富山鹿島町教会

礼拝説教

「世の罪を取り除く神の小羊」
出エジプト記 12章1〜14節
ヨハネによる福音書 1章29〜34節

小堀 康彦牧師

1.東北関東大震災の被災者のために祈る
 一昨日、東北・関東地方を襲った大地震の報道を、皆さんも心を痛めて聞いておられることと思います。私も、ずっとテレビの前から離れることが出来ずにおりました。宇都宮にいる教会員のT姉、千葉市にいるH姉からは、無事であるとの連絡が入りました。皆さんの中にもご家族、友人が関東・東北におられる方も多いと思います。まだ連絡が取れないという方もあるでしょう。
 東北地方の教会の状況も連絡が入っています。倒壊した教会はないようです。しかし、津波の被害の大きかったと報道されている町の教会については、まだ連絡が取れていない状況です。無事だが避難所や車の中で過ごしているという牧師や牧師の家族がおられるという事も聞いています。「とにかく寒い」との声も届いています。今、被災地の教会において、兄弟姉妹が時を同じくして礼拝を捧げています。  被害の全容はまだまだ把握出来ない状況です。亡くなった方が何人になるのかも分かりません。原子力発電所も危険な状況です。
 日本基督教団では、この地震への救援対策委員会が立ち上げられました。今日、現地に4人が派遣され、状況の確認がされます。募金活動が行われることと思います。  まず私共は、今、共に祈りをささげたいと思います。被災された方、御家族に、主のなぐさめを。助けを求めている人に救いを。復興への道を、生きる力を、勇気を。原子力発電所が最悪な事態となりませんように。

2.見よ、世の罪を取り除く神の小羊
 私共は今、共に東北・関東地方を襲った大地震を覚え、被災された方々のために祈りました。黒々とした津波が町を飲み込んでいく様子が、私の頭から離れません。何故こんな事が起こるのか。神様の愛は、神様の御支配はどこにあるのか。そのような問いが心に浮かんでは消える私共に、今朝、聖書は告げるのです。命じるのです。「見よ。」私共は、この聖書の言葉をしっかり聞かなければなりません。今、この言葉に従わなければなりません。「見よ。」何を?誰を?主イエス・キリストをです。主イエス・キリストを見よと聖書は告げるのです。そして、この方こそ世の罪を取り除く神の小羊であると告げるのです。
 自分は救い主・メシアではない、エリヤでもない、あの預言者でもないと明言した洗礼者ヨハネは、主イエスを見て言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」重大な一句です。世の罪を取り除く神の小羊。この洗礼者ヨハネが語る、主イエスに対しての宣言には、長い旧約の歴史が背景にあります。神様によって備えられ、立てられ、遣わされた小羊。しかも、世の罪を取り除くために遣わされた小羊。
 この「取り除く」という言葉は、「担う」という意味もあります。主イエスは世の罪を取り除くように、人間の罪の結果を担うのだということでしょう。そして、小羊のイメージは、旧約聖書からの幾つものイメージが重なってきています。まず最初に思い浮かぶのは、神殿で贖罪の供え物としてささげられる犠牲の小羊をイメージしているのでしょう。更に、この小羊というイメージには、イザヤ書53章にある屠り場に引かれていく小羊、人々の罪を担う苦難の僕のイメージが重なっていると思います。53章4〜8節「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」そして、先程お読み致しました出エジプト記12章にあります、出エジプトの際の過越の出来事の時に屠られた小羊です。過越の出来事の日、イスラエルの民は家族ごとに小羊を屠り、その血を取って家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ったのです。そして、この小羊の血が塗られた家は、神の災いが過ぎ越していったのです。この小羊の血のない家の初子は、王様の家の子であれ、家畜の子であれ、すべて神様に撃たれて死んだのです。神様の裁きが過ぎ越していく目印となった小羊の血。これはまさに主イエス・キリストの十字架の血と重なります。洗礼者ヨハネは、この旧約からのいくつものイメージを重ね合わせて、主イエス・キリストというお方が何者であるかを告げたのです。
 彼が告げた、この「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉は、当時誰も知らなかった、考えたこともなかった救い主・メシアの姿を示しておりました。当時の人々のメシア像は、力を持ち、罪人を滅ぼし、ユダヤ人をローマの支配から解放する力のメシアでした。政治的・軍事的力を持つ、ダビデ王の子孫としてのメシア、王としてのメシア、力のメシアだったのです。しかし、ヨハネが告げたメシア像は、苦難を担い、世のすべての人の罪を担い、身代わりの犠牲として殺されるメシアでした。これは誰の想像をも超えたメシアの姿でした。もちろんこれは、洗礼者ヨハネが考えついたのではありません。ヨハネは示されたのです。神様によって示されたのです。旧約の預言者たちが語るべきことを神様に示されたように、ヨハネもここで神様によって語るべきを示され、主イエスがどのようなメシアであるかを示されたのです。まだここでは主イエスの十字架は明らかにされてはいません。しかし、「世の罪を取り除く神の小羊」としての歩みは、やがて十字架にかかり、すべての人の罪を担い、取り除くことになります。洗礼者ヨハネは、この福音書の初めに、まさに預言者として、これからの主イエスの歩みをこの一句によって示したのです。

3.神様によって示される
 さて、洗礼者ヨハネは続けて30節「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」と告げました。彼は、自分はメシアではない、エリヤではない、あの預言者でもないと言いました。それは彼が、自分の後から、まことの神にして天地が造られた時から神と共におられた方、その方が来られることを知らされていたからでした。そして自らを、その方を指し示す「荒れ野で叫ぶ声である」と言ったのです。自分は、この自分の後から来られる方、まことの神にして天地が造られた時から神様と共におられた方、その方を指し示す声なのだと言ったのです。そして、主イエスを見た時、この方こそその方であると宣言したのです。
 しかし、洗礼者ヨハネは、31節、33節において、「わたしはこの方を知らなかった。」と繰り返し告げております。洗礼者ヨハネは、自分が指し示す方が実際にはどの人なのか、それを知らなかったというのです。そして、主イエスと出会って、この方だと分かったというのです。どうして分かったのかと言いますと、33節に「水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が(つまり、神様ですが)、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」とありますように、ある人に霊が降るのを見る、そうしたらその人がメシアだと、ヨハネは神様に告げられていたのです。そして今、ヨハネは主イエスの上に聖霊が降るのを見たのです。それで、この方こそメシア、私が指し示すべき方だと分かったということなのです。 この場面がいつかと言いますと、それは他の三つの福音書においては、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時の出来事であること記されております。洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼、水の洗礼をヨルダン川で授けておりました。そこに主イエスが来られて、ヨハネから洗礼を受けられたのです。そしてその時、聖霊が鳩のように主イエスの上に降るのをヨハネは見たのです。そして、この方こそ私が救い主として指し示す方。この方を指し示すために自分は命を受け、生かされ、預言者として立てられた。この方こそ、まことの神、まことの救い主であると示されたのです。この時の洗礼者ヨハネの喜びについて聖書は記していません。しかし、洗礼者ヨハネは喜び喜んだと私は思います。ちょうど、生まれたばかりの主イエスが神殿に連れられて来た時、主イエスを抱いて、シメオンがそしてアンナが喜んだように、洗礼者ヨハネも喜んだと思う。これで自分が生きている意味が明らかになったからです。
 さて、洗礼者ヨハネが主イエスをメシアであると分かったのは、このように聖霊なる神様による「示し」によってでした。これは、聖書にはよく記されていることです。例えば預言者サムエルがダビデを王として、油注ぐことになった時です。サムエル記上16章にありますように、サムエルは、ベツレヘムのエッサイの所に行くように告げられ、エッサイの子のうちの一人がサウル王に代わる王となることを神様に示されます。しかし、それが誰であるのか分かりません。サムエルは、エッサイの長男のエリアブを見て、この男こそ主が選ばれた者だと思いました。しかし、神様は彼ではないとサムエルに告げます。次々と7人のエッサイの息子とサムエルは会いますが、結局その誰でもなかった。そして、その時にはいなかった末の息子ダビデが呼ばれ、サムエルがダビデに会ったとき、彼こそその人であることが神様によってサムエルに示されました。サムエルはダビデに油を注ぎ、王として立てたのです。この時の有名な神様の言葉が、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」です。サムエルは神様によって、サウルに代わる王が立てられることを示されてはいましたが、誰であるかは分からなかった。そして、ダビデと出会った時に、彼であると示されました。洗礼者ヨハネも同じです。自分は救い主・メシアを指し示すことになる、その方は「世の罪を取り除く神の小羊」であるとは示されていた。しかし、それが具体的に誰であるのかは示されていなかったのです。そして、主イエスと出会った時、聖霊が降るのを見て、この方だと分かったということなのです。
 実に、主イエスこそ救い主であるということが分かるということは、この時のヨハネと同じように、私共にも神様の示しがないと分からないということなのだと思うのです。牧師から、クリスチャンから、イエス様がまことの神であるという説明をいくら受けても、それでイエス様が「我が主、我が神」と分かるわけではありません。本当にそれが分かる、本当に信じられるようになるためには聖霊の導きがなければならないのです。皆さんの中で、まだ、主イエスが我が主、我が神としてピンと来ないというがいるならば、どうか祈っていただきたい。「聖霊なる神様、私に働いてください。そして、主イエスが誰であるのか、私にはっきり分からせてください。」そう祈ってください。必ず神様は働いてくださり、分からせてくださいます。

4.主イエスの洗礼
 先ほど申しましたように、洗礼者ヨハネが聖霊なる神様によって、主イエスがメシアであると示されたのは、主イエスが自分から洗礼を授ける時でした。しかし、よく考えてみると、これは不思議なことです。何故なら、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼は、「罪の悔い改めの洗礼」であったからです。主イエスがまことの神であり、神の子であるならば、悔い改めるべき罪などあるはずがないのです。しかし、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。何故でしょうか。それは、主イエス御自身が私共罪人と全く同じ所に下って来られた方だからなのです。天の高みから低きに下り、僕と同じ姿をとり、馬小屋でお生まれになった主イエス。十字架の上で死なれ、罪人と同じ姿で死なれた主イエス。この罪人の一人となって洗礼を受けた主イエスの姿は、それと同じ、低きに下り給うたまことの神の姿が示されているのです。
 時々、洗礼を受けなくても信じていれば良いのではないか、聖書を読んで祈っていれば良いのではないか、そう言う人がいます。しかし、そのように言う人に、私はいつも「それはまことに傲慢なのではないでしょうか。」と話しています。それは、主イエス御自身が洗礼を受けて、あなたと同じ所に立つと言ってくださっているのに、私はそこに立つ必要はないと言っているのと同じだからです。主イエスは洗礼を受けることによって、私共と同じ所に立とうとしてくださった。そして、あなたもここに来て、私と同じ所に立ちなさいと招いてくださっている。私共はこの招きに応えるのです。この洗礼を受けることによって、私共は主イエスと同じ所に立ち、一つに結び合わされるのです。
 ただ、洗礼者ヨハネの洗礼と、私共が受けた洗礼とは、少し違う所があります。それは、洗礼者ヨハネの洗礼は、水で授ける洗礼でした。しかし、主イエスが私共に授けてくださる洗礼は、聖霊によって授ける洗礼です。こう言っても良いでしょう。洗礼者ヨハネの洗礼は水を用いた儀式としての洗礼であり、自分は罪を悔い改めたということの「しるし」でした。この洗礼によって、人は新しく生まれ変わるということは出来ないのです。しかし、私共が与った主イエスの御名による洗礼は、聖霊がそこに臨み、働き、私共を神の子・神の僕として新しく生まれ変わらせてくださるのです。私共を国籍を天に持つ者とさせる。私共の一切の罪を赦し、取り除いてくれる洗礼なのです。それは、「救いのしるし」としての洗礼です。御子イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって与えられる、全き救いに与る洗礼なのです。
 神様の愛はここに極まります。どこを見ても神様の愛が分からないというような時でも、私共が主イエスの御名によって洗礼を受けたことを思い起こすなら。神様は私のために愛する独り子を十字架におかけくださり、私を我が子よ、我が僕よと呼んでくださっている事実に目を向けられるなら。私共の中から神様の愛の火が消えることはありません。本当に神様は、この世界を、私を愛しているのだろうか。そのような問いが私共の中に浮かんでくる時、私共はこの「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」との御言葉を聞くのです。そして、見るのです。今がその時です。東北・関東大地震の報道を毎日目にしながら、私共は、被災された一人一人もこの方の愛からこぼれ落ちているはずない、そのことを心に刻むのです。私共を愛してくださっている神様は、被災された方々をも同じように愛されている。だから、私共はこの方たちのために祈り、出来る限りの支援をしていかねばならないのです。洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストに対して、34節「この方こそ神の子である」と証ししました。私共もこの証しを為すために立てられているのです。生かされているのです。その使命をしっかり受け止めて、この一週も歩んでまいりたいと思います。

[2011年3月13日]

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