1.神様の熱き愛に触れて
御一緒に読み進んでまいりましたガラテヤの信徒への手紙が、今日で終わります。この手紙は、パウロが主イエスの福音の中心である「信仰によってのみ救われる」ということを守るため、そこから離れて、「律法を守り、割礼を守らなければ救われない」という教えに走ってしまっているガラテヤの教会の人々を、何とかして福音に連れ戻そうとして書かれたものです。パウロは、ガラテヤの教会の人々を時に叱りつけ、時に理詰めで、時に情に訴えて、切々と訴えます。この手紙はどこを開いても、パウロのガラテヤの教会の人々への熱い思いと、主イエス・キリストへの熱い思いが、ほとばしっています。私共は、約半年にわたって、このパウロの熱き言葉を主の日の礼拝の中で受け続けてきました。そして、私共もまた、主イエスを愛し、教会を愛し、隣人を愛することにおいて、パウロと同じように熱い者とされたいと願ってきました。
今朝、私共はこの手紙の最後の御言葉を受けるわけですが、ここにもまた、パウロの実に熱く激しい言葉が綴られております。このパウロの熱というものは一体どこから来るのか。それは単にパウロの性格ということなのか。確かにパウロの性格という面もあるでしょうが、しかしそれだけではないでしょう。パウロが触れてしまった神様の愛が熱いのです。愛する御子を十字架にお架けになってまで私共を救い、私共を神の子・神の僕とされようとする熱です。神様は、このパウロの手紙の言葉を通して私共に語りかけ続けてくださいました。私共はこのパウロの手紙を通して、パウロをここまで熱く激しくさせる神様の愛、神様御自身と出会ってきたのです。
神様の愛は、私共にただ一つに徹底することを求めます。あれもこれもではなくて、「これだけ」です。神様は、「あの神様も良いし、この神様もいいな」などということをお許しになりません。聖書の神様、天地を造り、主イエス・キリストを与えてくださった神様は、ただ御自身だけを神として敬い、愛し、祈り、拝むことを求められます。神様だけ。地上の他のどんな被造物をも、自分と同じように愛し、頼ることを許しません。ただ神様のみ、イエス様のみです。神様は一途であることを求めるのです。何故なら、神様と私共の関係は愛だからです。それは、一夫一婦の夫婦の関係にも譬えることが出来ます。浮気はダメです。神様のこの一途な愛。これがパウロを熱くさせるのであります。
クリスマスは教会、大晦日はお寺で除夜の鐘、元旦は神社で初詣。この日本において当たり前と受けとめられていることも、神様の目から見ればとんでもない浮気なのであり、とんでもないことなのです。私共は、ただ神様、イエス様だけを愛し、頼り、祈るのです。私共に求められていることが、この一途さであることを知っているからです。これは神様への、イエス様への、教会への純情と言い換えても良いと思います。パウロは、この手紙を閉じるにあたっても、実に熱い一途な神様との関係を独特な言葉で言い表しています。それを見てみましょう。
2.主イエス・キリストの十字架を誇る
14節です。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」とあります。何と熱く激しい一途な思いが表れている言葉でしょう。パウロは、自分は主イエス・キリストの十字架を誇る、それ以外に誇るべきものがあってはならないのだとまで言い切るのです。
人間にとって「誇り」というものは大切です。何の誇りもない人間は、いつでも一貫した生き方、行動基準というものを持たず、その時その場の雰囲気や気分や自分の損得だけで物事を決めていくということになりがちです。その人が何を誇りとするかということによって、その人が大切にしていることやその人の生き方が決まってしまうと言っても良いでしょう。その時の気分や目の前の損得以上に大切に守らなければならないものがあることを教え、その人にブレ無い生き方を与えるのが誇りというものです。そして、その誇りというものは、その人が何よりも頼りとしているものでもあるのでしょう。
誇るものは人によって違います。血筋、家柄を誇る人もいるでしょう。学歴や職業や収入、或いは自分の才能や能力を誇る人もいるでしょう。その人が何を誇りしているかということは、しばしば表には出て来ないで、その人の心の中を支配することもあります。そして、この目に見えるものと誇る心は、往々にして、その反対のひがみ・ねたみといった思いと同居するものです。自分が誇っている点において、目に見えて自分よりも優れたものを持っている人の前に出ると、ひがんだり、ねたんだりしてしまう。そういうことが起きるものです。
パウロはここで、律法を守らなければ救われないと言う人々は、自分を誇り、人から良く思われたいと思っているだけだとはっきり言います。しかし、主イエス・キリストの救いに与った者は、神様の御前に出た時、自分の中には誇れるものは何一つ無いことを知らされました。そして、それにも関わらず自分は主イエスによって、十字架の血潮によって救われたということを知らされました。だから、ただ主イエスの十字架だけを頼り、ただ主イエスの十字架だけを誇りとするのです。これ以外のものを誇ろうとする時、私共は「ただ主イエスを愛し、ただ主イエスを頼り、ただ主イエスを誇る」という一途さを失うのです。それは主イエスの十字架を無駄にすることです。そしてこの一途さを失えば、私共の信仰は熱を失い、力を失い、喜びを失うのです。何故なら、それは愛の裏切りだからです。神様・イエス様の私共への愛は、主イエスの十字架に現れた熱く一途なものです。ですからそれに応え、その愛で結ばれるということは、どうしたって一途であるしかないのです。人に良く思われたい。自分も大した者だと思いたい。そのために目に見えるものを誇る。それは神様から見れば、浮気心ということになるのです。神様以外のものを頼り、誇るからです。
私共の中には、人の評判を気にしたり、周りの人にどう思われるかということを気にするという心の習慣があります。この社会に生きている以上、周りの目が全く気にならないとすれば、それもまたおかしなものでしょう。しかし、何が決定的に大切で、何を頼り、何を誇りにして生きるか。このことについては、私共は主イエスと出会い、主イエスに救われて揺るぎない者となったのです。私共に主イエス・キリスト以外に頼るべき方はいないし、誇りとすべきものは何もないという者になった。これははっきりしていることです。ここがブレてしまえば、私共の信仰の歩みは、全く力も喜びもないものになってしまうでしょう。何故なら、信仰そのものがお飾りになってしまうからです。信仰が私共の人生のすべてを支え、導き、生かすものではなくて、趣味やたしなみや生き方の一つということになってしまうからです。まことに不徹底であります。これではとても一途な神様の愛に応えることは出来ません。
私共の信仰の歩みにおいては、人の評判を気にしたり周りの目を気にするということとは、どこかで戦わなければならないことがどうしたって起きてくるのです。キリスト教の伝統のない日本という国でキリスト者であるということは、どうしたってそういうところが出て来るのです。初詣にしても、五月の節句にしても、葬式の仕方にしても、そういうことが起きる。こんなにたくさん雪の降った日曜日に、朝早くからあの家は何処に行くのかという目にさらされている私共なのです。私共はそれぞれ置かれている状況が違うのですから、こういう場合はこうしなければいけないなどということは、簡単には言えないでしょう。夫婦でキリスト者か、家族みんながキリスト者か、家族の中で自分一人がキリスト者であるか、それによっても随分違う。しかし、私共はそれぞれ置かれている状況の中で、自分はキリスト者として神様を第一としているか、主イエスの十字架を誇りとしてこれを裏切っていないか、このことには神様の御前においてきちんと答えられる歩みをしていかなければならないと思うのです。
3.イエスの焼き印を身に受けた者
パウロは17節で、そのような自分を「イエスの焼き印を身に受けている」者だと申します。この焼き印というのは、羊や牛などが誰のものであるかを示すために、焼きごてでその主人のマークを付けるものです。この焼き印というのは、要するに火傷の跡ですから、消しようがありません。つまりパウロは、キリスト者というのは主人であるイエス様の焼き印を押された者であり、いつでもどこでも自分の主人はイエス様であり、そのことが周りに明らかにされている者なのだ。これは隠しようがないことであり、取り消すことなど出来ないものなのだと言っているのです。
この焼き印というのの反対を考えると良く判ると思います。例えば、車の初心者マークです。これは、必要なときに付けたり外したりすることが出来るわけです。必要な時にだけ付ける。教会にいる時はキリスト者で、教会から一歩出ればキリスト者マークは外して仕舞っておく。或いは、家にいるときはキリスト者として振るまい、家を一歩出れば、地域でも職場でもキリスト者であることを隠しておく。周りの人は自分がキリスト者であることを知らない。パウロは、そんなことは出来ないと言っているのです。いつでも、どこでも、どんな時でも、私はキリストのものとされているし、それ故キリストを、しかも十字架に架けられたキリストを誇りとして生きる。焼き印を押されてしまっているのですから、これはもう仕方がないのです。
自分がどうすれば良いのか、その具体的な選択をしなければいけない時、私共は主イエスの十字架の前で事を決めるのであります。主イエスの十字架を裏切っていないかどうか、十字架にお架かりになった主イエスに従う者としての歩みであるかどうか、そこで決めるのです。周りの目を気にしてでもないし、損得によって決めるのでもないのです。
私が心から尊敬する前任地の教会の長老であった永田さんという方は、「自分は、道をどちらかに決めなきゃならない時には、しんどいな、大変だなと思う方を選んで来た。どちらが御心に適うのか、よく分からない時も多い。そういう時には大変だと思う方を選んでおく。何かその方が、イエス様に従う者としては正しいような気がして。」そんな話をしてくださったことがありました。楽な方より大変な方が御心に適うとは、簡単には言えないとは思います。しかし、「その方がキリスト者として正しいような気がする」という考え方は大切だと思うのです。多分、永田さんは、主イエスの歩まれた道、十字架の道を心に覚えて、そのキリストに倣って歩むことがキリスト者として正しいと考えられたのでしょう。だから、大変な方が御心にかなうと考えた。このキリストに倣って、キリストに従って道を選んでいこうとする、その心根こそがキリスト者として正しいと言わねばならないと思うのです。人から見てどうか、世間の評価はどうか、得をするか損をするか、そういうことを基準に道を決めない。ただキリストに倣い、キリストに従う者として道を決める。これこそキリスト者らしいし、キリスト者として美しいことなのだと私は思うのです。
4.主イエスの十字架による新生
さてパウロは、そのようなキリスト者とは、「新しく創造され」た者であると15節で告げております。15節「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」割礼というのは男性の性器に傷を付けるわけですが、大切なことは、そういう目に見えるしるしを体に刻むことではなくて、キリスト者として神様の御前に新しく創造されることだと言うのです。キリスト者になるということは、少し考え方が変わるとか、生き方が変わるとか、そういうレベルのことではないのです。神様によって、神の子・神の僕として、全く新しい存在として新しく創造されるということなのです。それは神様によって新しく生まれ変わると言い換えても良いでしょう。何が楽しく、何が喜びであり、何を目指し、何を求めて生きるのかの、そのすべてが変わるのです。そのすべてが、主イエス・キリストの十字架に結びつけられた者となるのです。
教会学校の夏期キャンプなどでよくやる遊びに「十字架音頭」というのがあります。「十字架体操」とも言いますが、「十字架、十字架、我が救い、我が救い、我が救い。十字架、十字架、我が救い。グローリー、ハレルヤ」と歌いながら、体操というか、踊りというか、振り付けがあって、それをみんなで踊るのです。そして、この「救い」というところをいろいろな言葉で言い換えて、二番、三番、四番と続けていく、振り付けもその言葉に合わせて変えていく遊びです。100番くらいまでやったことがあります。この「救い」のところにそんなにいろいろな言葉が入るのだろうかと思うかもしれません。しかし、子どもたちはいろいろな言葉をどんどん入れていきます。それがいちいち「なるほど」と思ってしまうのです。少しやってみますと、「十字架、十字架、我が光」とか、「我が希望」とか、「我が信仰」とか、「我が愛」とか、「我が道」とか、「我が命」とか、「我が喜び」、「我が誇り」、「我がすべて」、「我が人生」、「我が祈り」、「我が目当て」、「我が土台」、…いくらでも出て来ます。どうして、こんなにいくらでも出て来るのか。それは、主イエスの十字架が私共自身と結びつき、私共の人生のあらゆる局面において、意味を与え、力付け、導いてくれるからなのでありましょう。私共は、主イエス・キリストの十字架によって生まれ変わりました。それは、十字架に結びつけられ、十字架と共々に生きる者となったということなのでしょう。主イエスの十字架をなかったことにして生きることなど出来ない者とされた。それが私共なのです。
5.これだけは伝えねばならない
パウロはこの手紙を閉じるにあたって、11節で「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」と言って書き出しました。当時の手紙は口述筆記です。この手紙も、パウロが語るのを誰かが横で書き取るというあり方で書かれたのです。しかし、この手紙を閉じるにあたって、パウロ自身が筆を取って、今朝与えられている御言葉のところを書きました。最後の挨拶は自筆で書くというのが礼儀だったのかもしれません。しかしパウロは、ここで単なる最後の挨拶を記したのではないのです。どうしてもこれだけは自分の手で書かねばならない、どうしてもこれだけは伝えておかなければならない、そう思ったことを書き記したのです。それが、「私はキリストの十字架のみを誇る」ということであり、「大切なのは新しく創造されるということ」であり、「私はキリストの焼き印を身に受けた者だ」という、宣言とでも言うべき言葉でした。私共もこのガラテヤの信徒への手紙を読み終えるにあたって、この御言葉をしっかり心に刻みたいと思うのです。そして、私共もパウロのように、主イエスの十字架によって新しくされた者として、主イエスの十字架のみを誇りとし、キリストの焼き印を身に受けた者として歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。
[2011年1月30日]
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