富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様の永遠の約束」
創世記 17章1〜8節
ガラテヤの信徒への手紙 3章15〜22節

小堀 康彦牧師

1.神様は真実な方
 神様は真実な方です。神様は嘘をつかれませんし、神様は約束を反故にはなさいません。神様は一度為された約束をお忘れにはならない。たとえ私共が忘れても、神様は忘れません。神様はそのように真実な方ですから、私共は、安心して神様の約束を信じ、自分の全生涯をこの神様の約束により頼んで歩んでいくことが出来るのですし、そうして良いのです。
 もし神様が真実な方でなかったとしたらどうでしょう。一度約束されたことを反故にしたり、人間のように、昔言ったことだから忘れたとか気が変わったということならば、私共は神様を信頼することは出来ませんし、私共の救いの希望も根拠のないものになってしまうでしょう。私共の信仰は成り立たないことになってしまいます。私共の信仰は、この神様の真実を前提として、神様の約束、神様の言葉を信頼するところに成立しているのです。神様を信じ、信頼するということは、実に神様の約束、神様の言葉を信じるということによって成り立っています。神様の御人格と神様の言葉とは結び付いているからです。神様の言葉は信じられないけれど、神様は信じる。これは私共の信仰においてはあり得ないことなのです。私共は、聖書に記された神様の言葉を信じ、それを語られた父・子・聖霊なる神様を信頼するのです。聖書の信仰は、私共が信じる神様の真実に根拠があるのであって、私共の熱心や私共の真実に根拠があるのではないのです。
 先日、おもしろいニュースがありました。2月の節分に巻寿司を丸かぶりするという風習がありますが、これを当て込んで大手スーパーが「十二単の招福巻」という名前で巻寿司を売り出した。すると大阪の鮨屋さんが、それは自分の所で使っている名前だと言って訴訟を起こしたのです。判決は、大手スーパーに51万円の損害賠償を命じるものでした。おもしろいのは、この風習の事実認定をしているところです。「これは遅くとも昭和7年頃には大阪の一部で行われるようになった。当時大阪の鮨組合が宣伝し、昭和52年頃大阪の海苔問屋組合が宣伝し、また同じ頃関西厚焼工業組合も宣伝活動を行い、昭和62年頃にはスーパーも宣伝を行って広まった」というのです。この風習の根拠は分かりません。しかし、鮨組合、海苔問屋組合、厚焼組合、そしてスーパーが宣伝して広まったのは間違いないようです。私がこれをおもしろいと思ったのは、ここには「これをすれば幸いになる、幸運に恵まれるという習慣」の、その根拠はどうでも良いのだということがはっきり示されているからなのです。こんな習慣は山ほどあります。大晦日の年越し蕎麦もそうでしょうし、土用のウナギもそうでしょう。バレンタインデーのチョコレートも同じようなものでしょう。このような習慣をすべて無意味だと言って、目くじらを立てるつもりはありません。しかし、そのようなものと私共の信仰は全く違うのです。「目刺しの頭も信心から」と言って、信じればどれも同じだということではないのです。確かに、私共の「信じる気持ち」が大切なのだというところに焦点を当てれば、目刺しの頭も私共の信仰も大した違いはないということになるのかもしれません。しかし、大切なのは私共の信じる気持ちではなくて、私共が信じるお方が、私共の人生の全てを賭けることの出来るお方であるかどうか、そこが重要なのです。目刺しの頭に自分の人生を賭けることは出来ないでしょう。しかし私共の神様は、私共の人生の全てを賭けることが出来る、天地を造られた全能のお方であり、私共の父として愛の御手をもってすべてを支配し導いてくださり、永遠の命を与えてくださるお方なのです。

2.遺言
 さて、今朝与えられている御言葉において、パウロは「分かりやすく説明しましょう。」(15節)と言って語り始めます。信仰によって救われるのであって、律法によって救われるのではない。このことをパウロは「遺言」という、一般社会での話を例に取り上げて説明するのです。論旨は明確です。遺言は、遺言を残した人が死んでしまって確定してしまえば、それを取り消したり、その内容を変更することは出来ません。それと同じように、神様の約束も、一度為されたのならばその内容を変更することは出来ないということです。神様はアブラハムと約束された。アブラハムによってすべての氏族が祝福を受けると約束された。そして、アブラハムは信仰によって義とされた。この信仰によって義とされるという祝福は、異邦人にも与えられるものである。この神様の約束の内容は変えようがない。律法が与えられたのは、アブラハムより430年も後のこと。従って、後から与えられた律法がアブラハムの約束を反故にすることは出来ない。律法を守らなければ救われないという救いの筋道は成り立たない。そう告げているのです。
 ここでパウロが「遺言」というものを持ち出した理由ですが、この言葉はヘブル語で書かれた旧約聖書をギリシャ語に訳す時、ヘブル語の「契約」に対して用いられたギリシャ語なのです。ですから、この言葉はギリシャ語では契約という意味もあり、ここで「契約」と訳しても良いのです。しかし、何より大切なことは、通常「契約」というのは双方の当事者が合意しお互いに義務を負うものですが、「遺言」とはそういうものではないということです。遺言が残された時、その財産を受け取る人が事前に合意をして遺言書にサインをすることはありません。財産を残す人が一方的に、この人にこれこれの財産を与えると決めるわけです。このあり方が、ただ一方的な神様の恵みによって救われる、信仰によって救われるという福音、アブラハムと神様との間に為された契約と同じであるから、遺言の例が引かれたのでしょう。律法を守るから救われるというのは、この遺言のあり方とは違うのです。通常の、双方に義務を負わせる契約のあり方です。それはアブラハムの契約のあり方ではない、とパウロは言っているのです。
 主イエス・キリストの十字架の御業による契約は、実に一方的です。神様の約束は、アブラハム以来少しも変わっていないのです。アブラハムの時は信仰によって救われたが、430年後モーセの律法が与えられて律法を守らないと救われないに変わり、そしてまたイエス・キリストによって信仰により救われるという風に変わった。そんなことではないのです。神様は真実な方であって、一度約束されたことは、反古にしたり変えたりはなさらない。神様は首尾一貫しているのです。ただ信仰によって救うという一方的な恵みの契約を結び、それを実現するために遂に主イエス・キリストを与えてくださったということなのです。アブラハムに為された約束が、イエス・キリストによって完成されたということなのです。この神様の首尾一貫性は、モーセの律法によっても微動だにしていませんし、主イエス・キリスト以降も少しも変わりません。神様の約束は、永遠の約束だからです。
 私共は、家族の者の中に病気が続いたり、困ったことが立て続けに起きますと、自分は、自分の家は、神様の恵みから外れているのではないか、果ては呪われているのではないか。そんな風に思う人がいるかもしれません。だから「厄払い」という風習もあるのでしょう。しかし神様は、私共が主イエスを信じ、神の子・神の僕とされて以来、私共が天に召されるまで、いや天に召されて後も、私共を祝福し続けてくださるのです。私共が信仰を告白し、洗礼を受けて結ばれた契約は、実に永遠の契約だからです。私共の心の動き、信じる気持ちに動揺があったとしても、神様の御心にはいささかの揺らぎもないのです。神様は真実な方だからです。

3.律法
 では、モーセを通して与えられた律法はどうなるのか。神様は無意味なことをなされたのか。そうではない、とパウロは言います。19節「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの」だと言うのです。律法を完全に守って義とされ救われる道はある。しかし、実際にはそうはならない。何故なら、誰一人として律法を完全に守ることは出来ないからです。するとどうなるのか。律法によって人間は、自分が神様の御心を完全には行うことが出来ない者であるということが明らかにされるのです。そして、このことこそが律法が与えられた理由だとパウロは言うのです。
 律法を守ることによって救われると主張する人は、自分は律法を完全に守っているし、守ることが出来るのだということ前提にしているのだと思います。しかしパウロは、それは決して出来ないことだと考えているのです。この差はどこから来るのでしょうか。それは、律法に対しての理解の違いからです。ここで思い出すのは、マタイによる福音書5章以下にある山上の説教において、主イエスは「殺すな」という律法、これは十戒の第6の戒めですが、これについて、これは「兄弟に腹を立てること」「兄弟にばか者と言うこと」まで含んでいるのだと言われました。また、「姦淫するな」という律法、これは十戒の第7の戒めですが、これについては、「みだらな思いで他人の妻を見る者は、既にその女を犯したのである」と告げられました。主イエスは、律法を守るということは表面的な行いだけではなくて、心の底まで見通しておられる神様の御前において完全に守らなければならないことを示されたのです。このように律法を受け取るならば、完全に守っていると言い切れる人は一人もいないことになるでしょう。だから信仰によって救われる道が必要なのですし、これによってしか私共は神様の救いに与り、神の国に入るということは出来ないのです。
 また、金持ちの議員と会話した時(ルカによる福音書18章18節以下)も、主イエスはこのことを告げられたのです。ある議員が主イエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねます。この人は真面目な人であり、信仰的にも誠実な人だったのだと思います。だから、このような問いを主イエスの所に持ってきたのでしょう。しかし、この人は「良い行い、律法尊守によって救われる。永遠の命を受け継ぐことが出来る。」と考えておりました。この人は子供の頃から、十戒で言われていることはちゃんと守っている、そう思っていました。主イエスはこの人に「あなたに欠けているものがまだ一つある。」そう言われて、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と告げたのです。その人はこれを聞いて非常に悲しんだのです。主イエスはその人を見て、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。ラクダが針の穴を通ることは不可能ですから、金持ちは神の国には入れない。そう言われたのです。そしてこれを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか。」と言います。自分も全財産を貧しい人に施すなんて出来ない、そう思ったからでしょう。それに対して主イエスは「人間にはできないことも、神にはできる。」と言われたのです。人間には、律法を完全に守って神の国に入り永遠の命を得ることは出来ない。それはラクダが針の穴を通るよりも難しい。しかし、神様は信仰によって救われるという道を拓いてくださり、律法を守ることによっては神の国に入ることが出来ない者も救ってくださるのだ。人間が良き業を積み上げることによっては決して開くことの出来ない天国の門を、神様は開くことが出来る。信仰によって救われる道を神様は与えてくださった。そう主イエスは言われたのであります。
 パウロがここで告げているのも同じことです。律法は、自分の力では神の国に入ることは出来ないということを示すために神様が与えられたもので、それは主イエス・キリストへの信仰によって救われるという道への備えとなるためであったというのです。律法は、律法によって救われるために与えられたのではなくて、律法を守るという人間の業によっては人間は一人も救われない、神様の救いに与れない、そのことを示すために与えられたものだとパウロは告げているのです。

4.永遠の契約
 このパウロの論理は全く驚くべきものでありますが、これはパウロが主イエスによって救われたという恵みの出来事、ダマスコ途上での主イエスとの出会い、そして主イエスによって明らかにされた主イエスの十字架と復活の意味、そこから考えれば、こう考えるしかないということなのです。パウロは面倒な理屈をここで語っているのではないのです。主イエスによって救われた私は、自分が救われたこの「信仰によってのみ救われる」という所にしか立てないし、そこにしか救いはない。そう言っているのです。そしてこの理解は、今見ましたように、主イエス・キリスト御自身の律法理解、救いの理解と一致しています。
 だから、このパウロが書いたガラテヤの信徒への手紙は聖書、神の言葉なのです。この主イエスの福音という、まことに深い知恵をパウロに与えたのは、聖霊なる神様であります。神様は、パウロの口を通して御心を示してくださったのです。その御心とは、アブラハム以来少しも変わることなく、ただ信仰によって罪人である私共、異邦人である私共をも救おうとされるものでありました。この神様の御心は、アブラハムから主イエスの時代まで少しも変わらなかったように、主イエスから私共までの2000年の間も変わらず、そしてこれから主イエス・キリストが来られる時に至るまで決して変わることはないのです。神様は真実な方だからです。洗礼・信仰告白において私共が神様と結んだ契約は、まさに永遠の契約なのです。天地創造から終末に至るまで、私共を愛し、私共を救い、永遠の命に与らせようとされる、神様の変わることのない御心。その変わることなき真実な方と、私共は約束したのです。この約束が反故にされることは、天地がひっくり返ってもあり得ません。神様の真実は、1+1=2であることよりも確かなことだからです。
 この真実な方の御手の中で、この一週も歩んでいく私共です。私共に約束されている天の御国を目指して、それぞれ遣わされている場で、神の民として為すべき務めに励んでまいりましょう。

[2010年11月14日]

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