1.戦いの書
今日から、ガラテヤの信徒への手紙を読み進めながら礼拝をささげてまいります。使徒言行録の連続講解が終わりまして、ガラテヤの信徒への手紙へと読み進めていくわけですが、使徒言行録の後半はおもにパウロの伝道が記されておりました。この時パウロは何を伝え、何と戦ってきたのか。そのことが、パウロの書いたこのガラテヤの信徒への手紙には、はっきりと記されております。この手紙を読み進めながら、私共は何によって救われたのか、何を伝えていくのか、何と戦わなければならないのか、それを私共自身の中で明確にさせられていきたい。そう願っております。
このガラテヤの信徒への手紙は、これ自体が戦いの書でありますが、教会の歴史の中でもそのような役割を担ってきた書です。すぐに思い起こすのは宗教改革です。宗教改革者マルティン・ルターはこの書を大変愛しました。彼は、「ガラテヤの信徒への手紙は、私の信頼する私の手紙である。私のケート・フォン・ボールである。」と言ったと伝えられています。ケート・フォン・ボールというのは、ルターの妻の名前、ケート・フォン・ボーラのことです。つまり、ガラテヤの信徒への手紙は私の妻だと言ったのです。それほど愛し、信頼したということです。彼は宗教改革を進めていく中で、この書を何度も講義いたしました。繰り返しこの書を講義しながら、宗教改革を進めていったのです。言うまでもなく、宗教改革の中心にあったのは「信仰義認」、ただ信仰によって救われるという福音の本質を取り戻す戦いでした。ルターは、パウロがこのガラテヤの信徒への手紙の中で戦っている、同じテーマで戦ったのです。もちろん、パウロが戦った時代やその相手と、ルターが戦った時代と相手は違います。しかし、事柄の本質においては少しも違っていなかったのです。それは、私共の場合でも言えるだろうと思います。私共は目に見える形において、パウロやルターのような戦いをしているわけではありません。しかし、伝道をし、教会を建てていく時、戦い抜きに事が進むなどということはないのです。もし私共が戦っていないとするならば、戦っていることを意識することさえないとするならば、そのことの方が問題でありましょう。私共の戦い、それは罪との戦いであります。神様を神様として崇めようとしないこととの戦いです。主イエスの十字架を無駄にしてしまうこととの戦いなのです。
ではこの手紙において、パウロは何と戦い、誰と戦っているのか。それは、この書を読み進めていけば明らかになることでありますけれど、使徒言行録を読み進める中でたびたび出てまいりました、ユダヤ人キリスト者たち、ユダヤ主義者たちであります。彼らは、割礼を受けてユダヤ人にならなければ救われない、そう主張していたのです。彼らは、パウロが伝道して建てたガラテヤの諸教会にやって来て、パウロが伝えた福音だけでは不十分である、割礼を受け、律法を守らなければ救われない、そう教えたのです。その時に彼らが語った一つの論拠。それが、パウロの使徒としての権威は第二級のものだということでした。第一級の権威を持つ使徒は、エルサレムにいる主イエスと地上での歩みを共にした十二使徒であって、パウロは彼らの下にいる。だから、エルサレムから来た私たちの言うことを信じなさい。そういう論法だったわけです。パウロは、自分の使徒としての権威を否定し、割礼による救いを説く人々に対して、この手紙で戦ったのです。
この手紙を受け取ったガラテヤの教会というのが、ガラテヤ地方の教会を指している(これを北ガラテヤ説と言います)のか、ローマ帝国におけるガラテヤ州を指している(これを南ガラテヤ説と言います)のか、昔から議論されておりますがはっきりしたことは分かりません。執筆年代についても、北ガラテヤ説、南ガラテヤ説とリンクしておりまして、はっきりしません。南ガラテヤ説を採ると、この手紙が新約聖書の中で一番古い書ということになります。しかし、どちらにしても、この書で論じられている事柄について、それほど影響を与えることではありません。
2.挨拶
さて、今朝与えられております御言葉は、小見出しに「挨拶」とありますように、この手紙の挨拶の部分です。パウロの手紙は、当時の手紙の形式に則って、差出人、宛先、挨拶という形をとっています。この形式は、パウロのどの手紙も同じです。と言うよりも、この時代に書かれた手紙は、皆この形式をとっているのです。ですから、この挨拶の形式そのものにあまり意味はありません。しかし、丁寧に見ていきますと、ここに既にパウロの思い、パウロの主張というものが、はっきりと表れていることが分かります。
手紙というものは、それを何のために書くのかということが、書く前にはっきりしているものでしょう。目的もなく手紙を書くということはないのです。安否を知らせる、あるいは安否を問うてその人との交わりを保つ。商用ならば取引がうまく行くように。そういう目的を持っているものです。この手紙も、目的ははっきりしているのです。自分が伝えたキリストの福音から離れそうになっているガラテヤの教会を、再びキリストの福音へと立ち戻らせる。それが目的です。このことが、この挨拶の部分にもはっきりと表れているのです。
3.使徒パウロから
1節から見てみます。1節「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」とあります。彼が、自分は使徒とされた者であるということを、これほどまでに強調した手紙は他にありません。パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく」といきなり語ります。当時の手紙は口述筆記ですから、何かパウロの息遣いが聞こえてきそうな書き出しです。パウロは、自分は誰かから、はっきり言えばエルサレムにいる使徒たちから、使徒に任命された者ではない、そう言っているのです。私を使徒として召し、任命し、遣わしてくださったのは、イエス・キリストであり、神様御自身なのだと言うのです。ここでパウロが念頭に置いているのは、言うまでもなく、ダマスコ途上において復活の主イエスと出会い、回心させられ、召された時のことであります。パウロの使徒性に疑問を投げかけ、パウロの権威を認めようとしない人々は、パウロが主イエスの地上での歩みにおいて使徒として召された者ではないということを根拠にしていました。あるいは、パウロがキリスト者を迫害していた者であったということも語ったかもしれません。しかし、パウロは復活の主イエスと出会って召された。このことを地上での主イエスの召しよりも低いものと見なすのならば、地上での主イエスと復活の主イエスとは別の方であり、復活の主イエスは地上の主イエスより低い方ということになるではないか。そんなことは断じてない。私は、人によってではなく、復活されたイエス・キリスト御自身によって、主イエスを復活させた神様によって、直接使徒として召され、立てられた者なのだ。そうパウロは主張しているのです。
4.何のための権威か
自分を権威ある者としてこのように語るということに対して、何か違和感を覚える人もいるかもしれません。しかしパウロは、自分が権威ある者として偉そうに振る舞うためにこう語っているのではないのです。自分の権威が認められなければ、自分の伝えた福音が葬られてしまう。キリストの十字架が無駄になってしまう。そうさせてはならない。そのために、彼は自分の召命の根拠をこのように権威づけて語っているのです。
私共は、普段はあまり意識していませんけれど、牧師という者は権威があるのでしょう。そして、その権威が認められない所では、牧師としての職務を果たすことが出来ないのだと思います。もちろん、その権威を笠に着て偉そうに振る舞うなどということは、お話にもなりません。キリストによって召され、与えられた権威は、仕える者としての権威だからです。キリストに仕え、教会に仕え、人々に仕えるための権威だからです。しかし、神様によって召され、遣わされた者であるという権威を認められなければ、牧師の語る説教は神の言葉として受け取られることはないし、教会を指導することも出来ないでしょう。
先日、ある若い牧師からの相談を受けました。転任したいと言うのです。色々な話を聞きました。心が痛みました。その中で、妻が「私たちが牧師を雇っている。」と教会員が話しているのを聞いてしまった。妻はもう耐えられないと言っている。この言葉を聞きまして、本当に心が痛みました。牧師がその教会で喜んで主の御用のために働けるかどうかは、教会の大小なんかではありません。教会員が自分と一緒になって、キリストの権威の前に服し、キリストの御業に仕えようとしているかどうか、その一点なのです。語られる御言葉の前に共にひれ伏し、その御言葉によって生かされ、共に神様にお仕えしようとしているかどうかなのです。教会が牧師を雇っているという感覚は、教会を根本からダメにしてしまうものです。雇っているなら、気に入らなければ首をすげ替えれば良い、自分が気に入った牧師を雇えば良い、ということになるでしょう。こんなことでは、牧師が語る御言葉に打たれ、ひれ伏すということは起きようがありません。ここには、神様への畏れもないし、神様に服従するという信仰もない。そのような教会を、いったいどうしたら建て直すことが出来るのか、暗澹たる思いになりました。
5.恵みと平和=悪の世からの救い
パウロは自分の権威を主張します。しかしそれは、ガラテヤの教会がパウロの伝えたキリストの救いに与るためなのです。だからパウロは、2節で宛先の「ガラテヤ地方の諸教会へ」と告げた後で、3節「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と告げるのです。「恵みと平和」、それは私共が求めてやまないものであります。しかしここで告げられている「恵みと平和」とは、「私にとって都合の良い恵み」でもないし、「私の平穏な生活」といったものでもないのです。それは、主イエス・キリストによって私共にもたらされた恵みと平和です。主イエス・キリストによる救いと言っても良いでしょう。だから4節「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」と続くのです。パウロがガラテヤの教会の人々の上にあるようにと願う「恵みと平和」は、この主イエス・キリストの御業によって与えられる「恵みと平和」なのであります。その主イエス・キリストの御業とは、「御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」、つまり十字架の死であります。主イエスの十字架の死によってもたらされた「恵みと平和」なのですから、それは主イエス・キリストによる救いということになるでしょう。
主イエスの十字架の死は、私共の罪のために、私共に代わってささげられました。それは、私共がこの「悪の世」から救われるためです。「悪の世」とは、汚職があり、悲惨な事件が起きているこの世界ということを意味しているだけではありません。そのようなことが起きている世界は悪い世には違いありませんけれど、この「悪の世」というのは、神様に敵対し、自分のことしか考えることが出来ず、自分の欲のサタンの奴隷になっている世ということです。
今日は、65回目の敗戦記念日です。65年前、広島・長崎に原爆が落ち、この富山も焼け野原になりました。そして、降伏するより玉砕せよと命じた人々がおり、それに従い多くの命が散っていったのです。そしてあの戦争の根っこの所に、人間が神になるという罪があったことを、私共は知っています。あの戦争は、この世界が悪の世であることを、私共にイヤというほど思い知らせたのではないでしょうか。
この悪の世から救い出され、サタンの支配から神様の支配の中に生きるようにされる。これが救われるということです。そして、すべての人がこの救いの恵みに与ることが出来るようになるということが、神様の御心なのです。そのために、主イエスは十字架の死を遂げてくださったのです。この救いに与ること、それが「恵みと平和があなたがたにあるように」ということなのです。
6.栄光は神に
そしてパウロは、この挨拶の最後の5節で「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」と告げます。パウロは、主イエスの十字架を思うと、神様をほめたたえずにはいられなかったのでしょう。この挨拶の中に、パウロの心の動きがはっきりと現れています。
この手紙は、確かにガラテヤの諸教会に入り込んできた割礼を求めるユダヤ主義者たちへの反駁を目的に書かれたものです。しかし、パウロの思いは、ガラテヤの諸教会の人々に主イエスの十字架による救い、恵みと平和があることであり、主イエスの十字架と復活を通して、救いの道を拓いてくださった神様に栄光を帰すことだったのです。このパウロの思いは、私共の思いでもなければならないのでありましょう。私共は様々なことを為していきます。その一つ一つの業が、「救いがあなたに、栄光は神に」という思いの中で営まれて行かねばならないのであります。このことが明確でなくなる時、私共は自分が何をしているのか分からなくなっていくからです。この教会が、神様の御心に従っていくために、「救いがあなたに、栄光は神に」この心を私の心、教会の心にしていきたい。そう願うのであります。
[2010年8月15日]
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