富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスは生きておられる」
エレミヤ書 4章1〜2節
使徒言行録 25章1〜22節

小堀 康彦牧師

1.主は生きておられる
 主なる神様は、預言者エレミヤの口を通して、「『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」(エレミヤ書4章2節)と告げられました。神の民の、最も古い典型的な信仰告白は、「主は生きておられる」でありました。「主は生きておられる。」この信仰告白は、聖書の神様は人格をもって神の民と交わり、その御腕をもって出来事を起こし、神の民と共に歩み給う方であるという信仰を言い表しております。そしてまた、聖書の神様は、人に運んでもらわなければ動くことも出来ない、物言わぬ偶像ではないということも言い表しております。「主は生きておられる。」この信仰は、聖書全体を貫いている信仰でありますし、私共の信仰の歩みを貫いている信仰でもあります。
 私共は先週、ペンテコステの記念礼拝をささげました。主イエスの弟子たちに聖霊が降り、キリストの教会が誕生したペンテコステの出来事において、主イエスの弟子たちの中に与えられました信仰も、この「主は生きておられる」というものであったと言って良いでしょう。ただもう少し丁寧に申しますならば、このペンテコステの出来事以来キリストの教会に与えられました信仰は、「主は生きておられる」という旧約以来の信仰そのものではなくて、「主イエスは生きておられる」というものでありました。旧約以来信じられ崇められてきた主なる神様は、あの十字架に架けられ三日目によみがえられたナザレ人イエスとして現れた。そして三日目に死人の中からよみがえられたイエスは天に昇られ、今も聖霊として私共と共におられ、父なる神様と共にすべてを支配され、私共の歩みのすべてを導いてくださっている。この主イエスこそ神の子であり、救い主であり、まことの神である。「主イエスは生きておられる。」これがキリストの教会に与えられた信仰であります。教会は、この「主イエスは生きておられる」という信仰と共に歩んでまいりましたし、この信仰を宣べ伝えてきたのです。
 「主イエスは生きておられる」との信仰は、1+1=2というような、誰もが客観的に認識し、誰もが当然のこととして受け入れることが出来るというものではありません。「主イエスは生きておられる」という信仰は、まさに今生きて働いておられる方との人格的な出会い、交わりによって与えられるものだからです。そして、この生ける主イエスとの出会い、交わりというものは、主イエスの方から私共に出会ってくださらなければ、聖霊を注いでくださり信仰を与えてくださらなければ、誰にも与えられないものなのです。出会いというものは、私共が意図して作り出せるものではないのです。伝道の本質的な困難はここにあります。私共は一生懸命に主イエスをお伝えする。しかし、その方に信仰が与えられるかどうかは、聖霊なる神様が働いてくださらなければどうにもならないのです。主イエスと出会い、この方を愛し、この方と共に生きていこうという志が与えられるということは、私共の思いを超えた出来事であり、奇跡と呼ぶことがふさわしいことなのでしょう。私共は、この神様の救いの御業という奇跡の中で、生ける主イエスとの出会いを与えられ、「主イエスは生きておられる」との信仰を与えられました。私共は聖霊を注がれ、「イエスは主なり」との信仰と共に新しく造り変えられ、神様の御前に新しく生きる者とされた。主イエスと共に、天にある資産を受け継ぐという希望に生きる者となったのです。まことにありがたいことであります。

2.主イエスの裁判とパウロの裁判
 聖書はこの「主イエスは生きておられる」との信仰に生きた人の一人として、使徒パウロの歩みを記しております。今朝与えられております御言葉において、使徒パウロは総督フェストゥスとアグリッパ王の前で取り調べを受けます。形の上では裁判なのですけれど、そこで為されておりますことは、パウロの信仰の証しです。
 使徒言行録の21章において捕らえられて以来、パウロは何度も証しを語ってまいりました。22章では民衆に、23章では最高法院において大祭司アナニアたちの前で、24章では総督フェリクスの前で、そして25章では総督フェストゥスの前で、26章ではアグリッパ王の前で。そしてその多くは、裁判という場面においてでありました。
 使徒言行録を読み進みながら、21章以降、ちっとも話が前に進まない。裁判の場面ばかりが続く。そこでパウロが語っていることも、内容としてはあまり変わり映えがしない。いささか退屈である。そう感じるかもしれません。バックストンという、明治時代に日本に来た宣教師が語った『使徒行傳講義』という本があります。400ページ弱の本ですが、この21章から28章には何と最後の20ページ分しか割かれていません。特に21章から26章の裁判のところは、40回の講義の内、たった1回で終わっています。そういう風に扱うことも出来るということなのでしょう。
 しかし、ここで考えなければならないことは、どうして使徒言行録を記したルカは、このように長々と裁判の場面を記したのかということです。ちなみに、ルカによる福音書においては、主イエスがエルサレムに入られて十字架にお架かりになり復活されるまでの一週間の出来事に用いている分量は、ルカによる福音書全体の約三分の一です。そして、この使徒言行録において、パウロがエルサレムで捕らえられて以降の分量も、おおよそ全体の三分の一なのです。これは偶然ではありません。ルカは、パウロの歩みを主イエスの歩みと重ねるようにして描いているのです。こんなことを記すくらいなら、パウロの伝道旅行中に起きたエピソードをもっと記してくれればよいのに。そう思う人もいるかもしれません。しかし、ルカはそうしなかった。そこには、明らかにルカの思い、ルカの意図があるのです。その意図とは何か。それは、パウロの裁判を長々と記すことによって、主イエス・キリストの裁判、更には主イエス・キリストの十字架、そして復活の出来事を思い起こさせる、ということだったと思います。
 ルカによる福音書22章54節〜23章25節において、主イエスは大祭司の家、最高法院、ピラトの前、ヘロデの前、そして再びピラトの前と、5回にわたって裁判を受けます。そして総督ピラト、これはパウロが取り調べを受けた総督フェリクスや総督フェストゥスの前任者となるわけですが、彼の口を通して「わたしはこの男に何の罪も見いだせない。」(23章4節)、「わたしは…、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。」(23章14節)、「この男は死刑にあたるようなことは何もしていない。」(23章15節)と告げています。パウロもまた、最高法院で、総督フェリクスの前で、総督フェストゥスの前で、そしてアグリッパ王の前で裁判を受けました。そしてルカは、パウロの場合も総督フェストゥスの口を通して「彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。」(使徒言行録25章18節)と告げ、またアグリッパ王の口を通しては「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに。」(26章32節)と告げているのです。
 ルカは、何の罪も見出せないパウロの裁判を記すことによって、何の罪もなく十字架に架けられて死んだ、そして三日目によみがえり今も生き給う主イエス・キリストを思い起こさせているのです。

3.生ける主イエスとの交わりの中で
 パウロがその裁判において語ったことは、主イエスの十字架、復活の出来事、そしてその主イエスが今も生きておられるということでした。それは、パウロの語ることを聞いた総督フェストゥスが、25章19節「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。」と要約していることからも分かります。ここで総督フェストゥスは、パウロの語ることを正確に聞き取っていると思います。フェストゥスは、「イエスが復活した」というだけではなくて、「イエスが生きている」とパウロが主張していると聞き取っているのです。もちろん、パウロがそう語ったのでしょう。しかし、これはとても重大なことです。主イエスが復活したというだけなら、そういう不思議なことがあったのかということで済みますが、「イエスが生きている」となれば昔話では済みません。今のことだからです。
 パウロが「イエスが生きている」と語ったということは、彼自身が牢獄の中にあっても、いきいきとした主イエスとの交わりの中に生かされていたからでありましょう。これは驚くべきことです。いつまで続くか分からない牢獄での生活。この二年間という時間は決して短くありません。しかしパウロは、「主イエスは生きておられる」との信仰を失わなかったのです。これは重大なことです。「主イエスが生きておられるなら、どうしてこの状況が打開されないのか。どうして自分は牢獄から解放されないのか。本当に主イエスは生きているのだろうか。」二年間というのは、そのような思いがパウロの心の中に湧き上がってきても不思議ではない時間です。しかし、パウロはそのようにはならなかったのです。何故でしょうか。それは、パウロにとって主イエスを信じるということは、いきいきとした生ける主イエスとの交わりの生活そのものだったからではないでしょうか。現に生ける主イエスとの交わりの中に生きているのに、それを疑い、その信仰を捨てることはあり得ません。ここに、私共の信仰生活における最も重大な示唆があると思います。それは、主イエスとの交わりを保持し、主イエスとの交わりに生きるということです。この主イエスとの交わりの生活が確立されているかどうか、それが私共にとって信仰の歩みを生涯歩み通すことが出来るかどうかの分かれ道となるのです。
 生ける主イエスとの交わりの生活。それは言い換えるならば、祈りの生活ということであります。パウロは、この二年間の牢獄の時、当たり前のことですが、公の礼拝を兄弟姉妹と共に守ることは出来なかったのです。しかし、「主イエスは生きておられる」との信仰を失わなかった。それは、この牢獄の中にいても、パウロは祈りの生活をしっかり保持していたからでしょう。だから、総督フェストゥスの前においても、生ける主イエスをしっかり証しすることが出来たのでしょう。

4.開かれた祈り
 パウロは、総督フェリクスによって裁判を受けますが、判決が出ないまま二年間牢に入れられておりました。有罪の判決を出す理由もなく、かといって、無罪にすればユダヤ人たちの反発が恐ろしい。ですから、先送りにしたのです。フェリクスの次に総督になったフェストゥスも、やはり同じでありました。彼は、ユダヤ人たちの、パウロをエルサレムへ送り返すようにという要求は退けます(25章2〜5節)が、ユダヤ人たちに気に入られようとして「エルサレムで裁判を受けないか」とパウロに告げたりする(25章9節)のです。パウロは、このフェストゥスの申し出を受け入れませんでした。ユダヤ人たちが自分をエルサレムへ送り返そうとしていること、そしてそれは殺そうとするためであることを知っていたからかもしれません。パウロはここで、ローマ帝国の市民としての特権を行使します。11節の最後「私は皇帝に上訴します。」と告げたのです。
 このパウロの一言は決定的な意味を持つことになります。この一言によって、パウロはローマへ送られることになるからです。囚人としてのローマ行きです。パウロは23章11節において、主イエスから「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない。」との御言葉を受けておりました。もう二年も前のことです。自分はローマへ行って主イエスを証しする。主イエスの福音を宣べ伝える。それはパウロにとって主イエスの約束であり、主の御計画の中で既に決まっていたことでしたが、囚人としてのローマ行きとは、パウロも考えてはいなかったでありましょう。しかし、それが神様の御心でありました。パウロは人間です。どんなに信仰深く、神様に選ばれた者であっても、人間です。ですから、明日自分の上に起きるであろうことを、すべて見通すことは出来ません。しかし、パウロはどんなことが起きても、主イエスが生きておられ、その主イエスの御手の中で起きる出来事は、自分を主の御業に用いるためであり、自分を全き救いへと導く道の上でのことであると信じ、受け入れたのです。
 私はこう思うのです。パウロは、自分のことしか考えられない、自分の置かれている状況しか見られない、そういう人ではなかった。そしてそこに、この生ける主イエスと共に生きるパウロの強さがあったのではないか。このことを私が考えますのは、二年間という牢獄の生活の後にあって、なおもユダヤ人たちがパウロを殺そうとしていたからです。と言いますのは、普通二年間も牢獄に入っていれば、もう過去の人になるのではないでしょうか。ところが、ユダヤ人たちはなおもパウロを殺そうとしていた。それは、ユダヤ人たちがパウロを過去の人にすることが出来ないことが起きていたからだと思うのです。それは、具体的に言えば、パウロが牢獄に入っている間もキリストの教会が、伝道が進展していたということだったと思います。そして、パウロはこの牢獄の二年の間も、友人たちが世話をするのを妨げられない(24章23節)という、ある程度の自由を与えられた状況の中で、外のキリストの教会の様子を聞き、相談にも乗り、間接的ではありますが指導さえもしていたのではないか。そう思うのです。だから、ユダヤ人たちはパウロの二年間の牢獄生活の後でも、パウロを過去の人にすることが出来なかったのだと思うのです。そしてパウロは、「主イエスは生きておられる」という信仰を、祈りの生活と共に、外でのキリストの教会の歩みを聞きながら、いよいよ確信させられていったのだと思うのであります。
 私共の目のいくところや関心のあるところが、自分の身の回りのことばかりになっていますと、つらい困難な状況に出会った時に「神様の愛が分からない。」「神様が生きておられるということが分からない。」そんなことになりかねないのです。しかし、私共は祈りの生活の中で、自分のことだけに向けそうになるまなざしを、もっと大きな神様の救いの御業へと広げていただけるのだと思うのです。そして、生ける神様の様々な救いの御業を見、聞き、いよいよ「主イエスは生きておられる」との信仰を確かにしていただけるのでありましょう。なぜ執り成しの祈りが必要なのか。その理由がここにあります。この執り成しの祈りの中で、私共のまなざしは自分や身の回りの人々だけに向けられるのではなく、もっと広い、もっと大きな神様の救いの御業に向かって開かれていくからです。そしてそれによって私共の「主イエスは生きておられる」との信仰は、更に確かなものとされていくのであります。
 私共のこの一週間の歩みが、祈りの生活を保つ中で、いよいよ生けるキリストへの信仰を確かにされ、主をほめたたえつつ、御国に向かっての確かな歩みとされるよう、共に祈りを合わせましょう。

[2010年5月30日]

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