1.神様に救われた者としての新しさの中で
2011年最初の主の日の礼拝をささげております。多分、明日の新聞には、毎年のようにどこの神社の初詣は何万人の人出であったと報じられるのでしょう。しかし私共は、多くの日本人が行く初詣にも行かず、この主の日の礼拝へと集まってまいりました。ここには、主イエス・キリストと出会って、主イエスの救いに与った者としての新しい歩みが具体的に現れています。主イエスと出会う前、私共は何の疑問も抱かずに初詣に行っていたのです。しかし今は行かない。何故なら、私共が頼り、拝むべき方はそこにはおられないことを知ったからです。ここには、実にあざやかに、主イエスによって救われた者の姿が現れています。初詣は、この年はこんな年でありますようにという自分の願いを神様にお願いするために神社に参るわけです。しかし、この年頭の礼拝において私共は、自分の願いを神様に述べる前に、神様の言葉を聞くのです。自分が願う前に、私共に対しての神様の思いを、意志を、御心を聞くのです。神様の言葉をまず聞いて、そこから私共の歩みを始める。これは実に新しいことです。神様の救いに与った新しさです。私共は、この新しさの中で歩み始めるのです。主イエスに救われた私共は、具体的に新しい歩みを為していく者です。主イエスと出会う前の古い自分を脱ぎ捨てて、新しい私、神様によって新しく造り変えていただいた私として歩んでいく。それが私共の2011年の歩みなのです。
2.献身=キリストに倣う
そのような私共に今朝与えられております御言葉は、実に具体的です。このローマの信徒への手紙の12章は、11章までの教理的な言葉に続いて、キリスト者はどう生きるのかという具体的な生活のあり様を語ります。新共同訳の小見出しには、前半の部分には「キリストにおける新しい生活」とあり、後半には「キリスト教的生活の規範」とあります。
12章の冒頭には、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」という有名な御言葉があります。この御言葉に導かれるようにして、キリスト者としての新しい生活、キリスト教的生活の規範が告げられているわけです。この御言葉は、献身の勧めと言っても良いでしょう。キリスト者の生活は、自分自身を神様に献げた者として生きる、そこに集約されているのです。そして、この献身の歩みの先頭には、主イエス・キリスト御自身がおられるのです。神様に献身する私共の歩みは、キリストに倣う歩みに他ならないのです。キリストに倣うのであって、この世に倣うのではないのです。ですから、2節は「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と続くのです。この世に倣うのではなくて、主イエスに倣う。しかし、その歩みを為すためには、私共の心が神様によって変えられなければなりません。何が大切なことか、何が嬉しいことなのか、何を喜びとするのか、そこから変わっていかなければならないのです。その基準が、この世ではなくて主イエス・キリストに変わらなければならない。神様にとって、神様から見て、何が喜びであり、良きことなのか、そこから判断し、それによって生きるという風に変わらなければならないのです。
3.自らの罪との戦い
これは大変なことです。私共には、生まれ育った環境によって、また持って生まれたものとして、心の習慣とでも言うようなものがあるからです。それは、殆ど本能と言っても良い程のものです。私共の中には、新しい人になりたい、変わりたいという憧れ、願いと共に、変わりたくないという頑なさも同居している。そしてこの頑なさは、本当にしぶといものです。しかし、キリスト者として生きるということは、この自分の中にある「変わろうとしない頑なさ」と戦って変わり続ける、神様によって造り変えられ続けていくということがどうしても必要なのです。そしてこの営みは、主の御許に召されるまで終わることはないのです。
私は、しばしば自分の変わらぬ愚かな歩みに失望します。どうしてこんな小さな事で腹を立てるのか、自分が嫌になるときがあります。その小さな事に何時までも囚われて、心が晴れない自分を情けなくなります。しかし、その様なときに同時に思うのです。私共の罪がどんなに頑固であったとしても、どんなに変わろうとしないとしても、しかし全能の神様が造り変えることが出来ない程に頑固な罪などというものは存在しない。これが私共の希望です。私共の自らの罪との戦いは、神様が私共の前面に立って戦ってくださる戦いなのです。そしてそれ故に、必ず勝利することになっているのです。私共が戦いを放棄しない限り、この戦いは勝利することになっているのです。私共は、この神様の全能の力を信頼して、安心して戦えば良いのです。
ただ誤解してはならないことは、この12章に記されているキリスト者の生活のありようについての教えは、このような生活を全うしなければ救われないという話ではない、ということです。このような人にならなければ救われないということであれば、それこそ誰も救われないでしょうし、主イエス・キリストの十字架は何だったのかということになってしまいます。私共は、主イエス・キリストの御業によってすでに救われているのです。それは間違いないのです。しかし、この主イエスによって救われた私共は、自らの罪をそのままに、自らの罪に引きずられるがままに生きるわけにはいかないでしょう、ということなのです。主イエスがすでに一切の罪を担って十字架にお架かりになってくださった。復活によって、罪の値である死を滅ぼしてくださった。その救いに与った私共は、喜んで自らの罪と決別し、主イエスに倣う者として生きるしかないでしょう。その自らの罪との戦いがどんなに大変でも、それを放棄するわけにはいかないのです。
4.祝福を祈る
今年最初に与えられている御言葉は、14節「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」と始まります。呪うのではなく、祝福を祈れというのです。しかも、自分たちを迫害する者のためにです。そんなことが出来るのだろうか。そんなことは無理だ、という声が私共の中に浮かんでくるでしょう。しかし、ここで「無理だ。」と言って済ませてしまうならば、私共は新しい人として歩むことを放棄することになります。それは出来ません。私共は実際には、迫害と言える程の外からの圧迫を受けることはあまりない時代に生きています。しかし、嫌なことを言われたり、傷つけられるようなことをされることは少なくありません。そのような時に、その人を呪うことなく、祝福を祈ることが出来るだろうかということです。嫌なことを言われたり、傷つけられたりした時、腹を立てるのは自然なことでしょう。これはもう本能と言っても良いような心の動きであって、これを抑えることは殆ど無理かもしれません。しかし、ここで告げられていることは「腹を立てるな」ということではないのです。ここで告げられているのは、そうではなくて「祝福を祈れ」ということなのです。祈りの勧め、しかも祝福の祈りの勧めが告げられているのです。
新しい人として生きる私共にとって大切なことは、どういう祈りをするかということ、どのような祈りの生活を確立していくかということです。自分の願いを叶えてもらうことしか考えないような祈りしかしていないならば、この祈りは出来ないでしょう。私共はその時に腹を立てないようにするのは無理であっても、祝福を祈ることは出来るはずなのです。それは、祝福を祈るのは、腹を立てたその瞬間のことではないからです。腹を立てている状態でその人の祝福を祈るなどということは出来ないでしょう。嫌なことを言われたり、傷つけられたりした時、その時は腹が立つ。しかし、一日が終わり祈りの時が来る。その時、その出来事を覚えてその人のために祈る。それは出来ることなのではないでしょうか。何故なら、祈りの時においてこそ、私共は一人の罪人として神様の御前に真実に立つからです。私共は、人に対して自分の非を認めることは出来ないとしても、神様の御前においては、言い逃れの出来ない罪人として立つしかありません。そこにおいてなら、いや、そこにおいてしか、腹を立てたあの人のために神様の祝福を祈ることは出来ないでしょう。「自分は正しく、相手は間違っている」そのようにしか思うことが出来ない心の習慣に染まっているのが私共です。この心の習慣は、私共の心の鎧と言っても良いものでしょう。その「私は正しい」という鎧をどこで脱ぐことが出来るか。それは神様の御前においてしかありません。神様の御前においては、祈りの時には、私共は心の鎧を脱ぎ捨て、ただ一人の罪人として立つことが出来るからです。そうでなければ、祈りが成立しないのです。だから聖書は、その鎧を脱いで、神様の御前に立って、その人のためにも祈る者であれ。あなたはそれが出来るし、それをするように新しい人にされている。この祈りにおいてこそ、あなたは新しい人としての歩みを為すのだと私共に勧めているのです。
5.復讐するは我にあり
この勧めは、17節「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」、19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。」、21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」において繰り返されています。この17節、19節、21節での繰り返しにおいて告げられておりますことは、実際に報復しない、復讐しないということですけれど、そのような歩みの根っこに、「迫害する者のために祝福を祈る」という祈りの生活がなければならないことは間違いありません。こう言っても良いでしょう。私共が祈りの生活を確立していかない限り、新しい人としての生活を確立していくことは出来ない。ただ一人の罪人として神様の御前に立ち、あわれみを求める。このことなしに、新しい人としての私は立ちようがないのです。この祈りの場においてのみ、「正しいのは私。間違っているのはあなた。」という心の習慣が打ち破られていくからです。繰り返し、繰り返し、「正しいのは私。間違っているのはあなた。」という鎧を神様の御前で脱ぎ捨てていく中で、人との交わりにおいても少しずつ少しずつこの鎧を脱ぐことが出来る。そうして新しい心の習慣持った新しい人が、私共の中に少しずつ少しずつ形作られていくのです。
悪に対して悪を返す。報復し、復讐する。これは必ず悪の連鎖、復讐の連鎖を生んでいきます。復讐は一回では終わらないのです。昨年の暮れからの中国や朝鮮半島の状勢は、そのことを改めて私共に教えていると思います。アフガニスタンやイラクでの状況も同じです。悪に対しては悪で返す。それがこの世の常識であり、それによって歴史は動いている。それで良いとは誰も思っていないでしょう。しかし、そこからどう抜け出せば良いのか分からない。この世界は、それを知らないのです。何故なら、この世界はまだ神様の御前に真実に立ち、悔い改めて憐れみを求める祈りを知らないからです。そのようなこの世のただ中にあって、私共は祈る者として、祈ることを知っている者として立てられている。これこそ、私共が世の光であり、地の塩であるということなのでありましょう。
私はこの19節にあります「復讐はわたしのすること」という言葉から、必ず思い出すことがあります。もう30年も前でしょうか、この言葉が毎日のようにテレビから流れたことがあったのです。この言葉の文語訳、「復讐するは我にあり」がそのまま日本映画の題名となり、その宣伝のためにこの言葉が毎日テレビから流れていたのです。その映画の宣伝を見た人は誰でも、この言葉を「他の誰もやらなくても私は黙っていない、私が復讐する」そういう意味だと思いました。もちろん、聖書が語っているのはその正反対のことです。「復讐するは我にあり」の「我」とは神様のことです。神様御自身が復讐するから、あなたは復讐してはならない。そう聖書は告げているのです。しかし、復讐するのは神様であって、人間はしてはならないという教えは、日本では全く理解されないことだったのです。それは今でも変わらないと思います。テレビでは毎日のように、「正しいのは私。間違っているのはあなた。」という正義によって悪者がやっつけられていくというドラマが流されています。それは時代劇も現代物も変わることはありません。
しかし聖書は、それでは私共もこの世界も新しくなることは出来ない、主イエスによって新しくされた者の歩みではない、そう告げているのです。
ここで私共は、主イエス・キリストの十字架上での言葉を思い起こすことが出来るでしょう。ルカによる福音書23章34節、主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」そう祈られました。この主イエスの十字架上の祈りこそ、私共が傷つけられ、痛めつけられた時、神様の御前に立って祈るべき言葉なのでしょう。また、主イエスは山上の説教においても、マタイによる福音書5章39節「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」、5章44節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えられました。実に、主イエス・キリストというお方によって示された新しい人、神の子、神の僕の歩みこそ、私共キリスト者に与えられた新しい人としての歩みなのです。
キリストの教会は、この主イエス・キリストによって与えられた新しさに生きることを何より大切にしてきました。悪に対して悪を返さない。復讐しない。善をもって悪に勝つ。このような歩みを、自分たちに与えられた新しい歩みとしてきたのです。そこに、この世に対するキリストの救いの力の説得力があったのです。キリストの教会は、この世の力から見れば、いつ踏みつぶされてもおかしくないような小さな存在でした。しかし、どんなに踏みつけられようと、痛めつけられようと、この新しさを失うことはありませんでした。そして、この新しさに生ききる群れとして、キリストの教会はこの世界に対して存在感を示し、この世界に対して世の光としての役割を果たしてきたのです。
6.善をもって悪に勝つ
そして21節、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と聖書は告げます。悪に負けるとは、悪しき力の前に押さえつけられ、その力に何の抵抗も出来なくなるということではありません。悪に負けるとは、悪の力の前に、同じ悪しき力でもって対抗し、キリストによって与えられた新しさを失ってしまうことです。この世と同じ、力には力で対抗するという歩みを私共もしてしまうということです。私共は、悪しき力に対して力で対抗するのではなく、善をもって対抗する。言い換えれば、愛の業をもって対抗せよと聖書は告げているのです。このようなあり様は、この世の常識からすれば、まことに愚かな歩みなのでしょう。まことに非常識の誹りを免れないあり方です。この世の常識からすれば「一つ殴られたら二つにして返す」ということになるのでしょう。私も幼い時、父から何度も言われました。外で泣かされて帰って来ると、「男がそんなんでどうする。一発殴られたら二発殴って帰ってこい。」と言われて、家から出されたこともありました。私がキリスト者になった時も、「右の頬を打たれたら左の頬も出す、そんなことでは世の中は生きてはいけんぞ。」と言われました。この世の常識、この世の生き方としては、そういうものなのでしょう。
しかし、私共はそこから救い出されたのです。神の子、神の僕とされたのです。このキリストによって与えられた新しい命に生きる者となった私共は、キリストによって新しくされた者として歩むのです。そこで与えられる勝利とは、相手を打ち負かすという勝利ではありません。この勝利とは、キリストの十字架による勝利であり、復活の勝利です。それは、この世の勝利ではなく、神様の御前における勝利であります。私共の勝利ではなく、キリストの勝利、神の勝利なのです。新しくされた私共が求める栄光、勝利の冠は、神の国において与えられるものです。この世における栄光はこの世の者が求めるもの、私共が求めるものではありません。そこには私共の勝利も、私共の栄光もありません。私共の勝利は、主イエスの勝利に与る勝利であり、十字架の勝利です。主イエスは、十字架において敗北したのでしょうか。いいえ、決定的な勝利を収めたのです。しかしそれは、まるでこの世の力の前に敗北したようにしか見えませんでした。それが主イエスの勝利であり、私共に約束されている勝利でもあるのです。それは、傍から見れば、悪に対して負けたように見えるかもしれない。しかし勝っている。そのような勝利なのです。
私共は今から聖餐に与ります。主イエス・キリストの体と血とに与る。この聖餐において主イエス・キリストと一つにされたされた私共は、キリストの救いによって新しくされた者として、キリストの勝利を身に帯びて、すでに世に勝っている者として、大胆に、悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝つ歩みへと踏み出していくのです。それが、私共に備えられている2011年の新しい歩みなのです。
[2011年1月2日]
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