愛するA・T姉妹を天に送るという悲しみを味わいましたけれど、改めて、Aさんがその生涯をもって私共に証ししてくださった、主イエスの赦しに与ることの幸いを心に刻み、「見ないで信じる」信仰に歩ませていただきたい。そう心より願うのであります。
[2011年4月10日]
へもどる。