富山鹿島町教会

礼拝説教

「神に出来ないことは何一つない」
創世記 18章1〜15節
ルカによる福音書 1章26〜38節

小堀 康彦牧師

1.クリスマスを喜び祝える幸い
 アドベント第三の主の日を迎えております。先週は北陸学院の同窓会富山支部が発足して第一回目のクリスマス会、富山市民クリスマス、富山刑務所のクリスマス会がありました。また訪問聖餐も行われました。毎日のように、主イエス・キリストの御降誕を喜び祝う会が開かれています。クリスマスを喜び祝う。それは、私共が主イエス・キリストと出会い、その救いに与ったからです。もし私共が主イエスを知らなかったなら、忘年会と少しも変わらないけれど名前だけはクリスマス会という、宴会なりパーティなりをするだけだったでしょう。そこには祈りも讃美歌も御言葉もありません。神様への畏れも、神様の御業への驚きもない。そこでは、クリスマスは年中行事の一つ、年末のイベントに過ぎなくなってしまいます。しかし私共にとって、クリスマスは一つのイベントというようなものではありません。このクリスマスの出来事があったから、今の私がある。私という存在の根底を支える出来事なのであります。私は、毎年このクリスマスのシーズンになりますと、クリスマスを喜び祝うことが出来るということを本当に嬉しく、ありがたく思うのです。そして、天地を造られた神様が一人の幼子になられたという驚くべき出来事の前に、言葉を失うのです。あり得ない、起き得ない、まことに不思議としか言いようのない出来事であります。しかも、この不思議は私のために起こされたのです。この私のために、神様は愛する独り子を、人間の幼子として遣わしてくださった。この私のために、マリアは御子の母となってくれた。この私のために、ヨセフは、いいなずけのマリアのお腹に宿った、自分の身に覚えのない幼子の父となってくれた。まことにありがたいことであります。主イエス・キリストの誕生に関わった一人一人の歩みが、私の救いへとつながっている。だから、クリスマスの出来事は遠い国の二千年前の昔話ではなくて、私の話なのです。だから、私共は今年もクリスマスを喜び祝わないではいられないのでしょう。

2.神様の「おめでとう」
 さて、今朝与えられております御言葉は、いわゆる受胎告知と言われる場面です。この場面は、たくさんの画家たちによって描かれてきました。大抵、ひざまずくマリアと、そのマリアの斜め45度の所に大きな羽根をつけた天使ガブリエルが描かれています。しかし聖書は、この時天使ガブリエルがどのような姿でマリアの所に現れたのか、何も記しておりません。そもそも目に見える姿で現れたのかどうかも分からないのです。ここで大切なのは、マリアや天使の姿ではありません。言葉です。天使ガブリエルが語った言葉、そしてマリアが答えた言葉です。
 天使ガブリエルはマリアに告げます。28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」突然天使が現れ、このように告げられても、一体何が「めでたい」のか、何が「恵まれている」というのか、マリアは少しも見当が付かなかったことでしょう。マリアはこの言葉に戸惑い、考え込んだと聖書は告げます。しかし、考えてみたところで分かるはずもありません。天使は続けてこう言います。30〜31節「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」天使が「おめでとう」と言ったのは、マリアが身ごもって男の子を産むからだったのです。もしマリアがすでに結婚していたのならば、男の子を身ごもるということは、確かに嬉しいこと、喜ばしいことであり、「おめでとう」と言われるにふさわしいことであったでしょう。しかし、マリアはこの時まだ結婚していないのです。大工のヨセフと婚約はしていますが、まだ結婚していない。まだ生活を共にしていないのです。現代の日本のような、結婚する前に子供が出来るのが珍しくないというような時代ではありません。結婚前に子供が出来るということは、社会的に許されることではなかったのです。マリアは身に覚えがないことですし、自分が身ごもるはずがない。もしそんなことになったら大変です。いいなずけのヨセフとの関係はどうなるのか。実際、この後のことをマタイによる福音書は、マリアのいいなずけのヨセフは、マリアが身ごもっていることが分かると婚約を解消しようとしたと記しています。結婚前に、しかも一番楽しい婚約という期間に、婚約者のマリアのお腹に子供が宿ったということは、ヨセフにしてみれば身に覚えがないわけですから、マリアに裏切られたとしか考えようがないわけです。彼が婚約を解消しようとして当然だったと思います。ですから、この時マリアが身ごもるということは、少しも「めでたい」ことではなかったのです。それどころか、あってはならないことだったのです。マリアにしてみれば、とても歓迎など出来るはずのないことでした。しかし天使は「おめでとう」と言う。
 ここで私共は、神様から見て良いこと、めでたいことと、私共にとって良いこと、めでたいことというのは違うということを知らされるのです。神様は、神様が良いと思われることを私共にしてくださる。しかし、それが私共にとっても良いこと、願い望んでいることとは限らないということなのです。つまり、マリアがこの時主イエスを身ごもり、主イエスの母となられたということは、やっぱり「おめでとう」と言われるのにまことにふさわしいことだったのではないでしょうか。そのことをマリアはこの時、まだ分かりません。しかし、本当にめでたいことであり、神様からの恵みに満ちたことだったのです。多分、今、世界中で一番多い女性の名前はマリアです。マリアの与えられた祝福を、我が子にも受けさせたいと両親が願うからでしょう。目の前のことだけ考えれば、この時マリアは自分が身ごもるということを、とんでもないこととしか考えられなかった。しかし、神様はそれがまことに「めでたい」ことだと知っておられたのです。私共の我が身に起きる神様の御業は、私共にとってその時は良きことと思えないようなことであったとしても、神様が「おめでとう」と言われること、神様が良しと思われることなのです。神様は全てを見通して、事を為してくださっているのです。私共は、そのことを信じて良いのです。

3.神に出来ないことは何一つない
 さて、マリアが身ごもる男の子について、天使はこのように言います。マリアが「おめでとう」と言われた本当の理由はここにあるのですが、32〜33節「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」「いと高き方」とは神様のことですから、マリアが産む子は神様の子であるというのです。この時マリアは天使の語る言葉の意味がよく分かっていなかったと思います。マリアは「あなたは身ごもって男の子を産む」というところを聞いただけで気が動転してしまって、その子がどういう子であるかまで注意深く聞けなかったのかもしれません。この天使の言葉は、マリアが産む子が旧約において預言されていた、神の民が待ち望んでいた救い主、メシア、キリストであるということを示していたのです。救い主が生まれる。あなたはその母となる。だから「おめでとう」なのであり、だからマリアは「恵まれた方」なのです。神様の永遠の救いの御計画がここに成就する。そしてあなたは、その御業のために役割を与えられることになった。だから「おめでとう」なのです。世界中が喜ぶべきめでたいことなのです。しかしこの時、マリアはそのことを十分に受け止めることは出来ませんでした。だから、34節で「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えたのです。この時マリアは、「わたしがどうして救い主の母になどなれるでしょうか。」とは言っていないのです。自分の子として生まれる幼な子が、神の子・救い主であることを驚き、恐れていないのです。男の人を知らない自分が子供を産む。そんなことはあり得ない。心がそこにしか向いていないのです。
 自分が男の子を産むということを受け入れようとしないマリアに対して、天使ガブリエルは説得をします。神様は、マリヤが受け入れようと受け入れまいと、事を起こすことは出来たでしょう。しかし、神様のなさりようは、そうではないのです。神様は説得し、納得させ、事を起こされるのです。しかし神様の説得というものは、「あなたが受け入れられないのなら、仕方がないですね。」とか、「あなたが受け入れられるように、このように少し変えましょう。」というようなものではありません。神様は、その救いの御計画を変更されるような方ではないのです。受け入れられないマリアを変えるのです。36節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」とあります。マリアの親類であったエリサベト。彼女はもう高齢になっていましたが、子を宿し、すでに六か月になっていたのです。高齢というのですから、60歳以上だったと思います。この話はマリアも知っていたし、不思議なこともあるものだと思っていたと思います。神様は、マリアが天使の告げたことを信じ受け入れるための根拠、目に見える証拠を用意されていたのです。それが、高齢になったエリサベトの懐妊でした。洗礼者ヨハネは、主イエスの前に道を備える人として遣わされましたが、その母エリサベトもまた、主イエスの母マリアのために道を備える役割を与えられていたということなのです。
 天使はエリサベトの話を出し、そして37節「神にできないことは何一つない。」と告げたのです。この言葉は、先程お読みしました創世記18章にも出て来ます。アブラハムが99歳、サラが89歳の時、「来年の今ごろ、サラに男の子が生まれる。」と天使が告げたのですが、二人ともそれを信じることが出来ない。サラは、そんなバカなことがあるものかとひそかに笑ってしまうのです。その時に天使がアブラハムに言った言葉、「主に不可能なことがあろうか。」と同じ言葉が、ここでマリアに告げられたのです。100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクが生まれた。そして、アブラハムの祝福が受け継がれた。神様は約束を守り、その御業を遂行するためには何でも為さることが出来るし、また為さるのです。「神にできないことは何一つない。」これは、クリスマスを迎えようとしているこの時、私共に与えられた神の言葉です。
 私共は自分の力や能力を思うと、あれも出来ない、これも出来ないと考えてしまいます。確かに、私共が出来ることは本当にわずかなことでしかありません。しかし、神様が為さることに用いられるのならば、私共は何でも出来るのです。そもそも、神様の御心の成就、神様の救いの御業の前進ということは、私共の力や能力の外にあることなのです。神様が為さることだからです。それを自分の小さな器に合わせて、出来るとか、出来ないとか言うべきことではないのです。神様が為されるのです。私共はただその御業の道具、器とされるだけなのですから。

4.マリアの信仰
 マリアは、この神様の言葉に対して、38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。マリアは遂に説得されたのです。全能の神様が事を為される。このことを受け入れたのです。
 マリアはここで、自分のことを「主のはしため」、主の女奴隷と言います。この時、天地を造られた神様の御前に立ったマリアは、自分がどんなに小さな、取るに足らない者であるかということを知ったのであります。そして、自分の力や能力や常識を超えて神様が事を起こされるという信仰に立つことが出来たのです。これが聖書の信仰です。この神様に対しての信仰、信頼は、自分が大きくなっている限り与えられません。自分が人生の主人であり、自分の人生は自分の努力と力で造り上げていくものだとしか考えられない人には、受け入れることが出来ないのです。クリスマスを迎えるこの時期、私共が改めて心に刻むべきことは、このことです。私は小さい。しかし神様は大きい。私は弱い。しかし神様は強い。私は愚かだ。しかし神様は賢い。私は何も出来ない。しかし神様に出来ないことは何一つないのです。天地を造られた全能の神様が、主イエス・キリストをまだ知らない一人一人に自らを現し、救いへと招き、導き、事を起こしてくださるのです。私共は、このことを信じるのです。
 マリアはこの時、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と天使に答えました。ここで大切なのは、マリアが「この身に成りますように」と答えたことです。「この身に」です。神様の救いの御業は、この私を用いて為されていくのです。私共は、神様の救いの御業の傍観者として立っているわけにはいかないのです。神様の御業は我が身の上に起き、前進していくのです。もちろん私共は、この時のマリアのように、肉体を持った主イエスを我が身に宿すわけではありません。それは、ただマリアにだけ与えられた特権であり、試練であります。しかし、主イエスは聖霊として私共の身に宿り、救いの御業に私共を用い、その業を前進させていかれるのです。ですから、私共はマリアと同じように、「主よ、私はあなたの僕です。どうかこの身をあなたの御業の器として、道具として用いてください。」と祈ることが出来るし、そのように祈ることを求められているのです。私共は皆、小さなマリアとして召されているのです。
 マリアが始め、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言ったように、神様の御業というものは、私共の理解、計算の外にあります。簡単に受け入れることが出来ることではありません。クリスマスの出来事は、証明しようがない神様の御業でしょう。また私共の内には、「神様の御業には自分以外の人を用いて欲しい」という思いもあるかもしれません。そんなことになったら大変だし、しんどいからです。しかし、マリアが「おめでとう、恵まれた方。」と言われたのは、主イエスを我が身に宿す者となったからです。婚約中のマリアには大変なことになりました。しかし、マリアはその重荷に押しつぶされたでしょうか。そうはなりませんでした。「恵まれた方」となったのです。主の御業に用いられる時、私共は自分が大変だ、しんどいと思うかもしれませんが、神様はそれ以上の恵みと祝福を与えられるのです。そのことを私共は信じて、安んじて我が身を神様に差し出していきたいと思う。天使は、マリアに「おめでとう、恵まれた方。」と言って、さらに「主があなたと共におられる。」と告げたのです。主が共におられるが故に、大変だ、しんどいなと思うことであっても、私共は支えられるし、守られるのです。だから、「おめでとう、恵まれた方」なのです。
 主イエスの誕生において、マリアが処女であったのにどうして男の子を産んだのか、このことがなかなか信じられないという人が時々おられます。しかし、クリスマスの出来事において決定的に信じ難い大きなことは、処女マリアが男の子を産んだということではなくて、天地を造られた神の独り子が人間の赤ちゃんとして生まれたということであり、ただの少女に過ぎない娘が神の子の母とされたということなのでありましょう。このことに比べるならば、このことさえ信じられるならば、処女マリアが男の子を産んだということなど、どうということはない。全能の神様に出来ないはずがないのですから。
 ですから、私共は我が身に主イエス・キリストが聖霊として宿り給うという驚くべき事実に目を向け、このことを畏れをもって受け入れるとき、私を用い給う神様に出来ないことは何一つないということも、はっきりと信じることが出来るでしょう。神様はマリアを用いて救い主を誕生させ、全人類を救いへと招かれたように、神様は私共を用いて、この富山に生きる一人一人を主イエスの救いへと招いてくださっているのです。この神様の御計画を知っている者はまだわずかな、先に救いに与った者たちだけです。私共はこの神様の救いの御計画を知らされた、わずかな者たちなのです。このことを先に知らされた者として、このクリスマスの時、主イエスによる救いの訪れを、「あなたのために主イエス・キリストはお生まれになった。」ということを、一人でも多くの人に伝えてまいりましょう。

[2010年12月12日]

メッセージ へもどる。