1.キリストの救いに与った者
使徒パウロにとって、キリストがすべてでありました。復活のキリストと出会い、救いに与り、キリストの弟子とされて以来、パウロにとってキリストがすべてとなりました。キリストの救いに与ったのに、まるでそれがなかったかのように生きることは、彼には出来ませんでした。もしそんなことをしてしまえば、彼は自分が何のために生きているのか、どこに向かって生きているのか、そのすべてを失うことになったでしょう。それは、彼が無意味という真っ暗な海の中に放り出されることでした。生きる力も勇気も、すべてを失うことでした。彼はキリストを迫害する者でしたが、ダマスコ途上でキリストが彼に出会い、キリストは彼を捕らえました。そしてこの時から、彼はキリスト者として、全く新しい人生を歩み始めたのです。キリストと共に、キリストの御業に仕える者として生きるようになったのです。私共も同じでしょう。キリストと出会って、キリストの救いに与り、キリストが約束してくださった罪の赦しに与り、体のよみがえり、永遠の命を目指して、御国への旅をする者となったのです。
イエス・キリストというお方と出会うまで、私共は自分が何者であり、どこに向かって歩んでいるのかを知りませんでした。自分の人生は自分のものだと思っておりました。しかし、主イエスと出会って、私共は主イエス・キリストのものとされました。人生の主人を持ったのです。私共を新しく神の子、神の僕とするために、神様は愛する独り子を、私共の罪の裁きとして私共に代わって十字架に架けるという、まことに痛ましい手続きを取られました。この主イエスの十字架という痛ましい手続きによって、私共は誰憚ることなく、神様に向かって「アバ、父よ」と呼び奉ることが出来、神様との親しい交わりに入れていただいたのです。
私共は主イエスを愛します。神様を愛します。しかしそれは、神様が、イエス様がまず私共を愛してくださったからです。私共がまだ主イエスを知らず、神様を知らなかった時に、神様は私共を愛し、私共を選んでくださったからです。ありがたいことです。この神様の愛に、私共はどのように応えることが出来るのでしょうか。ただ主の救いの恵みに感謝をささげつつ、この救いを無駄にしないようにこの恵みの中にとどまり続ける。そしてこの救いの御業にお仕えして、この恵みを宣べ伝えていく。それしかないのであります。
2.キリストの十字架は有っても無くても、どちらでも良いものなのか
さて、先週も見ましたように、パウロは、アンティオキアの教会において、「それはおかしい。間違っている。」とペトロに面と向かって反対致しました。それは、割礼を受けて律法を守らなければ救われないと主張する人々がエルサレムから来た時に、ペトロやバルナバでさえも、異邦人キリスト者と一緒の食卓に着かなくなったからです。律法の厳守を主張する人々にとって、「異邦人は汚れた者であり、決して救われない。」「ユダヤ人こそ、ユダヤ人だけが神の民である。」ということは当然であり、それ故異邦人と食卓を一緒にするということは考えられないことだったのです。しかしこれでは、キリストを信じ、キリストの救いに与る前と何も変わっていません。パウロは、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって義とされたのにもかかわらず、救われるためには律法を守ることも必要であると主張する人々に対してこのように妥協することは、主イエスの十字架の死を無駄にすることであるとしか考えられませんでした。これは、パウロにはとても我慢出来ないことだったのです。もし律法を守ることによって神様に義とされてその救いの道を完全に歩むことが出来るのなら、それで良いのなら、主イエスが十字架にお架かりになる必要はなかったのです。そして、主イエスの十字架はあってもなくてもどちらでも良いものになってしまうでしょう。主イエスの十字架があってもなくても良いものなら、我が子を十字架にお架けになってでも私共を救おうとされた、神様の度外れた愛はどうなるのでしょうか。これも、あってもなくても良いのでしょうか。
律法を行うことによって自分を神様の前に義しとさせようとする心、それは結局の所自分を頼りにすることであって、神様を愛し、神様を信頼し、神様に委ねて生きるという歩みとは正反対のことなのです。16節に「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」とありますように、律法の実行によっては、誰一人、神様の前に義とされることはないのです。律法の実行によって義とされるためには、完全な実行が必要だからです。しかし、この世に生を受けてからこの地上の生涯を閉じるまで、一度も律法の実行を怠ることのない人など一人もいない。ただの一人もいないのです。
先程、申命記30章を読みました。ここには、律法による命と死、幸いと災いが記されておりました。律法は、これを守らなければ死と災いとをもたらすものなのです。ですから完全にこれを守ることの出来ない私共には、律法は結局の所、死と災いしかもたらさないのです。しかし、そのような罪人である私共のために、その一切の罪を救うために、主イエスが十字架にお架かりになってくださったのです。だから私共は救われたのでしょう。まことにありがたいことです。そのことを知っていながら、どうしてペトロたちはそしてガラテヤの教会の教会の信徒の人たちは、律法を守らなければならないという主張に耳を貸すのか。それではキリストの十字架は何だったのか、自分たちは何によって救われたのか。このことをしっかり考えてみよ。そうパウロは語っているのです。
3.律法によって律法に死ぬ
17〜18節は、少し分かりにくい表現です。説明が必要でしょう。「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。」とあります。これは、律法を守らなければ救われないという主張が正しいとするならば、律法によって救われるのではないと主張している私は、ひたすらキリストの十字架によって救われようとしているのだが、それは律法を守らないのだから罪を犯していることになってしまう。とすれば、キリストの十字架は、私に罪を犯させるためのものということになってしまう。しかし、そんなことはあり得ないではないですか。キリストは私共を救うために来られたのであって、私共に罪を犯させるために来たのでは断じてないのです。
ペトロたちは、このキリストの福音を知って救われた者として異邦人と一緒に食事をし、律法によって救われるのではないということを明確にして、律法によって救われるというあり方を一度は打ち壊した。それなのに、再び異邦人との食事の席から離れて、救われるためには律法を守らなければ救われないというような顔をするならば、それは律法の違犯者として裁かれることになるのではないか。そう言っているのです。
それでは律法はどうなるのでしょうか。19節「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」とあります。神様によって義とされ、神様の御前に生きるために、私は律法に対して死んだ、律法とは断絶した、とパウロは言うのです。律法は罪人である私を救うことが出来ず、罪人である私を律法は裁くしかありません。私は律法によって裁かれ、十字架につけられて死んだのです。私は律法によって、裁かれ、死んだのです。あのキリストの十字架こそは、律法によって裁かれた私自身、私の十字架なのです。あの十字架によって、私は律法に対して死んだのです。私は、キリストと共に十字架の上で死んだからです。その私が今生きているのは、私と共に十字架の上で死んでくださったキリストが復活された、その復活の命と一つにされているからなのです。
4.我が内に生きるキリスト
そして、20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」とパウロは叫ぶように告白するのです。キリストが十字架に架かり、律法の裁きを受けた。そして復活された。あのキリストの復活は、律法による十字架の死という裁きが打ち壊され、新しい信仰による義、信仰による救い、信仰による命が現れ出た出来事なのです。この出来事によって救われたパウロが、自分が救いに与っている現実をこの様に語ったのであります。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」この言葉は、大変有名な言葉です。しかし、分かりやすい言葉ではありません。勿論この言葉は、私共が自分を失ってキリストのリモートコントロールの下にあるというようなことではありませんし、私の中にキリストという別人格が生きて私共が分裂状態になっているというようなことでもありません。これは確かに神秘的なことであるには違いありません。しかし、神秘的なことに対して特別に感受性の高い人にしか分からないというような出来事でもないのです。これは、私の中にキリストが生きているのを「感じる」というような話ではないのです。これは、すべてのキリスト者に与えられている、救いの出来事、救いの事態、救われていることの現実を告げているのです。
このことを正しく理解するためには、洗礼の出来事、あるいは聖餐の出来事と重ねてみるのが良いと私は思います。私共は主イエスを信じ、キリストと結ばれるために洗礼を受けました。この洗礼によって今までの自分は死に、キリストと一つに合わされた新しい私が誕生しました。今での自分、それは神様に敵対していた罪人としての私です。その罪人としての私が、キリストの十字架と共に滅ぼされ、新しくキリストと一つにされた神の子、神の僕としての私が誕生しました。それが洗礼の出来事です。このことを、パウロはローマの信徒への手紙6章3〜5節でこう言っております。少し長いですが引用します。「あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」洗礼によって新しく生まれた私は、まさにキリストと結ばれた者であり、キリストと一つにされた者なのです。これこそ、キリストが我が内に生き給うということなのです。
そして、私共が聖餐に与る時、このキリストと一つにされていることが、五感を通して確認されるのです。キリストの体、キリストの血潮が私の中に入り、私と一つになるのです。このことは、信仰によって受け取られる出来事です。レントゲンで分かるわけではないですし、あるいはそのように私共が感じるということでもありません。信仰の事柄ですから、これは信じることによって受けとめられることなのです。このキリストが我が内におられるということは、端的に言えば神様がそのように私共を見てくださるということなのです。事は救いの問題です。どうして私共が神様によって義と認めていただけるのか。それは、キリストの十字架が私共を覆い、キリストが私共と一つになってくださり、神様の御前において私共を執りなしてくださるからであります。それが、私共に与えられている神様の御前における救いの現実なのであります。私共は、どのようにしてもそのままでは神様の御前には出られないのです。ただ滅びるばかりの罪人なのです。その私共が、神様を「アバ、父よ」と呼び奉り、神様の御前に出ることが出来るとすれば、それはもうキリストと一つにされた者として神様が見てくださっている、ただこのことしかないのであります。これは秘義であり神秘であります。何とも説明しようがないところでありますが、これが私共に与えられている救いの現実なのです。
私共はキリストを愛しています。キリストの救いの御業にお仕えしたく思っております。しかし、この思いは自然に自分の内側から湧き上がってくるものではないのです。私共の内側には善きものはないのです。このような思いが湧き上がってくるはずがないのです。にもかかわらず、そのような思いが私共には与えられている。それは、キリストが我が内に生きておられるから、としか言いようがないではないですか。そうでなければ、決して起き得ないことだからです。神様に向かって「アバ、父よ」と呼び奉ることが出来るのも、同じことです。「父よ」と呼ぶことが出来るのは、「子」しかいません。私共が「アバ、父よ」と呼び奉ることが出来るのは、私共の中に神様の御子、イエス・キリストの霊が与えられているからであり、我が内にキリストが生きておられるからなのです。これは信仰によって受け取るしかない出来事なのです。
5.恵みに応える
ある方が、私共は自分に与えられている恵みの大きさが良く分かっていない、と言いました。確かにそういうことがあるのかと思います。神様の独り子イエス・キリストと一つにされている、その様に神様にご覧いただいている。これはあまりに畏れ多く、この恵みの大きさを私共は中々十分に受け取りきれないのでありましょう。私共の救いというものは、信仰によってしか分からない、受け取ることが出来ないものです。そして、信仰をもって受け取る時、私共に与えられている恵みというものが、どれ程大きなものであるかを知らされます。その時私共は、ただただ驚き、感謝し、主を誉め讃えるしかないのでありましょう。パウロは、ここで改めて自分に与えられている救いの恵みの大きさを思い、驚き、感謝の思いで一杯になっているのです。生きているのは、もはや私ではない。キリストが我が内に生きている。この恵みをどうして無駄にすることが出来るでしょうか。
週報にあるように、10/23(土)、24(日)と雲然先生を招いての講演会・伝道集会が開かれます。私共が救われている、この恵みに少しでもお応えしたいから、私共はこのような伝道の営みを為すのであります。神様の救いの恵みを無駄にしたくないからです。神様の恵みに対して何とかお応えしたい私共の、貧しいささやかな応答です。
今、私共は聖餐に与るのです。我が内に生き給うキリストを味わうのです。この恵みを味わった私共は、どうしたってこの恵みに応えて生きていきたいと願うのでありましょう。その一つの具体的な献身の歩みが、伝道ということなのであります。この恵みを深く味わい知っていたパウロが伝道者であったということは、必然のことだったと私には思えます。伝道しないならば、キリストの死を無駄にしてしまう。彼はそう思っていたに違いありません。私共も同じ思いを持って、ここから主に遣わされてまいりたい。そう心から願うのです。何故なら、キリストこそ私共のすべてだからであります。
[2010年10月3日]
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