富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「救い主の誕生」
イザヤ書 9章1〜6節
ルカによる福音書 2章1〜20節

小堀 康彦牧師

1.平和の王、イエス・キリスト
 私共は今朝、主イエス・キリストの御降誕を喜び祝うため集まってまいりました。二千年前に主イエスがお生まれになった。この方によって、私共の一切の罪が担われ、赦され、神様との親しい交わりの中に生きる者とされた。永遠の命に生きる新しい希望を与えられた。そのことを心から感謝し、喜んでいる私共であります。しかし、この主イエスがお生まれになったということは、単なる私共個人の問題で留まることではありません。私共が主イエスに救われ、新しい命に生きる者とされた。それだけではないのです。この世界が、主イエスがお生まれになることによって変わったのです。主イエスが来られることによって、この世界のまことの主、この世界のまことの王が誰であるのかが明らかにされ、この世界は本来どうあるべきなのか、この世界はどこに向かって行かなければならないのか、そのことが示されたのです。
 私は、毎年この季節になりますと、世界が平和であるようにと改めて願うのです。争いのない、戦争のない、人と人、国と国とが憎しみ合うことのない世界になるようにと願うのです。しかし、その願いが叶えられた年はありません。この日本も今年は、朝鮮半島では緊張した状況があり、中国との関係はぎくしゃくし、沖縄の米軍基地移設の問題が連日報道されております。アフガニスタンでの戦闘状態も続いています。世界中が平和に包まれてはいないのです。そして、私共はそれで良いとは思っていないはずです。これが世界のあるべき姿だとは思っていない。それは、主イエス・キリストという平和の主、平和の王が求め給う世界ではないことを知っているからです。主イエス・キリスト無き世界においては、力がすべてかもしれません。軍事力、経済力、化学力といった、力を持った者、力を持った国が、それらを持たない人や国を支配する。それが当たり前のことなのかもしれません。人類の歴史は、確かにそのような力によって動いているように見えます。しかし、主イエス・キリストが来られたことにより、そのような人間のあり様、歴史のあり様が、決して本来のあり様ではないし、あるべき姿でもないことを私共は示されたのです。平和の王であられる主イエス・キリストの御支配が確立されていくことを、この世界は願い、求めて歩むのだということが示されたのです。

2.力の王と平和の王
 主イエスがお生まれになったのは、ベツレヘムという小さな町でした。主イエスの父ヨセフと母マリアが住んでいたのはナザレという町です。ヨセフと身重のマリアは、ナザレからベツレヘムまで旅をしたのです。ナザレの町はガリラヤにあります。ベツレヘムの町はエルサレムの近くです。直線距離でも120kmくらいあります。当時のことですから、きっと彼らはサマリアを通らずに旅をしたと思います。多分、移動距離は200kmにもなったと思います。どうして彼らは、特にマリアは、身重になった身でありながら200kmもの旅をしなければならなかったのでしょうか。富山からなら、福井を越えて敦賀ぐらいまで行く程の距離です。それは、当時のローマ皇帝アウグストゥスの命令で住民登録をするためであった、と聖書は記します。住民登録というのは、税金や兵隊のための人数を確認するために行われるものでした。アウグストゥスは初代のローマ皇帝です。この人の時から、ローマは帝国となりました。このアウグストゥスから200年くらいの間が、ローマ帝国が最も安定し、繁栄した時代でした。パックス・ロマーナ(ローマの平和)と言われる時代です。しかし、このローマの平和は、ローマ帝国の無敵と言われる軍隊によってもたらされたものでした。そして、その頂点にいたのがアウグストゥスなのです。彼の命令で、ヨセフとマリアは旅をしなければならなかったのです。確かに、後にローマの平和と呼ばれる時代でした。しかしこの平和は、強大な力による平和であり、その力は身重のマリアに200kmもの旅を強いるような力だったのです。
 そして、主イエスはベツレヘムの町で、マリアとヨセフが旅をしている最中にお生まれになったのです。その生まれた場所は家畜小屋でした。そして、主イエスは飼い葉桶に寝かされたのです。まことの王、世界の主、まことの神の御子である主イエスは、大工のヨセフを父として、まだ幼いと言ってもいい程のマリアを母として、家畜小屋で生まれたのです。どうして、主イエスは王様の家に、それこそローマ皇帝アウグストゥスの子としてお生まれにならなかったのでしょうか。それは、この世界のまことの王、神の御子キリストは、この世の一切の力に頼らず、求めず、ただ神様の力によって、信仰と希望と愛によって建てられる国、神の国の王として来られたからです。

3.神の国の秩序
 主イエスが建て給う神の国における秩序は、神なき世界の秩序とは根本的に違います。神の国において力ある者は仕える者となり、低くなるのです。低くなり、仕える者となる者こそ高くされるのです。主イエスは、この神の国の王として生まれたが故に、誰よりも低く、誰よりも小さくなって生まれられたのです。この主イエスよりも低い者は誰もいない、そう言い切れる程に小さく、低くなられたのです。それは、誰も自分の力や能力を誇ることがないためでした。飼い葉桶に眠る神の独り子の前で、誰が自分の生まれを、自分の力を、自分の地位を誇ることが出来るでしょう。この方の前に出る時、私共は自分を誇っている心の底を見通されて恥ずかしくなるのではないでしょうか。みすぼらしい、誇るに値しない小さな自分の力を誇っている自分の姿に気付かされ、恥ずかしくなる。そして、自分はローマ皇帝アウグストゥスに象徴される、目に見えるこの世の力を求め、これに頼って生きるのか、それとも神様の力を頼り、主イエスをまことの王とする神の国の秩序に生きるのか、このことが問われるのです。
 クリスマスの出来事は、徹底的に小さな者に光を当てます。主イエスの誕生を最初に知らされたのは羊飼いたちでした。彼らは当時の社会の底辺にいた人たちです。律法学者やファリサイ派の人々からは、律法を守らない汚れた者と見なされていた人たちです。主イエスの誕生は、まず彼らに知らされたのです。神様から見れば、それが良いことだったからです。神の国の秩序においては正しいことだったからです。彼らに最初に主イエスの誕生が知らされたのは、彼らが特に信仰深かったからでもないでしょう。強いて言えば、彼らが自分たちを、神様から遠く離れた者と思っていたからかもしれません。神様の恵み・神様の救いは、まず自分が神様から遠いと思っている人、神様に見捨てられたと思っている人に向けられたのです。私共に子が産まれたとき、誰に最初にそれを知らせたでしょうか。自分の父や母、家族に知らせたでしょう。ということは、神様は羊飼いを自分にとって大切な者と見ておられたということなのではないでしょうか。
 私共は、主イエスを我が主、我が神と拝んでいます。不思議な神様の選びによって、主イエスとの出会いを与えられ、信仰を与えられたからです。この神様の不思議な選びの根拠は、私共の中にはありません。私共の性格が良くて、信仰深いから選ばれたのでは決してありません。この羊飼いと同じように、私共が選ばれた理由は、強いて言えば、私共が弱く、愚かで、小さな者だったからです。神様から遠い者だったからです。しかし、神様はそのような私共を憐れんでくださり、大切な者と見てくださり、良き知らせを与えてくださったのです。私共に誇るべきものは何もありません。それで良いのです。あがめられるべき方は、ただ神様でなければならないからです。

4.恐れるな
 天使は羊飼いたちに「恐れるな。」と告げます。これは、突然天使に出会い、聖なる者の前で恐れていた羊飼いたちに告げられた言葉ですが、それだけの意味ではないでしょう。天使は続けて、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と告げるのです。あなたがたのために救い主がお生まれになった。だから、もうあなたがたは何も恐れないで良い。そう告げたのでしょう。羊飼いは、日々の生活の中で様々な恐れを抱いて生きていた。それはいつの時代のどこで生きている者も同じです。これからの暮らし向きのこと、子供のことなど、将来に対しての恐れや不安のない人などいないのです。しかし天使は、「恐れるな。」と告げるのです。主イエスが、救い主が生まれたからです。私共の一切の不安、恐れ、思い煩いを担ってくださる方が来られたからです。「神、我らと共にいます」インマヌエルの現実の中で、私共が生きることが出来るようになった。だから、「恐れるな」なのです。ここには、後に主イエスが語られる「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(ルカによる福音書12章22節)ということが先取りされている。そう言って良いと思います。
 そして、この恐れないで良い根拠として羊飼いたちに示されたのが、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」だったのです。これが救い主のしるしであり、恐れないで良い根拠だったのです。羊飼いたちは、この天使の言葉に従ってベツレヘムに行き、この幼子イエスを探し当てました。羊飼いたちは、目を見張るような黄金のゆりかごに眠る幼子を見たのではありません。飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を見ただけです。彼らは、自分たちが見つけた幼子が天使の告げた通りだったので、神様をあがめ、神様を賛美しました。飼い葉桶に眠る幼子という貧しく風変わりな姿を見て、それが天使の告げた通りだったので、この幼子は天使の告げた救い主であるということを信じました。そして、神様をほめたたえたのです。
 この時、幼子イエスは何も語りませんでしたし、何もしませんでした。生まれたばかりの乳飲み子なのですから、何も出来ない、何も言えないのは当たり前です。しかし、羊飼いたちはその姿だけで十分でした。天使のお告げを受けていたからです。そして、この飼い葉桶に眠る幼子の姿こそ、インマヌエル「神、我らと共にいます」ということがどういうことなのかを何よりも雄弁に語っていたのです。飼い葉桶に寝かされていることに不平を言わず、自分では何も出来ないけれども、不安や恐れにさいなまれていない、ヨセフとマリアの守りの中に安心して眠る乳飲み子。この乳飲み子の姿こそ、主イエスが後に「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決して出来ない。」(ルカによる福音書18:17)と言われた幼な子の姿そのものだったのではないでしょうか。そして、この幼子の姿にこそ私共の本来の姿、神様に似た者として造られ、神様との親しい交わりに生きる私共の姿が示されているのでしょう。

5.神に栄光、地には平和
 この夜、天には神様を賛美する天使たちの歌声が響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ。地に平和、御心に適う人にあれ。」天使たちは、まず神様に栄光があるようにと歌い、次に地に平和と歌ったのです。この順番は大切です。逆ではないのです。何故、この地上に平和が来ないのか。それは、神の栄光を求めず、自らの栄光ばかりを人が求めるからです。自らの栄光を求める者は、自らを誇ります。自らの力を頼り、その力で人の上に立とうとするのです。そこに平和はありません。しかし、神に栄光を求める者は、自らの力を頼らず、神様の導きを信じ、神の御子が小さな者として低きに下り仕える者となられたように、自らもまた、人に仕える者として生きようとする。信仰と希望と愛をもって、人に仕える者として生きる。そこに神様の御業としての平和が来るのであります。
 神に栄光あれ、地には平和。これがクリスマスのこの時、私共に与えられている神様の御心であり、私共の祈りであります。天から地に下り給うた御子イエス・キリスト。この低きに下る神によってもたらされた新しい世界、神の国の新しい秩序を私共は知らされました。私共は大きくならなくて良いのです。神様は小さな者と共にいてくださり、その小さな者を愛してくださり、神の国へと招いてくださるのです。この新しい神の国の秩序を知らされた者として、互いに仕え合い、神様によって与えられた信仰と希望と愛をもって歩んでまいりましょう。来年のクリスマスは世界に主の平和が満ちることを望み、信じ、祈りつつ歩んでまいりましょう。

 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐は私共に神の国の食卓を思い起こさせます。小さな者が大きくされ、仕える者が高められる主の食卓です。そして、このパンと杯に与る時、私共は、十字架の死においてまで徹底的に自らを低くされた方、その方の体と血とに与り、この方と一つにされるのです。この方と離れた所に、私共の新しい命はありません。この聖餐に与りつつ、神に栄光、地に平和との祈りに生きてまいりたい。そう心から願うのであります。

[2010年12月19日]

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