富山鹿島町教会

礼拝説教

「福音の真理による一致」
申命記 10章12〜22節
ガラテヤの信徒への手紙 2章1〜10節

小堀 康彦牧師

1.キリストの福音
 私共は神様によって召し出され、主イエスと出会い、主イエスを信じる者とされ、救われました。それまでどのように生きてきたのか、どこの生まれで何の仕事をしてきたのか、どのような人間なのか、その一切を問われることなく、ただキリストの福音によって救われました。自分の努力や良き業を積み上げて救われるのではない。ただ主イエスを信じる信仰によって一切の罪が赦され、神の子・神の僕とされる。これがキリストの福音です。この福音によって私共は救われ、新しくされ、神の民に加えられ、神の国への歩みを為す者とされたのです。この救いの事実が、私共の信仰の、そして私共の人生の基盤、基礎なのです。それは教会においても同じです。この基礎、基盤の上にしか、キリストの教会は建ちません。
 しかし、私共はしばしばこの当たり前のことを忘れてしまうのです。正確には、忘れるというよりも、この福音によって支配されていない感覚が残っていて、それがしばしば顔を出すのでしょう。「私は毎週礼拝を守っている。献金も怠ることなく献げている。だから自分は神様の恵みの中にいる。」そんな感覚を持ってしまうことが少なからずあるのではないでしょうか。もちろん、毎週礼拝を守ることも献金を献げることも大切なことであるには違いありません。しかし、「だから救われる」「だから神様の恵みの中にある」のではないでしょう。逆の場合も同じです。「私は礼拝を休みがちだ。だから次々と辛いことが起きる。神様の恵みを受けていない。」この感覚は、どこから来るのでしょうか。これはキリストの福音によって救われた者の感覚ではなくて、私共がキリストに出会う前の、「良いことをしたら救われる、悪いことをしたら罰が当たる」と考えていた時代の名残、しっぽのようなものです。しかし、私共が救われ、私共が神様の恵みに与っているのは、ただ神様のあわれみによるのであり、ただ信仰によるのです。私の中には何もないのです。私が神様を選んだのではなく、神様が私を選んでくださり、信仰を与えてくださり、救ってくださったのです。まことにありがたいことです。
 今、申命記をお読みしました。10章15節に「主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。」とあります。神様が神の民を選ばれたのは、律法を守ったからではないのです。「あなたの先祖」とはアブラハムでありイサクでありヤコブであります。彼らが神様に愛されたのは、律法を守ったからではありません。十戒を与えられるのは、ずっと後のことです。そうではなくて、神様が一方的に愛し、選ばれたのです。確かに、12〜13節には「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることをではないか。」とあります。律法は神様が求められることですから、これは大切なものです。しかし、神の民は律法を守り、良き業を為したから神の民となったのではないのです。神の民が神の民となったのは、ただ神様が一方的に選んでくださったからなのです。そして、この神様の選びが、時満ちるに及んで主イエス・キリストが来られ、十字架にお架かりになって、イスラエルという民族を超えて異邦人である私共にまで広げられたのです。これがキリストの福音です。私共はこの福音によって救われ、神の民とされたのです。

2.エルサレム会議にて
 さて、今朝与えられております御言葉において、パウロは、「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。」と語り始めます。1章18節にありますように、パウロはダマスコ途上において主イエスと出会い救われてから3年後に、一度エルサレムに上りました。そして、それから14年して、再びエルサレムに上ったと言うのです。この14年間、パウロは何をしていたかと言えば、異邦人に向かって主イエスの福音を宣べ伝えていたのです。その間、特にエルサレムからの指示に従っていたということではありませんでした。では、どうしてこの時エルサレムに上ったのか。それは、パウロが宣べ伝えている福音に対しての風当たりが、キリストの教会の中で強くなってきたからだろうと思います。異邦人キリスト者、これはパウロたちの伝道によって生み出されたキリスト者で、律法を守らなければ救われないとは教えられていないキリスト者たちでした。これと、ユダヤ人キリスト者たち、これはキリストを信じているけれども、救われるためには律法を守らなければならない、特に割礼を受けなければならないと考えていた人たちです。この両者の間の緊張が高まったのです。神様はパウロに、エルサレムに上ってこの問題を解決するようにと促したのでした。このパウロたちがエルサレムに行った時のことは、使徒言行録15章に記されています。いわゆるエルサレム会議、エルサレム使徒会議と呼ばれるものです。紀元50年に開かれました。
 この時、パウロはバルナバとテトスと共にエルサレムに行きました。使徒言行録によれば他の人ももう少しいたようですが、事柄を明確にするために、ここではバルナバとテトスの名前だけが挙げられています。バルナバは、エルサレム教会がアンティオキアの教会に遣わした伝道者であり、当時の教会では大変尊敬され重んじられていた人です。異邦人伝道の専門家と言っても良いでしょう。彼は、ユダヤ本土ではなく、キプロス島出身のユダヤ人でした。一方テトスは、パウロが異邦人伝道において与えられた異邦人キリスト者である伝道者でした。異邦人伝道によって異邦人キリスト者が生まれているだけではなくて、伝道者まで生まれている。この神様の恵みの出来事を具体的に示すために、パウロはテトスを連れて行ったのだろうと思います。パウロは、バルナバとテトスを連れて行くことによって、異邦人伝道において何が起きているのかをエルサレムの教会の人々に伝え、理解を得、共に一つになってキリストの福音を宣べ伝えていきたい、そう願ったのです。
 2節に「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」とあります。パウロは、「おもだった人たちには個人的に話し」たと語ります。「おもだった人たち」というのは、当時のエルサレム教会の中心的人物、具体的にはペトロであり、ヨハネであり、主の兄弟ヤコブであったと思います。パウロはこの時、自分がいつも異邦人に伝えている福音がどういうものかを話しました。当然、「主イエスを信じるなら救われる」と語ったでしょうし、「救われるためには割礼を受けるようにとは教えていない」ということも話したでしょう。この会談の結果はどうだったでしょうか。9節に「また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。」とあります。「一致のしるしとして右手を差し出しました」というのは、和解の握手ということで、友情と信頼のしるしであり、旧約以来の方法です。つまり、エルサレム教会は、パウロとバルナバが行っている異邦人伝道に対して、何の問題もないことを明らかにしたのです。エルサレム教会のおもだった人々とパウロたちは、一つになって伝道していくことを確認したということなのです。そして、ペトロはユダヤ人に、パウロは異邦人にという役割分担もここで確認されたのです。

3.キリスト者の自由  この時、異邦人キリスト者であるテトスに対して、偽の兄弟たちと呼ばれる人々が割礼を求めるということがあったのではないかと思われます。しかしパウロは、断固そのような要求を拒否しました。パウロは割礼に対して、絶対にしてはいけないと考えていたわけではありません。パウロ自身も割礼を受けた者なのです。そして彼は、テモテに対しては使徒言行録16章3節で割礼を施しているのです。テモテには割礼を受けさせ、テトスには断固拒否するというのは、筋が通っていないように思われるかもしれません。しかし、このテモテへの割礼は、「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。」(使徒言行録16章3節)とありますように、伝道していく上でユダヤ人たちから反対されないようにという方便で受けさせたのです。つまり、パウロにとって割礼は、受けても受けなくてもどちらでも良いものであり、救われるためにどうしても必要なものではありませんでした。まさに、主イエスによって与えられた自由の中で決めれば良いことだったのです。しかし、エルサレムにおいてテトスに求められた割礼は、そのようなキリストにあっての自由の中にある問題ではなく、これを受けなければ、ユダヤ人にならなければ、律法を守らなければ救われないという主張に基づくものでした。ですから、パウロは断固その要求を拒否したのです。この要求を受け入れるならば、キリストにあっての自由を放棄することになると考えたからです。キリストの十字架を無駄にすることになると考えたからです。これは実に、キリストによって与えられた自由の問題なのです。
 キリスト者は、主イエス・キリストに対する信仰以外何も問われることなく、ただ神様のあわれみによって救われたのです。ここにキリスト者の自由があります。神様のあわれみ以外、何ものも私共の救いに関して制限することは出来ないのです。ですから、神様の御前にあって、私共は何ものにも縛られることはないのです。この全き自由をキリスト者は与えられたのです。しかし、割礼を求める者は、ユダヤ人であるかどうかを問うのです。更には、律法を守らなければ救われないとたたみ掛けたことでしょう。私共は律法を守りますが、それは神様を愛するが故の、自由な業、喜びの業、感謝の業として為されるのであって、これをしなければ救われないからするのではありません。どんな良き業であっても、これをしなければ救われないとするなら、それはキリストの十字架を無駄にすることであって、キリストが与えた自由を私共から奪う、サタンの誘惑となるのです。
 パウロに偽兄弟と言われている人々は、自分がサタンの手先になっているなどとは露程も考えていなかったでしょう。彼らは、律法を守ることによって救われるという、ユダヤ人の常識の中で生まれ育ち、キリストを信じたといっても、未だこの律法主義のしっぽを引きずっていたということなのだと思います。キリスト者になるということは、この神様の御前における自由の中に生きるということであり、この自由の中で今まで自分を縛っていたものから解き放たれていくということなのです。自分を縛っていたしっぽを切り離していくのです。このしっぽは幾つもある。その一つ一つを具体的に切り離していく中で、神様の御手に委ねて一歩を踏み出していく中で、いよいよ自由にされていくのでしょう。今までの自分の善し悪しの基準、将来への見通し、そういったものの一切をも神様の御手に委ねて、自由になるのです。人を生まれや育ちや学歴や職業で判断することをやめる。これをやったら損だと思うことも、御心ならと信じて引き受ける。私共は人の目を気にして生きるのではなくて、主イエス・キリストを私共に与えてくださった神様の御前に、神様のまなざしの中に生きるのです。私共は、自分の経験に基づく見通しからさえも、主の御手に委ねて、自由にされた者なのです。
 パウロはエルサレムに行って、教会のおもだった人々に会い、その人たちとの合意を取りつけなければなりませんでした。この時パウロは、エルサレム教会のおもだった人たちに対しても、少しも卑屈になってはいません。6節「神は人を分け隔てなさいません。」と言っているとおりです。神は人を分け隔てしない。だから、ユダヤ人であるかどうかは問題ではない。エルサレム教会の中心人物であろうと、恐れることはない。エルサレム教会のおもだった人たちは、主イエスと共に伝道し、復活の証人とされた人たちです。誰もが、キリストの教会の中心人物と認める人たちです。一方パウロは、キリストの教会を迫害していた者です。しかし、パウロはキリストと出会って、キリストの自由に生きる者とされたのです。だから恐れることはないのです。パウロは自由でした。また、このエルサレム行きによって、エルサレム教会のおもだった人々が自分の宣べ伝えている福音に反対の見解を示したらどうしよう。パウロにそんな恐れがなかったとは言えないかもしれません。それ程までにユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の緊張は高まっていたのです。もし合意できなければ、パウロが伝道してきたこと全てが無駄になるのです。しかし、それもまた主の御手に委ね、そして自分を選ばれた主が道を拓いてくださることを信じて、彼はエルサレムに上ったのではないでしょうか。ここには、具体的にキリスト者の自由の中に生きたパウロの姿が浮かび上がってくるように思えます。

4.一致の根拠
 結局、この会談は成功しました。パウロの伝える福音は、エルサレム教会の指導者たちの認めるところとなったのです。だから、パウロはこの手紙の中で、割礼を受けなければ救われないと主張してガラテヤの教会の人々を惑わしている人々には何の根拠も権威もないということを、パウロは語ったのです。
 エルサレムの教会のおもだった人々は、一致のしるしとして右手をパウロたちに差し出しました。この一致をもたらしたのは、パウロの雄弁でもないし、エルサレム教会のおもだった人々の度量の広さというものでもありません。8節「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」とあります。パウロを召し、遣わされた方と、ペトロたちを召し、遣わされた方が同じ方だった。この同じ方から、同じ福音を知らされていた。だから彼らは一致することが出来たのです。教会の一致というものは、人間の業として生まれるものではないのです。教会の一致の基礎は、互いに同じ方によって救われ、同じ方によって召され、同じ方によって遣わされているという救いの現実、主イエス・キリストの十字架によって救われたという救いの現実の中にあるのです。
 人が集まれば意見の違いは必ず生じます。しかし、それによって教会が割れるということはないのです。教会が割れ、壊れるのは、同じ方によって救われた、救われている、この事実を忘れる時です。主イエス・キリストの十字架以外のもので救われているかのように考え始める時です。その時、教会はただの人間の集まりになってしまうからです。私共が誰によって救われ、誰によって生かされているのか、このことに徹底して目を注ぎ、この方の与えてくださる自由の中に生き切る者として、この一週も主の御前に歩んでまいりたいと願うのです。

[2010年9月19日]

メッセージ へもどる。