1.ヨハネの洗礼
洗礼者ヨハネは、「あなたは、どなたですか。」と問われました。問うたのは「エルサレムのユダヤ人たちによって遣わされた、祭司やレビ人たち」です。これは当時のユダヤ教の当局から遣わされた人たちということです。洗礼者ヨハネは祭司ザカリアの子なのですから、彼らは洗礼者ヨハネが誰の子であるのかということはとっくに知っていたと思います。ですから、ここで「あなたは、どなたですか。」と改めて問うているのは、「あなたは何者なのか。」という意味であり、もっと言えば25節に言われているように、「あなたは、何の権威をもってこのような活動をしているのか。」という意味でありました。
洗礼者ヨハネは、当時ヨルダン川の近くで悔い改めを求める説教をし、悔い改めのしるしとしての洗礼を授けておりました。この活動が評判を呼び、ヨハネのもとにユダヤ全土から続々と人々が集まって来ていたのです。ユダヤ教の当局としては、このヨハネの活動がどういう性格のものなのか、つまりエルサレム神殿を中心とするユダヤ教に悪い影響を与えるものであるかどうか、その辺のことを確認する必要があったのです。
洗礼者ヨハネが行っていた洗礼という行為ですが、これは彼が初めて行ったというわけではありません。当時のユダヤ教において、既に行われていたことでした。ただ洗礼というものは、異邦人がユダヤ教に改宗する場合に行われるものであって、既にユダヤ教徒である者が受けることはありませんでした。何故なら、ユダヤ教徒は既にアブラハムの子であり、救われることとなっており、清い者であり、改めて洗う必要などないと考えられていたからです。異邦人がユダヤ教に改宗する時には、三つのことが求められました。@男なら割礼を受けること、A洗礼を受けること、B律法を守ることを受け入れること、この三つです。
ところが、洗礼者ヨハネはユダヤ人にも洗礼を施していたのです。それは、「ユダヤ人だから救われる。アブラハムの子孫だから救われる。そんなことはない。異邦人であろうとユダヤ人であろうと、まことに神様の御前に悔い改めなければ救われることはない。」これが洗礼者ヨハネの主張であったからです。彼は、ユダヤ人にも悔い改めを求め、洗礼を授けていたのです。ユダヤ人にまで悔い改めを求め洗礼を授ける洗礼者ヨハネの活動は、神殿を中心とするユダヤ教の当局者たちにとって、自分たちの教えや権威を否定する、とても危険な人物に見えたのではないでしょうか。しかも、ヨハネに対しての民衆の支持が厚いのですから、厄介でした。あるいは、民衆がそうであったように、彼らもまた、ローマに支配されている状況の中で、ユダヤを独立させる政治的指導者、新しい王、メシアの到来を期待していたのかもしれません。そして、洗礼者ヨハネがその人であるかもしれない、そう思っていたのかもしれません。もし救い主・メシアならば、洗礼を授けることも問題ではありません。神様の権威を身に帯びた方として来られた方だからです。もっとも、洗礼者ヨハネが自分はメシアであると告げた場合に、彼らがそれを認めたかどうかは分かりません。もしそうであった場合、彼らは洗礼者ヨハネに様々なメシヤとしての「しるし」・証拠を求めたでしょう。そして、結果的には認めなかったのではないかと思います。
2.荒れ野で叫ぶ声
洗礼者ヨハネは、この問いに対して明確に「わたしはメシアではない。」と答えました。これは大変強い否定の言葉でした。「わたしがメシアであるなどということは断じてない。あり得ない。とんでもないことだ。」とでも訳せる言い方でした。質問者は更に続けます。「だったらエリヤか。」エリヤというのは、列王記上17章以下に出て来る、数々の奇跡を行った旧約最大の力の預言者です。マラキ書の最後の所に、主の裁き日が来る前にエリヤが再び来る、という預言があります。メシアでないなら、メシアの前に来ると預言されているエリヤか、と問うたのです。これに対しても、洗礼者ヨハネは「違う。」と答えました。更に質問者は、「あの預言者か。」と問います。「あの預言者」というのはどの預言者なのかと思う方もおられると思いますが、これは申命記18章に記されている「モーセのような預言者」と考える人、あるいはエリシャであると考える人もいます。いずれにせよ、洗礼者ヨハネに対しての民衆の支持や期待が大変大きく、彼こそ旧約聖書においてやがて現れると預言されていたメシアや偉大な預言者の再来と考える人が少なくなかったということでしょう。しかし、洗礼者ヨハネはその問いをことごとく否定したのです。
彼はイザヤの言葉を引用して言います。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」私は声だ、と言うのです。声というのは、発したとたんに消えていってしまうものです。ヨハネは、自分という存在を、何と儚いものと見たことでしょう。声は、あることを伝えさえすれば目的を果たします。つまり、自分は跡形もなく消えていく存在だ。消えていって良いのだ。ただ、私は伝えなければならないことがある。指し示さなければならないお方がいると言ったのです。洗礼者ヨハネの本当の偉大さ、強さは、自分がこの「荒れ野で叫ぶ声」というまことに儚い存在であることを知り、それで良しとした所にあるのではないでしょうか。
洗礼者ヨハネが自らを声だと言った時、その声とはただの声ではないのです。自分の後から来られるまことの救い主、イエス・キリストを指し示す声であるということです。彼は、自分がどれほど儚い存在であるかを知っています。ただの人間にすぎないからです。しかし、自分の後から来られる方はそうではない。その方は、私がその履物のひもを解く資格もないほど大いなる方だ。まことの神であり、まことの救い主だ。そう言うのです。履き物のひもを解くのは、奴隷の仕事です。ヨハネは、後から来られる救い主、キリストに比べるならば、奴隷以下だと言うのです。この方を指し示すために私は来た。そのことを彼は知っていたのです。
3.自分が何者であるかを知る
預言者イザヤは言いました。40章7〜8節「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」この「とこしえに立つ神の言葉」である「まことの救い主」を指し示すのが、私の人生の意味であり目的なのだ。自分は人間に過ぎず、それ故やがて草や花のように枯れ、しぼんでいく。しかし、私が指し示す方は、とこしえに立ち続ける方。この方を指し示すために、私は生まれて来た。洗礼者ヨハネは、最も深い所で、自分が何者であるかを知っていたのです。だから、彼は自分が人々から称賛され、あがめられることを少しも求めないのです。自分が何者であるかを知らない人は、周りの人に、世間に評価され、賞賛されることを求めます。何故なら、自分が何者であるか分からないために、自分が周りの人からどのように評価されているか、それだけが自分の評価になってしまうからです。しかし、自分が何者であるかを本当に知っている者は、世間の評価によって自分が変わるものでないことを知っています。ですから、その様なことに惑わされたりすることがないのです。自分が生きる本当の意味を知らなければ、人は自分がどのように見られ、評価されるのかということにばかり心を向けざるを得ないのです。しかし、ヨハネはそうではなかったのです。
自分が何者であるかを知る。それは、自分が何のために生まれてきたのかを知るということでしょう。自分が今生きているのはこのことのためである、ということを明確に言いき切れるということであります。ヨハネはそれが言えたのです。だから人から賞賛される必要はなかったのです。
私共はどうでしょうか。あなたは何者かと問われて、私共は何と答えるのでしょうか。職業を答える。これが一般的な答え方かもしれません。会社勤めをしている人ならば、何々会社の社員ですと言うかもしれません。しかしこの答えは、停年になって会社を辞めてしまったなら何者になるのかとの問いが残ります。あるいは、私は三人の子の母ですと言うかもしれません。これは、会社の社員のように、やめるということはありません。生涯母は母であり続けます。しかし、空の巣症候群という言葉があります。子育てに勤しんでいた母が、子どもを育て上げると、まるでひな鳥で賑わっていた巣がみんな巣立って空っぽになってしまった後に残された親鳥のように、子を育て上げた後で何のために自分が生きているのか分からなくなる、そういうことが起きるのです。私は日本人です、という答えもあるでしょう。この答えは、かなり永続性がありそうです。しかし、日本人であるというだけで、自分が生きる意味や目的を見出せるということはほとんど無いのではないでしょうか。日本人であるということだけで生きる意味が見いだせるなどというのは、おそらく戦争の時ぐらいでしょう。
あなたは何者か。この問いへの答えはそれほど簡単ではありません。しかし私共には、洗礼者ヨハネと同じように明解な答えが与えられています。その答えは、「私はキリスト者です」「私はクリスチャンです」、というものです。この答えは、私共が何をしていても、どのような人生の局面を生きている時でも、私共に人生の意味と目的を教えます。私共が為すべき事を教えてくれます。私共は、神様に造られ、神様に救われ、神様に生かされている者として生きる。主イエス・キリストをあがめ、主の栄光のために働き、主の御業にお仕えするのです。これが私共の人生です。これは私共の人生の一部ではありません。全てです。
4.神の栄光のために
30年以上前になりますが、私は学生の時、「神の栄光のために」という素晴らしい言葉を教えていただきました。これは、ウェストミンスター信仰問答の問一にある言葉です。問一「人の主な目的は何ですか。」答「人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」とあります。私の人生の目的は神の栄光を現し、神様を喜ぶことであることを学びました。私は神の栄光のために生かされている。そのことを知りました。それ以来、私は何のためにこのことをするのかと悩まなくなりました。もちろん、人生でありますから、悩みのない人生などありません。しかし、何故これをするのか、そのことについては悩まなくなったのです。何故勉強するのか、神の栄光のために。何故大学に行くのか、神の栄光のために。何故働くのか、神の栄光のために。何故結婚するのか、神の栄光のために。何故毎週礼拝に行くのか、神の栄光のために。何故お祈りするのか、神の栄光のためにです。明確な答えが与えられました。「全ては神の栄光のために」です。キリスト者になったということは、このスッキリした一句によって生きることが出来るためになったということなのではないかと思うのです。私共は洗礼者ヨハネと同じように、自らの栄光を求めなくても良い人間にされたのです。自分が何者であるかを知ったからです。
自分が何者であるかを知るということは、自分の心の中をいくら探っても分からないことなのです。私共の中には、自分の人生の意味を決定付けるものは何もないのです。これは、上から与えられなければなりません。私共を造ってくださった方、私共にこの世の人生を与えてくださった方、この方だけがそれを知っており、私共に教えてくれることが出来るのです。
5.勝利の王を迎える道
さて、洗礼者ヨハネが自らをたとえ、預言者イザヤが告げた「荒れ野で叫ぶ声」とは、どのような声だったのでしょうか。ヨハネが引用したイザヤ書40章ですが、これはユダの民がバビロン捕囚から解放されることを預言したものであり、さらにその出来事と救い主の到来とを重ね合わせて預言しているものです。2節を見ますと「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」不信仰の故にバビロン捕囚という裁きを受けたユダの民でした。しかし、その苦役の時は終わり、罪は償われ、解放される時が来た。そしてその時、呼びかける声がするのです。3節「主のために、荒れ野に道を備えよ。」この荒れ野に作られる道とはどんな道なのかというと、それは勝利の王が通られる凱旋道路なのです。それは道幅数十メートルにも及ぶ道路です。何十万という大軍が、勝利の王を先頭に凱旋するための道なのです。だから、「荒れ地に広い道を通せ。」と言うように、「広い道」なのです。そして、4節「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」とあるように、山は崩され、谷は埋められ、まっすぐな広い道が作られるのです。そして、その道の両側には、王の軍勢の何倍もの民衆が歓喜の声を上げ、勝利の王を喜び迎えるのです。この勝利の王を迎えるための道を備えよと叫ぶ声、それが私だ、と洗礼者ヨハネは告げたのです。
自分の後から来るまことの神であられるキリスト、まことの神の言である主イエス・キリスト、この方はすべての悪を、すべてのサタンの試みを打ち破り、死さえも葬り去って来られる勝利の王なのだ。洗礼者ヨハネはそう告げたのです。
6.O兄弟の死を思い
先週の日曜日の朝、私共の愛するO兄弟が、主の御許に召されました。88歳でした。その前の主の日の礼拝には、ご夫婦揃って来ておられました。そして、亡くなられる前日まで普通に過ごされており、夜トイレに起きられたのも分かったと聞いております。ところが日曜日の朝、起きてこられないので起こしに行くと、既に亡くなっておられたということでした。あまりに突然のことでした。水曜日・木曜日に、前夜式・葬式を行いました。O兄弟は75歳の時、当教会で奥様と一緒に洗礼を受けられました。高齢になられてからの受洗でありましたが、実にあざやかにキリスト者として生まれ変わられた方でした。洗礼を受けてからは、キリスト者として生きることにすべてを賭けて歩まれた方でした。神の栄光のために、人生の最後の時を生き切った方でした。会社勤めをされ、石油化学の技術者として最先端の研究開発に携わり、日本の戦後の復興を支えた方でした。しかし、そのことを少しも誇ることもなく、まことに謙遜な方でした。O兄弟は、自分が何者であるかを知っていたからでしょう。誇る必要がなかったのです。O兄弟は、キリストの証人として、父なる神様の御許に召されて行かれたのです。
私共は今から聖餐に与ります。この聖餐は、私共が何者であるかを明確に示します。キリストの命に与り、永遠の命の希望に生きる私共です。人が自分をどう評価しようと一切関係なく、神様は私共を愛し、我が子よと呼んでくださっているのです。ありがたいことです。この恵みの中、私共もO兄弟のように、キリスト者として生き切りたいと思う。この一週、そのような一日一日を主の御前にささげていきたいと、心から願うのであります。
[2011年3月6日]
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