1.神様の愛・神様の真実を証しする教会
キリストの教会は、主イエス・キリストによって神の子・神の僕とされた者たちの群れとして、神様の愛・神様の真実を証しするために建てられています。みんなが集まっている方が都合がよい、そんな理由で建てられているのではないのです。キリストの教会は神様の愛・神様の真実を証しするのですから、悪を捨て去り善を行うことにおいて、心を一つにして歩むのです。しかし、「悪いことはやめましょう。善いことをやりましょう。」ということならば、教会でなくても、この世の常識として当たり前のことではないかということにもなります。しかし、キリストの教会の歩みが、この世の常識と同じ所を目指しているとするならば、教会は「世の光」でも「地の塩」でもなくなってしまいます。確かに、教会においても「悪いことはやめましょう。善いことをやりましょう。」ということを勧められるのですが、実はその善いこと悪いことの基準といいますか、目指している所が、この世の常識とは大きく違っているのです。このことをはっきりさせませんと、教会は自分が何者であるかを見失ってしまうということになりかねません。今朝は、この辺の所を御言葉から聞いていきたいと思います。
2.神を侮ってはならない
7節を見てみましょう。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」とあります。神様を侮ってはいけない。今朝私共は、まずこの言葉を心に刻みたいと思うのです。私共の歩みが神様の愛も真実も証ししないものになってしまうということが起きるとするならば、その根っこの所には必ず「神様を侮る」という不信仰があるものなのです。神様を侮るというのは、神様への畏れを失った者の姿です。神様がおられ、生きて働いてくださり、私共のすべてを知り、私共のすべてを支配し、導いてくださっている。このことが分からないのでしょう。私共はこのことを信じ、このように主の日の礼拝をささげているわけです。神様を侮るということは、この礼拝において現臨しておられる神様が分からない、ということなのでしょう。だから、神様を畏れることがないのです。まさにこの主の日の礼拝における姿勢が、日々の生活の上にも現れてしまうということなのだと言っても良いと思います。神様を侮るという心は、信仰を失った者の心、神様を知らない者の心です。こうなってしまえば、その人の行い、言うこと、考えること、そのすべては神様の愛と真実を証しするものではなくなってしまうのは当たり前のことです。神様への畏れを失えば、私共は自分の欲を満たすことばかり考えてしまう、そのためにしか生きられなくなってしまいます。これが罪人の歩みです。
教会がそして私共が、「世の光」「地の塩」であるということは、何よりも神様の御前にひれ伏す者であるということなのです。この礼拝における心をもって日々の歩みを為す者が「世の光」「地の塩」なのです。こう言っても良い。この主の日の礼拝はやがて来る終末の先取りという面がありますから、この主の日の礼拝の心をもって生きるということは、終末を目指して歩むということでもあるのです。主イエスが再び来られる終末において、私共は最終的な神様の裁きを受けます。永遠の命を受けるか、永遠の滅びとなるか。その裁きが終末において為されるのです。終末を目指して歩むとは、永遠に滅びぬように、永遠の命に与るように、そのことを求めて、そこに向かって歩むということです。
8節に「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」とあります。パウロが「霊」と対応して「肉」という言葉を使うとき、それは「罪」と置き換えても良い意味で用いますから、ここで言われる「自分の肉に蒔く」とは、自分の罪の欲を満たす自己中心的な歩みのことであります。神様を侮り、神様に敵対し、罪の奴隷として生きるということです。具体的に言えば、5章19〜21節にある「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」です。一方、「霊に蒔く」とは、自分の欲を満たすこと以上に、神様に従うことを喜びとし、神様の御言葉に従い、神様を愛し、神の子・神の僕として歩むということであります。具体的には、5章22〜23節「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」をもって歩むということになります。
「悪いことはやめましょう。善いことをやりましょう。」というのは、教会においてもこの世においても言われることです。しかし、教会においては「善いこと」の基準は、神様を愛し、神様に従い、神の国を目指して歩むという所にあるのです。人の目から見て善いこと悪いことという以上に、神様の御前においてどうなのかということなのです。ですから、何よりも「神様の御前に生きる」ということが「世の光」「地の塩」としての大切なポイントになるのです。ですから、神様が分からない、神様の救いに与っていることへの喜びと感謝がないということになれば、神様の御前に生きるということも分からないでしょう。そして、終末を目指して生きるということも、永遠の命を求めて信仰に生きるということも、すべてが意味を失ってしまうのです。その結果生じてくる心のあり様が、「神様を侮る」「神様を畏れない」というものなのです。しかし、神様は天地を造り、またそのすべてを知り、すべてを支配しておられる方でありますから、このようなことを放っておかれることはありません。必ず裁きをなさいます。人は必ず神様の裁きによって、自ら蒔いたものを刈り取ることになるのです。霊に蒔いた者は永遠の命を、肉に蒔いた者は永遠の滅びを刈り取ることになるのです。
3.良きものを分かち合う交わり
教会の交わりというものは、この一時の交わりが、神様の御前における永遠というものにつながっていることをお互いにわきまえている者同士によって成り立っています。ここに、キリストの教会の交わりの特色があります。さて、そのような交わりにおいて、6節「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」と聖書は勧めます。「御言葉を教えてもらう人」というのは信徒のことであり、「教えてくれる人」というのは牧師のことを指していると考えて良いでしょう。ですから、ここで聖書は、信徒は牧師をちゃんと生活出来るように支えなさいと言っている、そのように読むことも出来ます。これも実際的な大切な教えであるに違いありません。しかし、それだけではないと思います。「持ち物をすべて」とありますのは、口語訳では「すべて良いもの」と訳されておりました。どちらの訳が良いというよりも、持っている良いものすべてを分け合うということでしょう。これは物のやり取りという以上に、信徒と牧師の関係を言っているのです。ここで「分かち合う」と訳されているギリシャ語は、名詞にすると「交わり」と訳されている言葉になります。ですからここは、「持っている良いものをすべて分かち合う交わりをしなさい」と訳すことも出来るでしょう。神様の御前にある教会の交わりは、この良きものを分かち合うというあり方で形作られていくということなのです。良きものというのは、富であり、時間であり、祈りであり、御言葉であり、聖餐であり、証しでありましょう。そういうものを牧師と信徒が、また信徒同士が、互いに分かち合うというあり方において形作っていく。それが教会の交わりというものなのです。
この交わりというものは、キリストの教会においては本質的なものです。交わりのない所に、教会は建ちません。そしてこの交わりの中心、良きものの分かち合いということの中心に、御言葉そして聖餐というものをイメージして良いと思います。御言葉を分かち合い聖餐を分かち合う交わりです。私共は、この礼拝において御言葉を分かち合っています。そして、聖餐においてただ一つのキリストの命を分かち合っているのです。何と深い、堅い、豊かな交わりでしょう。この交わりは、命の交わりでありますから、この礼拝の中だけ、この礼拝が終わったら終わり、そんなことはあり得ないのです。礼拝を共にする者の交わりは、6日間の私共の歩みを方向付け、決定し、そこにおいても交わりが形成されていくのです。この交わりは、地縁・血縁という交わりよりももっと濃密で愛に満ちたものとして形成されていくはずのものです。
また、この「良きもの」に「証し」というものを考えることも出来るでしょう。私共はそれぞれ神様に救われた者としての「証し」を持っている。これを自分の心の中だけに留めておいたのでは駄目なのです。これを互いに分かち合うのです。神様が生きて働いてくださって、私にこんなことをしてくださった、この御言葉に生かされた。このような証しがこの教会に満ちるとき時、自ずと主を誉め讃える交わりがそこに生まれるでしょう。私共の教会は、この点においてさらに豊かな交わりを形成していく必要があると思います。
最近マスコミでは「無縁社会」という言葉が使われるようになってきています。地縁・血縁というものが希薄になり、高齢化社会という現実と重なって、独居老人の問題などが取り上げられたりしています。この問題は、教会においても無関心ではいられないでしょう。教会は超々高齢化しています。老人が多い。しかし、この教会に集う私共は「無縁」ではないのです。教会というキリストの命の交わりの中にいる一人一人なのです。たとえ礼拝に集うことが出来なくなったとしても、自分はこの教会のメンバーである。この交わりの中に居場所がある。病気になり、入院し、手術を受けても、早くあの礼拝に復帰したい。そう思える交わりなのです。私共のこの交わりは、この地上を超えて、永遠と結ばれる交わりです。元気な時だけの交わりではないのです。病気で寝たきりになろうとも、そしてたとえ死んだとしても、この交わりは無くならない。何故なら、この交わりは神様の御手の中における、永遠の命に繋がる者としての交わりだからです。
4.戒規
この交わりを形成していく上で課題となるのは、罪を犯してしまった人をどうするのかということです。1〜2節「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」とあります。これは別の言い方をするならば、戒規の問題です。ある人が罪を犯したことが明らかになった場合、教会はその人に対してどうするのか。教会の伝統に則って言えば、教会はそのような人に戒告、陪餐停止、除名という戒規を行うことが出来ます。ただ注意しておかなければならないことは、これは処罰ではないということです。教会が行う戒規とは、悔い改めを求めるためのものであって、その人が悔い改めたならば戒規は解除され、元と同じ交わりに戻るのです。しかし、実際どのような場合にどのような形で戒規を執行するのかは、なかなか難しい問題です。私はまだ戒規を執行したことはありません。戒規を受けた人が悔い改めることなく、逆に信仰を捨ててしまっては目的を果たせません。戒規の難しさはそこにあります。戒規とは愛の業なのです。ですから、「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と言っているのです。相手の過ちを責めるというよりも、教え、諭し、悔い改めへと導くということです。ですから、柔和な心がどうしても必要なのです。
そして、もう一つ必要なことは、その人と一緒に歩むということです。罪を犯した人が悔い改めて、キリスト者としてもう一度歩み直し始めるまで、その人と一緒に歩むということです。悔い改めを求めるということは、「あなたはこういう罪を犯した。悔い改めなさい。」とその人に告げれば終わりというわけにはいかない。愛の業だからです。その人が自分の間違いに気が付いて、ちゃんと神の国に向かっての歩みをすることが出来るようになるまで、一緒に歩むということです。牧会するとは、そういうことです。労力がいるし、根気がいるし、愛が求められるのです。これがここで「互いに重荷を担いなさい」と言われていることなのです。牧会は牧師の職務ではありますが、牧師だけで出来るものではありません。そもそも牧会は長老会に委ねられているものです。日本の教会では、まだ十分にそのことが受けとめられていないところがあると思います。さらに言えば、長老に任せていれば良いということでもないのであって、牧会というものは、長老も執事も信徒も互いにこの務めを担わなければ出来ないことなのです。
5.神の国の光に照らされて
教会はキリストの体です。すでにキリストの体とされている、それは確かなことです。しかし、キリストの体になっていくという面もあるのです。キリストの愛がここに来れば分かる、そういうあり方で交わりが形成されていくことによって、教会はキリストの体になり続けていくのでありましょう。私共の教会の完成形は、終末における神の国にあります。神の国の光に照らされる時、私共の教会の未だ足らない所が見えてくるのです。それは教会のことだけではありません。神の国の光に照らされるとき、自分の足らない所も見えてくる。私共は、他人と比べてもなかなか自分の欠けというものは見えてきません。何故なら、私共は他人と自分を比べる場合、必ず自分より劣った人と比べるものだからです。また自分より優れた人と比べる場合であっても、その人の中にある自分より劣った所を見つけては、大した者ではない、私の方が大した者だと思うものなのです。このうぬぼれは、ねたみと根っこが同じです。人と比べるのではなく、キリストの御前に立つ者として歩む。キリストを見上げて、自分の欠けを知る。この時私共は、自分は大した者だとうぬぼれることもありませんし、ねたみ心にさいなまれることもありません。主イエスを見上げて、ねたむ人はいないのです。
私共は、主イエスによって愛され生かされている者として自らを受けとめることによって、為すべき務めに励むことが出来るのです。良きものを互いに分け合い、互いに仕え合い、支え合いつつ、神の国を目指す者の群れとして、善き業に励んでいくことが出来るのです。そのために必要な信仰を、愛を、神様が私共に注いでくださいますよう、共に祈りを合わせたいと思います。
[2011年1月23日]
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