富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝説教

「聖霊によらなければ」
イザヤ書 44章1〜8節
コリントの信徒への手紙一 12章1〜13節

小堀 康彦牧師

1.神様の救いの御業を遂行される聖霊
 今朝、私共はペンテコステ記念礼拝を守っております。主イエスは、十字架にお架かりになり、三日目によみがえり、40日間その復活の御姿を弟子たちに現され、天に昇られました。それから10日後、弟子たちに神の霊・キリストの霊である聖霊が注がれ、教会が生まれました。そのペンテコステの出来事については、使徒言行録の2章に記されております。私共は使徒言行録からこの一年の間ずっと御言葉を受けてまいりましたので、今日はコリントの信徒への手紙一から、聖霊が注がれるとはどういうことなのか、聖霊の賜物とは何なのか、改めて御言葉を受けてまいりたいと思っております。
 私共の信仰の歩みが始まりました時、聖霊に対して、何ともよく分からない、とらえどころがない、そんな思いを誰でも抱いたのではないかと思います。それは、ある意味、当然のことなのです。ただ一人の父なる神様が天地を造られた。主イエス・キリストが十字架にお架かりになって、復活された。これらは、すぐにイメージ出来ます。しかし、聖霊なる神様は何をなさったのか、何をなされているのか。目に見える具体的な形として、その働きを示すことは難しいのです。教会は聖霊によって生まれたと言葉では申しましても、人間の様々な営みとして建てられているというのが目に見えるところでしょう。そもそも聖霊なる神様は、神様の霊・キリストの霊でありますから、神様の業・キリストの業を為すためにお働きになるのです。ですから、神様・イエス様から離れて、全く独自の働きをなされるわけではありません。その結果、何となくとらえどころがないという印象を持ってしまうということになるのでしょう。しかし、私共が信仰の歩みを為していく上で、最も具体的に私共に働きかけてくださり、出来事を起こし、私共を導いてくださるのは、聖霊なる神様なのです。今朝、私共はそのことをしっかりと心に刻みたいと思っております。
 「聖霊なる神様は謙遜な方で、その栄光をいつも父なる神様と子なるキリストに帰して、御自身は受けようとはされない。」と言った方があります。なるほどと思います。事実、聖霊のお働き、お導きの中に生きれば生きるほど、私共はいよいよ神様に、主イエス・キリストに栄光を帰すことになります。そして、この聖霊なる神様の謙遜は、その導きを受ける者にも与えられるのです。聖霊なる神さまの導きの中で、私共は決して自らの栄光を求めず、ただひたすらに神の栄光のために仕える者とされていくのであります。

2.イエスは主なり
 聖霊なる神様のお働きの中で、私共がまず注目しなければならないのは、3節の御言葉です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」とあります。「イエスは主である」「イエスは主なり」これは最もシンプルなイエス・キリストに対する信仰告白であり、最も古い信仰告白であると言って良いと思います。この3節の御言葉は、「イエスは主なり」との告白、この信仰は聖霊が働いてくださらなければ決して与えられないのだと告げているのです。私共は教会に通い始めたばかりの頃、あるいは洗礼を受けたばかりの頃、自分が決めて教会に来ることにした、自分が洗礼を受ける決断をした、そう思っていたものです。しかし、信仰の歩みが少し続いてまいりますと、自分が決めた、自分が決断したと思っていたことも、聖霊なる神様が私共に、あるいは私共の周囲に働きかけてくださり、私をそのような思いへと導いて下さったということが分かってまいります。実に、私共の信仰というものは、その始めから終わりまで、聖霊なる神様のお働きの中で与えられるものなのです。
 この「イエスは主なり」との告白は、単にこの言葉が口から出るかどうかということだけではありません。信仰の告白というものは、この告白によって導かれ、この告白を土台として築かれていく信仰の生活と一つになっているものでしょう。この告白が聖霊によって与えられるものであるということは、この告白によって導かれる信仰の生活もまた、聖霊なる神様によって導かれ、形作られていくものなのだということなのであります。
 「イエスは主なり」ということは、私は主イエスの僕であるということであります。主イエスの御言葉に従い、主イエスの御業にお仕えする者として生きるということです。私共は二人の主人に兼ね仕えることは出来ません。私共に主人は二人は居ないのです。ということは、「イエスは主なり」との信仰に生きる者は、主イエス以外のものに仕えない、仕えることは出来ないということになるでしょう。主イエス以外の主人、それは富であったり、自分の中にある様々な欲であったり、もちろん偶像も含まれるでしょう。そして、それは私共自身でもあるのです。それらは、最早決して私共の人生の主人とはなり得ないということなのです。
 私共の信仰の歩みは、この「イエスは主なり」との告白によって導かれていきます。この世に生きる私共には様々な課題があり、誘惑にさらされています。その課題を乗り超え、誘惑をしりぞけ、「イエスは主なり」との信仰に生きるためには、どうしても聖霊なる神様の助け・守り・支え・導きが必要なのです。私共は自分の力で信仰を保つことなど出来ないのです。信仰が聖霊なる神様によって与えられたということは、その後の歩みもまた、聖霊なる神様の御手の中にあるということなのです。しかし、だったら何もしないでボーっとしていれば良いか。そうではありません。まず第一に、聖霊の導きを願い求めるということです。日常の信仰の歩みのすべてが聖霊の導きの中にあることを知ったなら、いよいよ強く、確かに、聖霊のお働きを願い求めるのです。第二に、聖霊なる神様は私共自身や私共の周囲に働きかけて「イエスは主なり」との告白にいよいよ生きることが出来るように道を拓き、促してくださるのですから、その導き、促しに従うということです。
 ここでよく知っておかなければならないことは、聖霊なる神様の導き、促しというものは、神様のなさることなのですから一概には言えませんが、多くの場合、しんどいな、面倒だな、嫌だな、損だな、そんな思いも私共の中に引き起こすものであるということです。聖霊なる神様の導きが、いつでも自分にとって楽しくて、願ってもないことであるなら問題はありません。しかし、そうでないことが少なくないのです。だから、「イエスは主なり」との信仰に生きるのか、「自分が人生の主である」という罪の中に留まるのか、その戦いが起きるのです。そしてその戦いにおいて、私共は「イエスは主なり」との信仰に生きることを求められるのです。それは、時には選択するのが難しいという場合だってあるでしょう。しかし、その選択が難しいという場合の多くは、自分にとっての損得の計算が働くからなのかもしれません。しかしその計算を横に置いて、「イエスは主なり」との信仰にふさわしいのはどちらなのか、その一点において決めていかなければなりません。それが信仰の戦いであり、信仰の決断なのです。聖霊なる神様は、必ず必要な力、知恵を与えられるでしょう。ですから、心配は要りません。
 キリストの教会は、ペンテコステの日以来、いつもこの聖霊の導きの中で新しい一歩を踏み出しつつ、歴史を刻んできたのです。パウロの異邦人伝道もそうでした。150年前に日本にキリスト教を伝えた宣教師たちもそうでした。皆、聖霊なる神様の導きの中で促され、決断し、一歩を踏み出してきたのです。その営みの中で、私共も救いに与ることが出来たのです。

3.三位一体の神様の御業
 さて、次に4〜6節ですが、ここには三位一体の神様の御業が示されております。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」とあります。賜物を与えるのは霊、これはもちろん聖霊のことです。そして、務めを与えるのは主、働きを与えるのは神と告げられます。少し注意をすれば、ここには聖霊、主イエス・キリスト、神という三位一体の神様の御業が語られていることが分かると思います。これは、同じ内容が言い換えられていると見ることが出来るでしょう。父・子・聖霊なる神さまが、その救いの御業において分かちがたく結ばれてお働きになっているということです。
 聖霊なる神様が与えてくださる賜物には、いろいろあるのです。大切なのは、その賜物は務めとなるということです。この「務め」と訳されている言葉はディアコニアで、その意味は「奉仕、仕える」です。賜物は、自分を楽しませ、自分は大した者だと思うために与えられているのではないのです。主イエスに、人々に、そして教会に奉仕し、仕えるために与えられているのです。そして、その「務め」が「働き」となる。この「働き」という言葉はエネルゲイア、エネルギーの元の言葉で、意味は「力」です。仕えるための力を神様が与えるということなのです。つまりここで告げられていることは、聖霊は賜物を与え、その賜物は神と人と教会に仕えるために主イエスが与えたものであり、その業に必要な力は神様が与えてくださるのだ、ということなのです。
 聖霊の賜物というものを、その人の能力、才能のように受け取りますと、間違ってしまうことになるでしょう。聖霊の賜物とは、「イエスは主なり」との告白に導かれた歩みを為すために、また「イエスは主なり」との告白を為す教会のために、聖霊なる神様が私共に与えたものであって、それは神と人と教会に仕えるために用いられる時にその目的に適い、本来の輝きを放ち、それを為すための力を全能の神様からいただいて、自分で考える以上の大きな業に用いられていくということなのです。

4.気付かない聖霊の賜物  賜物を与えるのは聖霊です。この聖霊の賜物については8〜10節に記されておりますが、ここに記されているような特別な賜物だけを考える必要はありません。私共は一人一人違った賜物を与えられているのです。この賜物を、その人の能力、才能のように受け取りますと、人と比べて優越感を持ったり、逆に劣等感を持ったりしてしまうことになりかねません。私などは、神学校時代から「無芸大食、特技は特になし」という人間でしたから、楽器が出来たり、字がきれいだったり、語学が出来たり、スポーツが出来たりする神学生たちに囲まれていますと、自分は何も出来ない、何の賜物も与えられていない、そんな思いを何度となく味わったものでした。しかしそれは、私が聖霊の賜物というものをよく分かっていなかったからなのだと思います。
 その頃の私は、教会の御用をするのが、清掃であれ、キャロリングやキャンドル・サービスの準備であれ、教会学校の説教であれ、嫌だと思ったことがありませんでした。日曜日に教会学校に来られない子には、毎週土曜日の午後に二人で礼拝をしたこともありました。それは2年間ほど続いたでしょうか。今思えば、教会の御用に仕えることを苦にしないということ、それが私の賜物だったのかと思います。
 私共はそれぞれ聖霊の賜物を与えられています。しかし、本人はなかなかそれに気付かないものなのでしょう。私が自分に対して「無芸大食、特技なし」と思っていたように、神様の賜物、贈り物は、自分ではなかなか気付かないものなのです。目に見える、誰にでも出来るわけではない能力を持っている人は別でしょうけれど、そんな人はそれ程多くはありません。また、そのような能力を持っている人であっても、神と人と教会に仕えるために用いるという、その本来の使い方を知らず、それ故、十分に用いられることがないということも多いのだと思います。

5.組み合わされる賜物
 聖霊の賜物が、神様の御心に従って生かされていくためには、どうしても必要なことがあります。それは組み合わされるということです。7節「一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」とあり、12節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」とあります。教会全体の益となるために、私共は組み合わされていかなければならないのです。ここに聖霊の賜物の妙があるのです。何でもきちんとすることが出来る真面目な人、その人がいるだけで場が明るくなる人、周りの人に配慮の出来る人、人の痛みが分かる人、バイタリティーのある人、話すことが上手な人、聞くことが上手な人、字の間違いに気付く人、パソコンや機械が得意な人、余計なことは言わない人などなど、人は誰でも賜物を持っているのです。
 しかし、一人でその全てを持っている人など居ません。皆、誰でも欠けがあるのです。ある賜物を持つ人が、それを持たない人を責めたりしたのでは話になりません。すべてを持っている人はいないのです。欠けを持ちしかし賜物を与えられている人が互いに組み合わされ、「イエスは主なり」との告白に導かれて神と人と教会に仕えていく時、神様はその全能の力をもって支え、大いなる救いの御業を現してくださるのであります。どうしてこの様なことをパウロは語ったのかといえば、当時のコリントの教会にはきら星のごとく賜物をいただいている人が大勢いたのです。しかし、それらの人々が互いに角を出して突き合うという現実があったからです。それでは、神様の栄光を現していく群れにはなれないのですし、賜物を与えてくださった神様の御心に適わないのです。
 一人一人が「イエスは主なり」との告白に導かれ、この告白に導かれて歩むことは大切です。しかし、それだけではないのです。その一人一人が組み合わされ、互いに仕え合い、支え合って、キリストの体は成長していくのです。互いに組み合わされるとき、聖霊の賜物はその本来の力を発揮し、主の栄光を現していくことが出来るのです。そして、このキリストの体なる教会にあっては、何も賜物がない人、そんな人は一人もいないのです。何故なら、皆「イエスは主なり」との告白によって洗礼を受けた者だからです。13節「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」とあるとおりです。皆が聖霊を飲んだのです。聖霊を与えられながら、その賜物は与えられていない。そんなことはあり得ないのです。ただそれに気付かない、或いは組み合わされないために本来の賜物が生かされていないだけなのです。

 今日は、お二人の方が私共の教会に転入されます。このお二人を私共の教会に遣わしてくださった聖霊なる神様をほめたたえるものです。お二人とも音楽の賜物を与えられており、聖歌隊に入っておられます。この新しいお二人が、私共の群れに加わり、互いに組み合わされ、いよいよ主の御業にお仕えする教会として成長させていただきたいと、心から願うものです。

[2010年5月23日]

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