富山鹿島町教会

礼拝説教

「我らが祝福を受けるために」
ハバクク書 2章1〜4節
ガラテヤの信徒への手紙 3章7〜14節

小堀 康彦牧師

1.アブラハムの子孫
 今朝与えられました聖書の御言葉は、私共がアブラハムの子孫であると告げております。これはまことに重大なことです。アブラハムは、神様に召し出され、神様と契約を結び、神様と共に歩むこととなった最初の人であり、それ故、信仰の父と呼ばれる人です。このアブラハムから神の民の歴史は始まります。アブラハム、その子イサク、さらにその子ヤコブと続き、ヤコブの12人の息子たちからイスラエルの十二部族が生まれました。ヤコブは、神様からイスラエルという名前を与えられた人です。アブラハムの子孫とは、実にイスラエルという具体的な民族を指す。これがイスラエル人の常識でした。これは疑う余地のない程に明白なことでした。旧約聖書を読めば、そこにあるのはイスラエル民族の歴史そのものです。神様がアブラハムを選び、祝福を与えられた。その祝福を受け継ぐのがイスラエル民族である。これは当時のユダヤ人の、神様の救いの大前提であって、論ずるまでもないことでした。しかし、パウロはこの大前提をひっくり返したのです。いや、パウロがひっくり返したわけではありません。主イエス・キリストの十字架と復活の御業が、これをひっくり返したのです。

2.神様によるアブラハムとの約束の成就
 アブラハムの出発点は創世記12章の神様の召命です。その時アブラハムは神様からこのように告げられました。12章1〜3節に「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』…」とあります。この神様の召し出し、神様との約束に従って、アブラハムは旅に出たのです。アブラハム75才の時のことでした。
 この神様の約束の言葉において、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」と神様は言われています。確かに、神様は「わたしはあなたを大いなる国民にする」とも言われました。こちらの約束は、アブラハム、イサク、ヤコブと続く、肉による子孫のことでしょう。この約束は成就され、確かにイスラエルという民族が生まれたのです。しかし、この肉による子孫、民族としてのイスラエルだけがアブラハムの祝福を受け継ぐとは告げられていないのです。「地上の氏族のすべてがアブラハムによって祝福に入る」と、約束されたのです。この約束はどうなったのでしょうか。もし、イスラエル民族だけが神の民でありアブラハムの祝福を受け継ぐとしたら、イスラエル民族以外の民は神様の祝福を受けられない、神様と共に歩む者とされることはなく、神様の救いに与ることは出来ない、ということになってしまいます。実際、イエス様が十字架にお架かりになった頃、ユダヤ人は皆そう思っていたのです。しかし、主イエスが来られ、この大前提がひっくり返ったのです。肉による子孫がアブラハムの子孫なのではなく、アブラハムの信仰を受け継いだ者こそアブラハムの子孫なのだ。このことによって、神様がアブラハムに約束されたことが成就したのです。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」との約束、パウロはここで論旨を明確にするために「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」(8節)と記しております。そして、この神様のアブラハムへの最初の約束が成就したのです。信仰によって生きる人はアブラハムの子であり、アブラハムと共に祝福されるのだと告げるのです。ここに、新しいイスラエルとしての、キリストの教会の位置が宣言されているのです。

3.私共の先祖アブラハム
 私共は皆、異邦人でありました。しかし今や、主イエス・キリストを我が主、我が神と信じる信仰によって、アブラハムの子孫、神の民、新しいイスラエルの一員とされたのです。神様の祝福、神様の救いの御業にお仕えする民として立てられたのです。このことを、ヨハネによる福音書は1章12〜13節でこう告げています。「言(ことば=キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」私共は、信仰によってアブラハムの子孫となり、新しいイスラエルとされた。神の子とされ、神様によって生まれたのです。何という光栄でありましょう。
 私は、正直に申しますと、長い間、アブラハムの子孫であるということがあまりピンときていなかったのです。イエス様を信じた。洗礼を受けた。教会員となった。毎週礼拝を守った。神様に父よと呼びかけ、祈ることが出来るようになった。本当に新しい人間とされました。本当に嬉しかった。しかし、アブラハムの子孫とされているということが、よく分からなかったのです。アブラハムのことは、遠い異国のずっとずっと昔の人、というくらいにしか受けとめることが出来なかったのです。私の実家は、栃木県の矢板という所に13代前からある農家でした。父は分家して薬局を営んでいましたが、幼い時から、13代前からあると言って、家系図を見せられました。父とすれば、だから誇りを持って、恥ずかしい生き方をしてはいけないということを言おうとしたのでしょう。そんな自分の血筋による先祖への思いというものが、アブラハムの子孫とされたということの光栄をよく分からなくしていたのかもしれません。
 私共にはそれぞれ父母がおり、ご先祖様がいる。それは、私共が地上の命を与えられるために神様が備えてくださった大切なものであります。しかし、そのご先祖様の子孫であるということが、自分が今どのように生きるか、自分はどこに向かって生きているのか、あるいは自分の人生にどんな意味があるか、それを明らかにしてくれるわけではありません。しかし、私共の信仰の先祖がアブラハムであるということは、実に私共の人生の根本を決定付けることになるのです。アブラハムの子であるが故に、私共は神様の祝福を受け継ぐのであり、救いに与るのであり、神の国に入るのです。そして神様の救いの御業にお仕えする者として生きるものなのです。このような約束が私にも与えられているということを私共は信じるが故に、自分の人生の明確な筋道が与えられるのであります。
 アブラハムの生涯と私共の生涯が重ね合わせられるのです。神様がアブラハムと共に歩んでくださったように、自分とも共に歩んでくださっている。このことを信じることが出来るのです。アブラハムには子がいなかったけれども、高齢になったアブラハムに神様はイサクを与えられた。このイサクからヤコブがそしてイスラエルの民が与えられたように、私共の信仰の子孫もやがて天の星ほどに増し加えられていく。そのことを信じることが出来るのです。
 さらに言えば、アブラハムが私共の先祖となるということは、アブラハム以来の4000年に及ぶ神様の救いの歴史が、この私に向かってつながっているということを意味するのです。私共は歴史の中の一つの点として存在しているのではなくて、アブラハム以来の壮大な神様の救いの歴史の中に身を置いている。そしてその歴史は、終末に至るまで留まることなく続いていくのです。そのアブラハム以来の神の民の歴史の流れの中に、自分も身を置くことになるということなのです。自分の人生という小さな歴史が、神様の壮大な救いの歴史の中に位置を持つということなのです。小堀家からキリスト者になったのは私が初めてです。しかしこのことは、アブラハム以来の神様の御計画の中にあったことなのです。いや、天地創造以来の神様の救いの御計画と言うべきでしょう。

4.救いに与る全く別の道
 さて、私共がアブラハムの子とされたのは、ただ信仰によってです。律法の実行によるのではありません。律法によって救われようとする者は、律法のすべてを完全に実行しなければなりません。生まれてから死ぬまでの間、一点でも、一回でも、律法を破るならば有罪となるのです。律法とはそういうものです。しかし、この様な規準において、一体誰が救われると言うのかということなのです。誰も救われやしません。律法の実行に頼る者は、結局のところ神様の祝福、神様の救いに与ることは出来ないのです。それどころか、神様の呪い、神様の裁きを受けるしかないことになるのです。
 パウロはここでも、当時の大前提をひっくり返してしまいます。肉によるアブラハムの子孫だけが律法を実行することによって救われるというのが、ユダヤ人の救いの理解の大前提でした。しかし、主イエス・キリストの十字架は、律法の実行によって救われようとする道が破綻していることを証しし、律法の実行によって救われようとするのではない全く別の道が拓かれたと告げるのです。その全く別の道こそ、信仰によって救われる道です。信仰によってアブラハムの子孫とされた者は、信仰によって救われる道を与えられた者なのだと言うのです。
 何故、主イエス・キリストの十字架は律法の実行による救いの道の破綻を示し、信仰による救いの道を拓いたことになるのでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架が、神の呪い、神の裁きだからです。律法によって救われる道が破綻していないのであれば、主イエス・キリストが十字架にお架かりになる必要はなかったのです。皆が律法を完全に守り、神様の祝福、神様の救いに与れば良いのです。しかし、その道が破綻している。それでは誰も神様の祝福に与れない、救われない。だから、神の独り子が身代わりとなって、神様の呪いを、神様の裁きをお受けになったのです。神の子が神様によって呪われる、裁かれる。この痛ましい手続きによって、神様は、律法の実行によらず、信仰によってアブラハムの子となり、アブラハムの祝福、神様の救いに与る道を拓いてくださったのです。これは全く新しい道です。人間の常識を超えた、驚くべき出来事であります。しかし、ここにこそ人間の想像をはるかに超えた神様の愛、救いの御意志が現れたのです。それは、アブラハムを呼び、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」と告げられた、神様の愛、神様の救いの御意志でありました。
 神様は神様であられますから、神様の思い、神様の御計画、神様の御業というものは私共の想像をはるかに超えているのです。神様のなさることはいつもそうなのです。神様はきっとこうされると思っていた。そんなことはないのです。そして、この神様のもっとも偉大な業、それ故に人間が思いもつかなかった救いの御業。それが、神の独り子、主イエス・キリストの十字架だったのです。ここに、神の偉大な愛、神の偉大な知恵、神の真実、神の偉大な力が現れています。主イエスの十字架よりも偉大な出来事はありません。パウロは、この主イエスの十字架に現れた、神様の偉大な愛、偉大な知恵、偉大な真実、偉大な力に触れていたのです。だから、今さら自分が律法を守るという小さな業によって神様の偉大な業から離れようとするガラテヤの教会の人々を嘆き、怒り、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(3章1節)と言わざるを得なかったのです。

5.御子が呪われ、私が生きる
 パウロは告げます。13〜14節「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」アブラハムが選ばれたのは、主イエス・キリストの十字架の御業のためだったのです。私共が救われるために、アブラハムは選ばれたのです。そして、神の独り子が呪われ、私共が祝福されるのです。神の独り子が死に、私共が生きることになったのです。神の独り子が裁かれ、私共が救われたのです。私共はこの主イエスの十字架の御前に立ち、ただ主イエスを、父なる神を、ほめたたえるしかありません。
 私共は今から聖餐に与ります。新しい神の民とされたキリストの教会が、偉大な主イエス・キリストによる救いの御業を覚え、この御業の故に今の自分があることを心に刻むために守ってきたものです。新しい神の民、新しいイスラエルの、天の御国を目指しての食卓です。古いイスラエルが、約束の地を目指しての荒野の40年の旅において天からのマナによって養われたように、新しいイスラエルは、この聖餐の食卓に与りつつ天の御国を目指して歩み続けてきたのです。今、心を高く上げ、主イエス・キリストの十字架によって私共に与えられている救い、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を覚えるのです。
 神様に心から感謝して、この聖餐に共に与りたいと思います。

[2010年11月7日]

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