富山鹿島町教会

礼拝説教

「世の光、キリスト」
詩編 119編105〜112節
ヨハネによる福音書 1章6〜13節

小堀 康彦牧師

1.神の言(ことば)、キリスト
 ヨハネによる福音書をご一緒に読み始めております。この福音書はその冒頭において、大変印象的な言葉を用いてキリストを語ります。キリストを、世界のすべてを造られた言(ことば)、神である言であると告げるのです。そして、その言に命があり、光であると告げるのです。この言にしても、命にしても、光にしても、みな根源的なものです。言にも命にも光にもいろいろあります。しかし、ここでキリストが言であると告げられる時、その言とは、天と地にあるすべてを造り、神と共にあり、神であられる言なのですから、この言とは最も根源的な言、すべての言葉やすべての秩序はここから生まれてくる、そういう言なのです。命もそうです。命あるすべてのものが、この方の命によって生きるものとされる、そういう命です。光もそうです。すべてのものを照らし出し、この世界が何であるかを明らかにし、私共自身が何者であるかを明らかにし、この世界が、私共がどこに向かって歩むべきかを明らかにする光です。この光がなければ、この世界全体が行き先を知らず、秩序もなく、混沌であるしかない、そういう光です。この世界を導き、私共一人一人を生かすまことの光。根源的、究極の光。それは真理であり、愛であり、希望である光です。この世界も私共も、希望がなく、愛がなく、真理も秩序もなければ、決して存在することも、生きることも出来ません。私共が存在しているということは、そのことを私共が意識していようと意識してなかろうと、このまことの言であり、命であり、光であるキリストのお陰なのです。そのキリストが肉体をとって一人の人間として生まれた。それが主イエス・キリストというお方なのです。
 世間では、イエス・キリストを、二千年前にパレスチナに生まれたキリスト教の教祖だと理解しているでしょう。中学校の社会の教科書には、そんな風に記されていると思います。しかし、それは聖書が告げているイエス・キリストというお方の姿ではありません。この世界の根源的な言であり、命であり、光であるお方。すべてを造られたまことの神と共におられ、神であられるお方。その方が肉体をとって来られたのが主イエス・キリストなのだ、と聖書は告げているのです。

2.神の子となる資格
 そして、このことを信じ受け入れた者は神の子とされるのだ、と聖書は告げているのです。12節です。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」神の子となる資格、それは神の子という身分と言い換えても良い。イエス・キリストを、まことの神、まことの救い主として信じ受け入れる者を、神様は神の子として受け入れ、神の子として見なし、神の子としての身分を与えるというのです。これは、神様の養子とされるということです。神様の実の子、永遠から永遠まで父なる神様と共におられる神の独り子は、主イエス・キリストしかおられません。私共は、どこを見ても神様の子ではあり得ません。にも関わらず、神様の子として受け入れてくださるというのです。そしてそのためには、主イエス・キリストを信じ受け入れるということ以外、何も求められてはいない。何という恵みでしょう。これが福音です。
 神の子となる資格を与えられるということは、神の子として新しく生まれる、生まれ変わるということです。この神の子として新しく生まれ変わるということ、これが救われるということなのです。人は、生まれつき神の子なのではないのです。神の子となるのです。神の子として新しく生まれ変わるのです。このプロセスを抜きにして、神の子となることは出来ません。ここで聖書は、13節「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」と語ります。これは神の子は、男と女から生まれるという、男女の性行為による自然な誕生とは全く別なあり方で、ただ神様によって生まれ変わらされるということを告げているのです。私共が誰の子であるのか、そんなことは関係ありません。どんな育ちかたをし、どんな地位にあり、どんな人柄であるのか、そんなことも一切関係ないのです。神の子として新しく生まれ変わるためには、ただ主イエス・キリストを信じることだけが必要なのであり、そのことによる以外の道はないと告げているのです。もちろん、どの国の人間であるか、どの民族の者であるか、それも関係ありません。人間が持つもの、それによって自分を誇ろうとするすべてのものが、何の役にも立たないのです。牧師の子である。クリスチャン・ホームに生まれた。キリスト教の学校に通った。それらは、実に感謝すべきことであるには違いありません。しかし、だから救われる、だから神の子とされるということではないのです。求められるのは、主イエス・キリストに対する信仰です。慈善事業をしてきた。善き業に励んできた。それもまた、だから救われるということにはならないのです。それらは素敵なことです。しかし、神の子とされる道はただ一つ。主イエス・キリストを信じ、受け入れるという以外にないのです。
 またこの記述は、私共に洗礼式の情景を思い起こさせます。ただ聖霊なる神様の働きによって、神様の子として新しく生まれ変わる、あの洗礼式です。もちろん、ここで示されているのは、洗礼のことだけではありません。しかし、洗礼によって起きる神様の救いの出来事と同じことが、ここで告げられているのです。キリスト者は、ただ信仰によって、ただ聖霊の働きによって誕生するのです。
 先週、私は韓国のセムナン教会に行って、日本語礼拝で説教の御用をしてきました。4名の長老と一緒に行きました。この旅行については、改めて報告する機会があるかと思いますが、実に多くのことを学ばせられ、考えさせられた旅でした。この教会は大変大きな教会で、1200人の礼拝が5回、毎週捧げられているのです。その教会で日本語による礼拝が行われており、60名ほどの礼拝でした。そこで私が説教したのですが、日本人はその時私と一緒に行った長老たちの他には数人でした。他は皆、韓国の人たちです。少し変な言い方ですが、私は大変気持ちよく説教させていただきました。誰も寝ていないのです。外国語で説教を聞くのということは、難しいことでしょう。でも、本当に良く聞いてくださった。そして、一緒に神様を誉め讃えました。改めて、神の子とされ救われることに、国籍や民族など全く関係ないということを教えられたのです。

3.キリストを証しする
 では、人はどのようにして主イエス・キリストを受け入れ、信じることが出来るのでしょうか。それは、知らされるより他にありません。ローマの信徒への手紙10章14節に「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」とあります。また、10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。まさに、主イエス・キリストを信じるということは、主イエス・キリストを宣べ伝える人がいて、その人の言葉を聞いて、そして信仰が起こされるのです。私共も皆そうだったはずです。牧師であれ、信徒であれ、既に先に主イエス・キリストを知って信じている人の言葉を聞き、それにより信仰を起こされ、信仰告白をし、洗礼を受けたのでしょう。
 この主イエス・キリストを紹介すること、それが証しというものなのです。6〜7節「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」とあります。ここにヨハネという名前が出て来ますが、これはヨハネによる福音書を記したヨハネではありません。主イエスの前に生まれ、主イエスに洗礼を授けた預言者、バプテスマのヨハネのことです。この当時、バプテスマのヨハネは、悔い改めを求める説教をし、ヨルダン川で洗礼を授け、多くの人々から支持され、大変な影響力を持っていた人でした。このバプテスマのヨハネこそが旧約の預言者によって預言されてきた救い主、メシアではないか、そんな風に思っていた人も少なくなかったのです。しかし聖書は、バプテスマのヨハネは主イエス・キリストについて証しするために来たのだと告げているのです。光について、つまり主イエス・キリストについて証しをするというのは、主イエスが誰であるか、どんな方であるのか、そのことを告げるということです。そして、この証しの目的は、その証しを聞く人が主イエスを信じるようになるということなのです。
 私共の教会でも、アドベント祈祷会や受難週祈祷会で信徒の方に証しをしていただきます。その担当になった人から、何を話せば良いのかと尋ねられることがよくあります。しばしば勘違いされるのは、「証し」を信仰の体験談だと思ってしまうことです。証しは、もちろんその人が体験したことを通して語られるのですけれど、その体験の中で何が示されたのか、そのことが大事なのです。主イエス・キリストが生きて働き、自分を救ってくださった、そのことが告げられなければならないのです。主イエスが誰であるのか、そのことが明らかにされなければなりません。何か不思議な体験をしたということが重要なのではないのです。私はこんな不思議な体験をした、どうだ凄いだろう、ということではないのです。主イエスが誰であり、どのような方であるかが明らかになること、そのために証しは為されるのです。
 8節「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」とあります。バプテスマのヨハネは光ではないのです。光は主イエス・キリストです。神様に選ばれ、遣わされた人ですから、バプテスマのヨハネもまた偉大な預言者であるに違いありません。しかし、預言者は主イエスを指し示す人なのであって、主イエス抜きに偉大な人ということではないのです。言うなれば、この道をあと2km行けば滝がありますということを書いた案内板、それが預言者です。そして、目当ての滝が主イエス・キリストということなのです。案内板はありがたいものですけれど、案内板は目的地ではありません。どんなに案内板が立派で綺麗だとしても、案内板を見たらもう滝は見なくても満足だというような人はいないでしょう。案内板の使命は、立派で綺麗であることではありません。正確に目的地を示すことです。預言者の使命は、正確に主イエス・キリストを指し示すということなのです。
 このバプテスマのヨハネの役割を現代において担っているのが、キリストの教会であり、私共キリスト者なのです。この教会に来ればキリストが分かる、このキリスト者に出会えば主イエスが分かる、そういう者として私共は立てられているのです。

4.全ての人を照らす光
 9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあります。主イエス・キリストの光は、すべての人を照らします。すべての人に自分の本来の姿を思い起こさせ、また自分の罪も教えます。そして、具体的に自分の歩むべき道を示し、行くべき目当てを照らします。すべての人に希望を与え、生きる力と勇気を与えます。主イエスの光はまことの光であり、光の中の光、すべての光の源でありますから、主イエスによって照らし出されない人はおらず、主イエスの光によって退かない闇も存在しません。光が来れば闇は退くしかないのです。
 ところが、です。10〜11節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」のです。世は、主イエスをまことの神、救い主として認めず、これを受け入れなかったのです。だから、主イエスは十字架にお架かりにならなければならなかったのです。十字架の上で殺されなければならなかったのです。どうして、世は主イエスを受け入れなかったのでしょうか。世はキリストによって造られ、キリストは世におられたのです。しかし、世はキリストを受け入れなかった。世の人々は、主イエス・キリストとの愛の交わりに入ることをせず、拒否したのです。何故でしょうか。
 私はこのことを思う時、いつもゴキブリを思い出すのです。ゴキブリは明るい所が嫌いです。いつも暗いところにいます。ちょっと明るい所に出て来ても、すぐに暗い所に戻っていきます。明るいところが嫌いだからです。もしこの世界が、人間が、キリストによって造られたままの状態であったのなら、世はキリストを拒否することなく、まことの光の下に皆が集まってきたことでしょう。しかし、人はキリストによって造られた姿、神様の似姿を持つ者としての本来の姿を失っていたのです。光と共に、光の中を歩むように造られた本来の姿を見失い、暗闇の中に生きることを好む、そういう習性を身につけてしまっていたのです。これが罪です。罪は光より闇を好むのです。光に向かうのではなく、光に背を向け、自分の体が作った暗い影の方ばかり向こうとするのです。光に向かって我が身を曝すならば、自分の醜い姿を見なければならないからです。まことの言であるキリストを受け入れるならば、自分がずっと座り続けてきた人生の主人という座を、キリストに明け渡さなければならないからです。それはつらいことです。私共は自分の罪の姿など見たくないし、自分の人生は、自分の欲を満たし、やりたいようにやって生きていきたいのです。だから、世は、人々は、主イエスを受け入れず、拒否し、十字架に架けたのです。
 私共も皆そうでした。キリストによって命を受け、生かされていたのに、自分の力で生きているとしか考えていませんでした。キリストを知らず、それ故キリストの光に照らされることを知らず、自分が何者であるかも知らず、おのが腹を神として生きていたのです。しかし、今は違います。主イエスと出会い、主イエスを我が主、我が神として受け入れ、神の子とされました。光の中を、光に向かって歩む者となりました。とこしえの命の希望を持って、神の国に向かって歩む者となったのです。まことにありがたいことです。この恵みの中に生かされている幸いを、私共は何とかして証ししていきたいと思うのです。ヨハネが証し人として立ったように、私共も我が身をもってキリストを証しする者として立たせていただきたいのです。全能の父なる神様が、その御力をもって私共を恵みの証し人として立たせてくださいますよう、共に祈りをささげましょう。

[2011年2月20日]

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