富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の子、神の相続人」
創世記 21章1〜8節
ガラテヤの信徒への手紙 3章23節〜4章7節

小堀 康彦牧師

1.アドベント
 今日からアドベントに入ります。救い主の誕生を待ち望んだ神の民のように、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望む私共の信仰を明確にする日々です。私共はすでに救われました。しかし、まだその救いは完成していません。それ故、私共はなおも罪を犯してしまうのです。完全にキリストに似た者とはされていないからです。しかし、主イエスが再び来られる時、永遠の命・復活の命に与り、私共は完全にキリストに似た者とされます。私共はその日を心より待ち望むのです。「マラナ・タ」、主よ来たり給えと祈りつつ、心より待ち望むのです。「マラナ・タ」、この祈りを為しつつ歩む日々、それがアドベントであります。
 私共は、主イエス・キリストの到来によって新しい時代に生きています。ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって救われ、神の子とされるという恵みの時代です。この恵みを喜びと感謝をもって受け取っているが故に、私共はこの救いの恵みが完成されることを待ち望むのです。こう言っても良いでしょう。アドベントの日々、私共は二千年前に来られた主イエス・キリストを思い起こして、この方によって与えられた救いを感謝し、今生きて働き給う主イエス・キリストと共に生かされていることを喜び、やがて来られる主イエス・キリストを待ち望むのです。主イエス・キリストは、昔も今も後も、永久に変わることなく私共を愛し、私共を救いへと導いてくださるお方なのです。

2.律法の役割
 主イエスが来られるまで、神の民は信仰によってのみ救われるということを知りませんでした。律法を守ることによって救いに至ると思っていました。これは、律法あるいは戒律と言っても良いでしょうが、その内容は違っていても、多くの宗教に共通した考え方であります。いわゆる善い行いを積んで救われるという理解です。「しかし今や」、主イエス・キリストが来られ、すべてが変わったのです。ただ信仰によって救われる。この福音が私共に与えられたのです。
 では律法はどうなるのか。パウロはここで養育係というたとえを語ります。養育係というのは、当時の裕福な家にいた子供を教育する人です。これは現代のベビーシッターのようなものではありません。子供が道草をくわず、また事故に遭わないように学校に連れて行く役目を負う、言うなれば監視役です。この養育係としての律法は、私共をイエス・キリストに連れて行く、そこまでの役目だったと言うのです。しかも、養育係は子供が成人するまでの役目であって、子供が成人すればその役目は終わります。それと同じように、律法による監視は必要なくなったと言うのです。

3.キリスト者とは如何なる者か
 それならば、主イエスが来られて事態はどうなったのか。26〜29節を見ましょう。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」とあります。ここは、ガラテヤの信徒への手紙の頂点を成していると言われるところです。主イエス・キリストの救いに与った者、即ちキリスト者とは一体いかなる者であるのか、いかなる恵みに与っているのか、そのことが記されています。今朝、私共は一体何者であるのか、そのことをこの御言葉から学びたいと思います。

3−1.主イエス・キリストに結ばれた者
 第一に、キリスト者とは「主イエス・キリストに結ばれた者」なのです。私共は主イエス・キリストを信じる者とされました。それは、私が心の中で主イエスを信じている、そういう気持ちでいる、そんなことではないのです。主イエスを信じるということは、主イエス・キリストと結ばれ、一つとされるということなのです。これはなかなか分かりにくいことかもしれません。現代人は信仰というものを、「私が信じている」、そんな風に考えているところがあるからです。確かに、信じているのは私です。しかし、二千年前の主イエスの十字架が私の罪の故であった、私の裁きの身代わりであったと、どうして信じることが出来るでしょう。天地を造られた神様が飼い葉桶に眠る幼子に現れたと、どうして信じることが出来るでしょう。十字架にお架かりになった主イエスが三日目に復活したと、どうして信じられるのでしょう。しかも、この復活によって自分もやがて復活すると、どうして信じられるでしょう。どれもこれも、とても信じることなど出来るはずがないことばかりではないでしょうか。しかし、この信じることが出来るはずもないことを、私共は信じる者とされている。このことは、この信仰というものが私の中から生まれたのではない、与えられたものだということをはっきり示しているのです。私共の中に、この様な信仰の根拠となるものは何一つ無いからです。主イエス・キリストに対する信仰は、私共の外から、私共の中にやって来たのです。
 こう言っても良いでしょう。キリスト御自身が私共の中にやって来て、私共の中に住んでくださった。それによって私共に信仰が与えられたのです。信仰は、私のものではありません。私が勝手に処理できる事柄ではないのです。私が信じたのだから、私が信じることを今日からやめる、そんな風に自分で勝手に信じたり、信じなかったりすることが出来るようなものではないのです。主イエスを信じるということは、主イエスが私の中に来てくださって与えられたものなのです。だから、私共は信仰によって主イエス・キリストと結ばれるのです。主イエスを信じるということは、主イエスが私共の中に宿り給うという、驚くべき神様の救いの御業そのものなのです。だから、私共は主イエスを信じた時から、主イエス・キリストと一つに結ばれているのです。信仰によって救われるとは、この信仰によってキリストと一つにされているということに他ならないのです。

3−2.神の子
 第二に、「キリスト・イエスに結ばれた私共は、神の子」なのです。神の独り子、イエス・キリストと一つにされたのですから、私共はもはや神の子なのです。これはまことに驚くべきことでありますが、これが私共に与えられている恵みなのです。私共が神の子とされているということの証拠があります。4章6節を見ますと、「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」とあります。私共は、天地を造られた神様に対して、「父よ」と言って祈ることが許されています。信仰が与えられる前も自分は祈っていたと言う人もいるでしょう。確かに、私共は主イエスを信じる前から「家内安全、商売繁盛」の祈りはしていたでしょう。しかし、それは誰に対して祈っているのかも知らない、自分の願いを口にしていただけのものだったのではないでしょうか。少なくとも、天地を造られた神様に対して、「父よ」と呼ぶことは出来なかったはずです。「しかし今や」、私共は天地を造られた方に対して「父よ」と呼び奉り、祈ることが出来る。それは、私共の中に神の独り子イエス・キリストの霊、聖霊が宿り給うが故に、私共は神様に対して「父よ」と呼び奉ることが出来るのです。どんなに親しい子でも、教会学校の子どもたちも、私に向かって「おとうさん」とは呼びません。私をおとうさんと呼ぶのは我が子しかいないのです。神様は、私共を「我が子よ」と呼んでくださり、私共は神様に対して「父よ」と呼ぶ。それは、私共の中にまことの神の御子であられるイエス・キリスト御自身が、聖霊として宿ってくださったからなのです。皆さんの中で、自分に本当に信仰が与えられているかどうか分からない、自分が神の子とされていることが分からない、そういう方がおられたなら、一言、「父なる神様」とつぶやいてみてくだされば良いと思う。もし、その時、何の違和感もないのなら、あなたにはすでにキリストが宿り、信仰が与えられており、神の子とされているのです。
 自分が天地を造られた神様の子というとんでもない身分を与えられているということの恵みを、私共はまだ十分にわきまえていないのではないかと思います。自分の欠け、自分の小ささ、自分の罪にばかり目が向いて、すでに神の子とされている驚くばかりの恵みに与っていることを忘れてはいないでしょうか。確かに、私共は日々の歩みにおいて、罪の故の嘆きや心が痛む出来事に出会います。しかし、いかなる嘆きも心の痛みも、私共から神の子という身分を取り上げることは出来はしないのです。

3−3.キリストを着た者
 第三に、「洗礼を受けた私共は皆、キリストを着ている」のです。キリストを着る。この表現をパウロは他の所でも使っていますが、このイメージは民族衣装のようなものを考えていただければ良いのではないかと思います。それぞれの国や民族には、独特の民族衣装というものがあります。それを着ていればどこの国の人だか分かる、どこの民族か分かる、そういう衣装です。そしてこの衣装は、その国や民族の習慣や立ち振る舞いと結びついています。例えば、日本の着物を着れば、女性は座るときにはどうしたって正座をしなければなりません。韓国のドラマのチマ・チョゴリを着た女性が立て膝をして座るようには座れません。その民族衣装は、その民族の立ち振る舞いと結びついているわけです。このキリストを着ているというのも、この二つの意味があると思います。一つは、神様の御前に立って「キリストのもの」であることが分かる。二つ目は、キリスト者らしい立ち振る舞いをするということです。
 私共は洗礼を受けることによってキリストを着たのです。それはキリストのものとされ、天国の国籍を持つ者とされているということです。私共は自らの罪にも関わらず、キリストを着て、キリストのものと見なしていただいているのです。このキリストを着ている、キリストのものとされているということは、人間の目には分からないかもしれません。しかし、神様から見れば明らかなのです。
 そして、キリスト者とされた私共は、キリストを着た者として相応しい新しい生き方・歩み方を促されるのです。だから、28節「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と続くのです。ここには、当時のキリスト教会の中にあった、代表的な三つの差別について記してあります。ユダヤ人かギリシャ人か、奴隷か自由人か、男か女か。これは、教会の中だけではなくて、当時の社会の中に一般的に見られたものです。しかし、洗礼を受けて同じキリストを着た以上、神様の救いにとってそれらの差は何の意味もない、そうパウロは告げたのです。これは当時の社会、また教会にあって、実に驚くべきものでありました。ユダヤ人にとって、自分は神様に選ばれた神の民である、救いに与る者である、ギリシャ人のような汚れた者ではない、そういう自尊心がありました。それは差別意識と言っても良いでしょう。しかしこれは、ギリシャ人の側にもあったのです。ユダヤ人はギリシャ人のように高い文明を持った民ではない、野蛮人だ。そう思っていた。しかしパウロは、共にキリストを着た以上、そのような差は何の意味もなくなったと言うのです。奴隷か自由人か、男か女かも同じです。確かに、社会的な立場の違いはあるでしょう。しかし、救いに与る上では何の差もそこにはないのです。神の御前にあっては、キリストを着た者という、共に救いに与り一つにされたという事実があるだけです。こう言っても良い。キリストの救いに与った者としての共同体であるキリストの教会の中には、そのような社会的な立場の違いを持ち込むことは許されないということです。これは、キリストの体であるキリストの教会の大原則となったと言っても良いと思います。

3−4.相続人
 第四に、「キリスト者は神様の良きものすべての相続人である」ということです。3章からパウロは、律法ではなくて信仰によって義とされる者こそがアブラハムの子孫であることを語ってきました。アブラハムの子孫であるということは、アブラハムに約束された神様の祝福の相続人ということになります。
 アブラハムには二人の子がおりました。女奴隷のハガルとの間に生まれたイシュマエルと、妻サラとの間に生まれたイサクです。イシュマエルは、アブラハムも自分も年をとったのでもう子供は生まれないと判断したサラが、自分の女奴隷のハガルによってアブラハムの子を得ようとして生まれた子です。一方イサクは、アブラハムが100歳、サラ90歳の時に、与えられるはずがないと思っていたのに、神様によって与えられた子です。アブラハムの祝福は、イシュマエルではなくてイサクによって受け継がれました。そのイサクにも二人の子、兄のエサウと弟のヤコブがおりましたが、祝福を受け継いだのはヤコブでした。イスラエルの民は、血統から言えばアブラハム・イサク・そしてその子ヤコブから生まれました。アブラハムの血統の子がすべて、アブラハムの祝福を受け継いだのではないのです。そこには神様の御計画、御心というものが働いておりました。パウロは、実に主イエスが来られたことによって、アブラハムの祝福を受け継ぐ約束の子は、血統によるのではなく、信仰による子であると告げたのです。
 アブラハムの祝福。それは地上のすべての民がアブラハムによって祝福を受けるというものでした。しかし、この祝福の内容がどんなものであるのか、まだ旧約においては明らかにされてはいなかったと言うべきでしょう。主イエスが来られ、その祝福の中身が明らかにされました。それは、神の子とされることであり、罪の赦しであり、体のよみがえりであり、永遠の命であります。もっと言えば、父の持つ良きものすべてを相続するということです。子が父のすべてを受け継ぐのは当たり前のことです。私共は、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって、神様の良きものすべて、全き赦し・全き愛・全き平安・全き喜び・永遠の命等々を受け継ぐ者とされたのです。このような大きな恵みが、どうやってこの小さな身に満たされるのでしょうか。想像することさえ出来ないほどです。しかしこれが、主イエス・キリストに完全に似た者とされるということなのです。何とありがたいことでありましょう。

4.キリストの恵みを伝える
 しかし、世界はまだこのことをよく知らないのです。ですから、主イエスが来られたというとてつもなく大きなクリスマスの恵みを、サンタクロースのプレゼントという、まことにちっぽけなものにしてしまっているのです。私共は、このクリスマスの恵みに与っている者として、これを知らない人々に伝えていく務めを与えられているのです。アブラハムの祝福は、すべての民が与るべきものだからです。私共は、ただ信仰によりキリストと一つにされ、神の子とされ、キリストを着させていただき、神様の良きものを受け継ぐ者としていただきました。この救いの恵みは、私共だけのものとして、自分の中に留めておくべきものではないのです。すべての民はここに招かれているからです。アドベントのこの時期、主イエスが来られて私共に与えて下さった恵みを、一人でも多くの方々に伝えてまいりましょう。それが、主イエスが再び来たり給うを待ち望む私共の、第一に為すべきクリスマスへの備えなのです。

[2010年11月28日]

メッセージ へもどる。