富山鹿島町教会

礼拝説教

「見よ、十字架のキリストを」
創世記 15章1〜6節
ガラテヤの信徒への手紙 3章1〜6節

小堀 康彦牧師

1.熱い思いと共に
 今朝与えられた御言葉の冒頭で、パウロは「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と記します。これはかなり軟らかく訳していますが、「馬鹿なガラテヤ人たち」という言葉です。ガラテヤの教会がパウロの伝道によって建った教会だとしても、これは言葉が過ぎるのではないでしょうか。このような言葉は、普通の手紙には決して使われることはないでしょう。手紙の中だけではなく、牧師と信徒の間でなされる会話の中で使われることも、まずないと思います。牧師が信徒の方に、「なんてあなたは馬鹿なのか。物分かりが悪いのか。」などと言ったらどうでしょう。二人の関係は、かなり深刻な仲違いの状態になってしまうかもしれません。パウロはそんなことも分からなかったのでしょうか。しかもパウロはここで、1節と3節とで繰り返しこの言葉を使っているのです。
 当時の手紙は口述筆記です。パウロが語り、それを代書の人が書くのです。そのことを考えると、この言葉は、パウロの内に燃え上がっている熱い思いがほとばしり出て、思わず不穏当な言葉が口から出てしまったということではないかと思うのです。「あなたたちは馬鹿か。」と思わず言ってしまう程の激しい思いが、パウロを突き動かしているのです。その激しい思いとは、何としてもガラテヤの教会の人々を福音から離れさせはしない、キリストの救いから断じて離れさせはしないという思いであります。このパウロの激しさ、何としてもこの人を救わねばとの思いを本人に面と向かってぶつけていくあり様を見て、私は牧師として反省させられるのです。自分は、その人との人間関係を良好に保つために、言うべきことも言わないでいるようなことがあるのではないか。それが本当の牧会者の姿なのか、そう反省させられるのです。もちろん、諭し、教え、導くためには言葉を選ばなければなりません。パウロもここで、ガラテヤの教会の人々をただ闇雲に馬鹿者呼ばわりしているのではないのです。問いを繰り返したり、救われた時のことを思い起こさせたりして、何とかキリストの福音に留まるようにと説得し、掻き口説いているのです。ここにあるのは愛です。ガラテヤの教会の人々へのパウロの愛です。このパウロの愛は、我が子イエス・キリストを十字架に架けてまで私共を救おうとされた神様の愛が飛び火して、パウロの中に宿ったものです。ですから、激しいのです。私共もこの愛を既に受けているのです。この愛による熱さこそ、牧師・伝道者の心でなければなるまいと思わされるのです。そしてそれは、牧師・伝道者だけの話ではないはずであります。私共が救われたのは、御子を十字架に架けてまで私共を救わんとする熱き神様の愛によってであり、その神の愛を伝えんとする熱きキリスト者と出会ったからに他なりません。福音の真理というものは、いつもこの熱き思いと共にあるのです。
 私共は、秋田より雲然先生を招いて、今週の土曜日に特別講演会、次の主の日には伝道礼拝を行います。この富山の地に住む一人でも多くの人に、主イエス・キリストの救いに与って欲しいからです。この業を支えるのはキリストへの愛であり、この地に住む人々への愛であります。チラシもポスターも葉書も作りました。一人でも多くの人を招き、お誘いしましょう。熱をもって、この業に仕えていきたいのです。

2.救われたときのことを思い起こせ
 さて、パウロがここで激しく戦っているのは、律法を行うことによって救われるという誤った福音理解に対してであります。パウロは、ガラテヤの教会の人々がそのような理解に傾いていったことを、「惑わされた」と言っています。「だれがあなたがたを惑わしたのか。」(1節)と語るのです。ここでパウロは、誰がガラテヤの人々を惑わしたのか分からないで言っているのではありません。そうではなくて、このようにあなたがたが惑わされてしまうということが信じられない、そう言っているのであります。何故なら、ガラテヤの教会の人々は主イエスを信じ主イエスの救いに与った時、イエス・キリストの姿、しかも十字架につけられた主イエス・キリストの姿をはっきりと示されたはずだからです。それなのに、どうして今になって主イエス・キリストの十字架があってもなくても良いような、律法を実行することによって救われるというような教えに引きずられていってしまうのか。それでは、あの主イエス・キリストの十字架の御姿を示されたことは何だったのか。もう一度あの主イエスを、十字架の主イエス・キリストをよく思い起こして欲しい、そう語るのです。パウロはここで、ガラテヤの教会の人々が救われたときのことを思い起こさせ、再び福音の真理に立ち返らせようとしているのです。
 この「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された。」(1節)というのは、絵に描いて目で見るように主イエスの十字架の姿を示されたということではありません。そうではなくて、主イエスの十字架の事実、そしてその意味がパウロの説教によって生き生きと示されたということです。この主イエスの十字架を語るパウロの説教によって回心し、主イエスを信じ、救いに与ったガラテヤの教会の人々なのです。パウロは、コリントの信徒への手紙一2章2節で「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と語っております。これはコリントでの伝道の時だけではなくて、パウロの伝道の基本姿勢でありました。ですから、当然ガラテヤの伝道においても事情は同じであったと思います。パウロは、主イエス・キリスト、しかも十字架につけられたイエス・キリストだけを語った。この方によって一切の罪が赦された、この方を信じる信仰によって人は誰でも救われる、そこには異邦人もユダヤ人も区別はない、そう語ってきたのです。その説教によって信仰を起こされ、救いに与ったのがガラテヤの教会の人々だったのです。なのに、どうして律法を守らなければ救われないなどという教えに惑わされるのか。パウロは悔しく、悲しく、腹立たしいのです。

3.律法を行ったからか、福音を聞いて信じたからか
 ここでパウロは、ガラテヤの教会の人々に自分たちが救われた時のことを思い起こさせ、立ち直らせようとしています。十字架の主イエス・キリストの説教を聞いて救われたことを思い起こさせているのもそうですし、2節では「あなたがたが”霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」と畳み掛けるのです。ガラテヤの教会の人々に自分たちが救われた時のことを思い起こさせ、その信仰の原点に立ち返らせようとしているのです。
 この「”霊”を受けた」というのは、もちろん聖霊を受けたということです。これは具体的な聖霊の賜物、ガラテヤの信徒への手紙5章22節にあります「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」を受けたという風にも理解できますが、もっと単純に、信仰を受けたと理解しても良いと思います。聖霊を受けたということは、信仰を与えられたということでしょう。ここでパウロは、ガラテヤの教会の人々が信仰を受けたのは律法を行ったからか、それとも福音を聞いて信じたからかと問うているのです。この答えは明らかでしょう。信仰は福音を聞いて信じて与えられたのです。律法を行って信仰を与えられたのでは断じてないのです。だったらどうして、聖霊によって始められた信仰、福音を聞いて信じることによって与えられた信仰を、自分の努力や自分の業という肉の業によって仕上げようとするのかと、パウロは言うのです。聖霊が始めたことを人間が完成するというのでは、人間の方が神様より優れているということになってしまうではないですか。また、聖霊は人間の協力が無ければ救うことが出来ないほどに力がないとでも言うのでしょうか。そんなことはあり得ないでしょう。聖霊なる神様が始められたことは、聖霊なる神様御自身が完成してくださるのです。つまり、福音を聞いて信じて始まった私共の信仰は、どこまでも福音を聞いて信じるということに尽きるということなのです。

4.なぜ、異なる教えに引きずられていくのか。
 しかし、どうしてガラテヤの教会の人々はパウロが伝えた福音、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという教えから、律法を守らなければ救われないという教えへと引きずられていったのでしょうか。現代日本に生きる私共は、律法を守らなければ救われないとは考えません。「律法」は遠く、日々の生活の中で馴染みがないからです。その意味で、この話は直接私共に関係しないように思われるかもしれません。しかし、この律法を守らなければと考えた人々の思い、それは私共と無関係とは言えないのではないかと思うのです。それは、同じ思いが私共の中にもあるからです。
 私共は、ただ信じるだけで救われるというのでは話がうますぎる、そう思っているところがあるのではないでしょうか。一切の罪を赦され永遠の命をいただくのに、ただ信じるだけで良いというのでは話がうますぎる。この救いに与るためには、それに見合うだけの努力なり、苦しみなり、良い行いを積み上げなければならないのではないか。そんな風にどこかで考えてしまうところがあるのではないでしょうか。それは、神様の恵みによって救われるということが私共にはなかなか分からないからです。自分の努力や良き業に対しての当然の報いとして救いを手に入れようとする考え方が、私共の心の奥底に深く根を張っているからなのだと思うのです。良いものを手に入れるためには、それに見合う代償を支払う。これがこの世の常識です。この世はすべてこの原理で動いています。ですから、この考え方が私共の骨の髄までしみ込んでいるのです。このようなこの世の原理から考えれば、「律法を守らなければ救われない」ということは当然のことであり、信仰なしに受け入れられるのです。しかし、「ただ信じる信仰によって救われる」という福音の教えは、信仰がなければ決して受け入れることが出来ない考え方であり、論理なのです。ですから、私共の信仰が福音を聞いて信じるというところにしっかりと立っていないと、つまり神様との生き生きした交わりの中に生きていないと、すぐにこの世の理屈に引きずられていってしまうということなのではないかと思うのです。
 私共の教会は、16世紀に起きた宗教改革の流れを汲んでいます。どうして宗教改革が起こったのか。それは、当時のカトリック教会の教えが、良い行いをしなければ救われないという方に大きく傾いていたからです。ただ信仰によって救われるという福音にしっかり立っていなかったからです。このただ信仰によって救われるという福音にしっかり立ち続けるということこそが、私共キリスト者に与えられている最も大切な課題なのです。

5.信じて義とされたアブラハム
 パウロは、ここで信仰によって義とされた例として、アブラハムを出すのです。先程、創世記15章を読みましたが、その6節「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」を引用するのです。
 アブラハムは、この人から「神様の選びによる召命によって生きる民、神の民」の歴史が始まったという人です。信仰の父と呼ばれる所以です。彼は、ただ神様の「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章1〜3節)との神様の召命、神様の約束の言葉に従って、75歳で神様と共に生きるという信仰者の歩みを歩み始めた人でした。それからさらに年月が過ぎましたが、アブラハムに子供は与えられておりませんでした。そのアブラハムに神様が臨み、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と告げたのです。しかし、アブラハムに子供はいません。アブラハムは、自分の子ではなくて家の僕の子が跡を継ぐことになっていると答えます。しかし、神様は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」と言われるのです。年老いたアブラハムにとってこの神様の言葉は、何を言っているのか分からない、意味不明と言っても良いような言葉であったと思います。ここで神様はアブラハムを外に連れ出し、満天の星を見上げさせ、そして言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」何がどうなったら自分の子孫が星の数ほどになるのか。一人の子さえ与えられていないのに。もう年をとってしまっているのに。アブラハムの側に、この神様の言葉を信じ納得出来る根拠は何一つありませんでした。しかし、アブラハムは信じたのです。神様の言葉だから信じたのです。この神様を信じるアブラハムの信仰を、神様は義とされた。アブラハムは、律法を守って神様に義とされたのではない。信じることが出来ないほどの大きな神様の恵みの御業、子孫が天の星の数ほどになるということを、ただ神様の言葉であるが故に信じたのです。これが聖書が告げる「信仰」です。自分の経験、自分の見通し、それらを横に置いて、ただ神様の語りかけを信じ、全て神様にお委ねするのです。そして、その信仰を神様が見て、アブラハムを義と認めたのです。アブラハム以来、神様が私共を義とされるのはこの信仰によってなのだ。律法を守ることによってではない。そうパウロは語るのです。

6.神様の語りかけを聴き続ける
 二千年前に主イエス・キリストが私のために、私に代わって十字架にお架かりになってくださった。このことによって私共の一切の罪は赦され、この方を信じる信仰によって、この方と私共が一つとされ、神の子・神の僕として永遠の命に与る者とされる。これはまことに信じ難いほどのうまい話です。ただただ神様の一方的な恵みとしか言いようがない事柄です。こんなうまい話がどこにあるかと言わざるを得ないほどのうまい話です。ありがたい話です。これが福音なのです。あまりにうまい話で、あまりにありがたい話で、とても信じられないほどの話です。
 このとても信じられないほどの神様の恵みの話を信じるのです。この福音を信じることが出来る。それは私共に聖霊なる神様が働いてくださるからであります。聖霊なる神様が、私共一人一人に神様の語りかけを聞かせてくださるからでありましょう。アブラハムが主を信じたのは、主がアブラハムに語りかけてくださったからです。私共もそうです。神様は主の日の度毎に、私共に十字架の主イエス・キリストの御姿を、説教という語りかけの中ではっきりと示してくださいます。そして、この語りかけを聞いた私共に、信仰が起こされるのです。信仰を与えられた私共は、ただこの十字架に架けられた主イエス・キリストを見上げつつ、神様の恵みと憐れみを信じ、主を誉め讃えるのでしょう。ですから、私共に為すべきことがあるとすれば、それは神様の語りかけをしっかり聞くということなのであります。神様の言葉を、神様の言葉として聞き続けるということです。神様の語りかけを聞いて、信じるということです。その時、私共の前には、十字架の主イエス・キリストがいよいよはっきりと示されるのです。この方から離れて、私共の行くべきところはありません。この方を見上げつつ、この方の熱き愛を受けつつ、この一週もまた、この方と共に、この方の御前を、御国に向かって共に歩んでまいりましょう。

[2010年10月17日]

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