富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの御名のためならば」
イザヤ書 20章1〜5節
使徒言行録 21章1〜16節  

小堀 康彦牧師

1.復活の希望
 先週主イエスの御復活を喜び祝い、私共は新しい2010年度の歩みを始めました。主イエスは十字架にお架かりになって死なれた。しかし三日目に復活され、私共のために永遠の命への道を拓かれました。主イエスの御復活は、昔そういうことがあったというような、信じがたい昔話ということではないのです。主イエスの御復活は、私共にもやがて与えられる永遠の命に対する希望をもたらしたのです。この希望は、肉体の死を突き抜けた希望ですから、私共にもたらされるいかなる困難も嘆きも、私共からこれを奪うことは出来ません。
 私共は永遠に主と共にいることになるのです。主イエスと共にいる、主イエスが私共と共にいてくださる、インマヌエルの恵み。これは、私共が死んで復活して初めて与えられるものではありません。生きている今、私共は既に主イエスと共にあります。この今与えられているインマヌエルの恵みは、死をもってしても失われることなく、私共が復活する時いよいよ確かな、いよいよはっきりしたあり方で与えられるということなのです。私共が復活された主イエスと同じ体を与えられ、一切の罪をぬぐわれた者として、神様の御前に生きる者とされるのです。こう言っても良いでしょう。私共は今、聖霊なる神として私共の上に臨んでくださる主イエスと共にあるのですが、復活の体が与えられる時、私共は、あの復活されて天に昇られた主イエス・キリスト御自身と、顔と顔とを合わせるようなあり方で共にいることになるのです。ですから、主イエスが今共にいてくださっているということを私共が深く知れば知るほど、私共の復活の希望はいよいよ強く、いよいよ大きく、いよいよ確かになるということなのです。逆に言えば、今主イエスが共におられるということが分からなければ、復活の希望というものもまた、正直なところピンと来ないということになるのでしょう。

2.人々にエルサレム行きを止められるパウロ
 この主イエスの御復活による希望を明確に大胆に宣べ伝えたのが、使徒パウロです。
 今朝与えられております御言葉において、パウロは第三次伝道旅行の最後にエルサレムへと戻る船に乗りました。ミレトスにおいて、エフェソの教会の長老たちと涙して最後の別れをなし、船に乗ったのです。このミレトスでの別れの時、パウロは既にエルサレムにおいて自分の身の上に起きるであろう投獄、苦難というものを覚悟しておりました。20章22〜24節を見ますと「そして今、わたしは、”霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」と語っています。
 パウロたち一行は、地中海の東の端、シリア州のティルスの港に着きますと、彼らは7日間そこにとどまり、その地に住むキリスト者たちと交わりを為しました。このティルスのキリスト者たちは、「エルサレムに行かないように。」とパウロに繰り返し頼みました。それは、4節に「彼らは”霊”に動かされ」とありますから、多分彼らもパウロがエルサレムに行けば投獄されることになるということを、聖霊によって示されたのだろうと思います。それで、パウロにエルサレムへは行かないようにと頼んだのでしょう。しかしパウロは、その言葉を聞き入れて「わたしはエルサレムには行かないことにする。」とは言いませんでした。パウロは、そのことを承知の上でここまで旅をしていたのですから、今更この旅をやめるつもりはなかったのです。ティルスの人々はパウロの決意を知らされて、彼を見送りに浜辺まで来て、共に祈りを合わせて送り出したのです。
 パウロたちはティルスからプトレマイスへ、そしてカイサリアへ行きました。エルサレムはもう目と鼻の先です。カイサリアからエルサレムは50〜60kmほど、二日も歩けば着いてしまう所です。このカイサリアの町に、福音宣教者フィリポがいました。彼は使徒言行録6章で、日々の分配のことで教会内にトラブルが起きた時、ステファノと一緒に日々の分配の奉仕をするために選ばれた七人の一人でした。そして彼は、8章に記されておりますように、サマリアの町で伝道し、エチオピアの高官に洗礼を授けた人でした。彼はその後、このカイサリアの町に定住し、主イエスの福音を宣べ伝えていたのでしょう。
 パウロは、このフィリポの家に何日か滞在し、信仰の交わりを為しました。そこに、アガボという預言をする人が来て、11節にあるように「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」と預言したのです。そしてこの時ついに、パウロに同行していた人、これは多分この使徒言行録を記したルカや、パウロと共に伝道していた何人かの同労者たちであったと思いますが、彼らもまた、パウロにエルサレムへは上らないようにと頼んだのです。彼らは、今まで何度もパウロから、エルサレムに行けば投獄されることになるということを聞かされてきましたが、パウロを引き止めることはしませんでした。しかし、ついにエルサレム目前のこの時になって、更にアガボのリアルな預言を聞いて、エルサレムに上るのはやめてくれと、泣いてパウロに頼んだのです。
 それに対してパウロが語った言葉が13節に記されています。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですから。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」

3.パウロがエルサレムへ行く理由
 どうしてパウロは、皆が止めるのに、それを振り払うようにしてエルサレムに上ろうとしたのでしょうか。エルサレムに行けば、自分は投獄される。このことはパウロ自身、聖霊によって示されておりました。そしてこのことは、ティルスでも、このカイサリアにおいても、パウロ以外の人にも聖霊によって示されたことでした。実際、パウロはこの後でエルサレムに行って、捕らえられてしまうことになるのです。エルサレムに行けば投獄される。だから人々は、パウロがエルサレムに行くのを止めようとした。このパウロの周りの人々の行為は、自然な思いから出たものでしょう。私共も、この場にいたらきっと同じようにエルサレムに行こうとするのを止めたと思います。しかし、パウロは行くと言う。どうしてなのでしょう。
 パウロは、エルサレムに行っても大丈夫だ、投獄されるようなことはない、そう思っていたわけではないでしょう。だったら、どうしてパウロはそこまでエルサレム行きをやめなかったのでしょうか。一度行くと決めたからでしょうか。しかし、パウロは今までアジア州で御言葉を語ることを聖霊に禁じられ、マケドニアに渡ったことがありました(16章6節〜)。聖霊の導きによって、自分の願いや自分が決めていた道を変更することは、パウロにとって当然のことであったはずなのです。とするならば、パウロがエルサレム行きをやめなかった理由は一つしかありません。それは、たとえ自分が獄につながれることになったとしても、エルサレムに行くことが神様の御心である、そうパウロは信じていたということです。パウロの周りの人々がパウロのエルサレム行きを止めたのは、パウロのことを思ってのことです。しかし、パウロは自分の身に起きることよりも、それが御心にかなっているかどうか、そのことだけで道を選ぼうとしたということなのだと思うのです。だから、「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」と言ったのでしょう。
 では、パウロがそこまでしてエルサレムに上ろうとした理由は何なのでしょうか。
 そもそもパウロがエルサレムに行かねばならない直接の理由は、彼がエルサレムの教会に、自分が伝道して建てた異邦人教会からの献金を届ける為であったと考えられています。この献金を届けるということについては、使徒言行録だけを読んでいますとよく分からないのですが、この第三次伝道旅行中に書かれたと思われるパウロの手紙を読みますと、そのことが記されているのです。何個所かありますけれど、その中の一つを読んでみましょう。パウロが第三次伝道旅行においてエフェソで3年間伝道していた時に書かれたと考えられている、コリントの信徒への手紙一の中の16章1〜4節です。「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。」このエルサレム教会の為の献金は、コリントの教会においてだけ為されていたのではありません。「わたしがガラテヤの諸教会に指示したように」とありますように、多分、パウロが伝道したすべての教会において為されていたのでしょう。それを持って、エルサレム教会へ行く。このことは、異邦人教会とエルサレム教会をお金において結びつけるという以上に、異邦人教会とエルサレム教会がキリストの体として一つの群れであるということを示す、そういう意味があったのです。

4.エルサレム教会と異邦人教会
 使徒言行録15章には、エルサレムにおいて異邦人伝道について会議が開かれたことが記されております。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者とは、割礼や律法の理解において、かなりの温度差があったのです。15章のエルサレム会議において一応の決着がついたことになっていますが、実際にはその後も両者の溝はなかなか埋まらず、対立が残っていたと考えられます。またエルサレム教会は、まさにユダヤ教の中心にあるわけで、周りはすべてユダヤ人です。伝道旅行の度にその地にいるユダヤ人たちからパウロは迫害を受けていたことからも分かるとおり、パウロはユダヤ人たちに大変評判が悪かったはずです。きっと、ユダヤ教の裏切り者、異端者、神を汚す者、そんな風に見られていたはずです。エルサレムにいるユダヤ人たちに、異邦人教会を建てているパウロの評判が伝えられていないはずがありません。そして、エルサレム教会の置かれている状況を考えますと、パウロをそのように見るユダヤ人たちに同調する人が教会内にも少なからずいたのではないかと思うのです。「エルサレム教会と、新しく生まれた異邦人教会とを分裂させてはならない。何としても一つの体として一致させていかねばならない。それがわたしの使命である。」パウロはそう考えていたのではないかと思うのです。ですから、お金を届けるだけならばパウロ自身が行く必要はなかったかもしれませんけれど、教会の一致を確立するためならば、どうしても自分が行かねばならないという思いが、パウロには強くあったのではないかと思うのです。パウロにとって問題だったのは、自分がエルサレムに行って捕らえられ獄に投げ込まれるかどうかではなく、どうすれば教会が一つであり続けるか。そのことでありました。
 神様の導きの中で自分が伝道して建てた異邦人教会が、神の民として、キリストの体として、立っていくことが出来るのかどうかの瀬戸際なのです。もし、エルサレム教会との関係が絶たれてしまえば、異邦人教会は旧約以来の神の民としての連続性を失い、根無し草になってしまいます。それでは、神の民、キリストの体として立ち続けていくことは出来ません。また、エルサレム教会にしても、異邦人教会が教えている「ただ主イエスを信じる信仰によってのみ救われる」という福音理解に立つことが出来なければ、やはりキリストの体として立ち続けていくことは出来ません。この教会が立つか倒れるか、この一点こそが、この時パウロの心を占めている課題だったのです。このことのために自分はエルサレムに行く。その結果、自分の身に何が起きようとそんなことは問題ではない。そうパウロは考えていたのです。
 もし自分の身の安全だけを考えるなら、どうしてパウロは伝道旅行などしたでしょう。彼は今まで何度も何度も危険な目に遭ってきたのです。自分の身の安全を第一に考えるならば、伝道なんかしなければ良かったのです。しかし、それは出来ないことです。何故なら、パウロは復活の主イエスに出会い、救いに与り、伝道者として召された者だからです。彼にとって伝道しないということは、自分はキリストと出会っていないということであり、キリストの十字架を無駄にすることであり、自分の救いをなかったことにするということだったからです。彼にとって、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの肉に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)ということだったのです。

5.パウロの歩みと主イエスの歩み
 私には、この時のパウロのエルサレムへの歩みが、主イエスの十字架への歩みと重なって見えるのです。主イエスは、エルサレムに上れば、そこで待っているのは十字架の死であることを知っておられました。しかし、主イエスはその歩みを止めたりはなさいませんでした。主イエスが御自身の受難について弟子たちに語られた時、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と主イエスをいさめたのです。そしてこの時、主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」とペトロを叱りつけたのです。(マタイによる福音書16章21〜23節)ペトロの言葉は、主イエスに対しての人間の情としては自然なものでしょう。しかし、この時ペトロは神様の御心というものに対して、少しも心を向けていなかったのです。そして、主イエスの歩みを止めようとしたのです。主イエスの十字架を邪魔しようとするのは、まさにサタンの業であります。神様の救いの御業を成就させないようにすることだからです。ペトロの中にそんな思いはなかったでしょうが、サタンに仕えてしまったのです。
 主イエスの体なる教会の分裂を放っておくことは、これもまたサタンの業でありましょう。パウロは、コロサイの信徒への手紙1章24節で「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」と語りました。この言葉は、主イエスの十字架が救いに不十分であり、それ故パウロが不足を補わなければならないというような意味ではもちろんありません。パウロは、主イエス・キリストの十字架によって与えられた完全な救い、これに与りました。そして、これを宣べ伝えるために教会は建てられているけれど、この教会を建てるためには、キリストが十字架の上で苦しまれたように、私も苦しみを身に負っていかなければならない、それが自分に与えられた使命であり役割なのだ、と言っているのです。ですからパウロは、エルサレムにおいて自分を待っているのが投獄であるということが分かったからといって、その歩みをやめることはしなかったのです。まさに、主エスのように、パウロはこの時「あなたがたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言いたかったのではないでしょうか。そしてこの歩みにおいてこそ、パウロは自分が主イエスと共にあることを強く知らされたのだと思うのです。そしてそれ故、いよいよ復活の希望を確かにされたのでしょう。

6.私共の歩み
 私共はパウロではありませんから、主イエスを宣べ伝えることによって投獄されることはありません。しかし、パウロがフィリピの信徒への手紙1章29節において、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と言ったのは本当でしょう。キリストのために苦しむこと、労苦すること、それは恵みなのです。何故なら、私共がキリストのために苦しむのは、私共が主イエス・キリストと愛において結びつけられているからです。愛というものは、それによって結びつけられた相手のために労苦すること抜きにはあり得ません。当然のことです。私共は信仰によって、神様を愛し、キリストを愛し、教会を愛し、隣人を愛する者とされました。それ故、それらのために喜んで労苦するのです。キリストと結ばれているからです。
 私共が主イエスと共にいることを覚えるのはどういう時でしょうか。おもしろ楽しく過ごしている時でしょうか。そうではないでしょう。愛の故の労苦を我が身に負って歩んでいる時ではないですか。パウロは教会を愛していました。それ故教会のために苦しむことを厭わなかったのです。そして、パウロは、エルサレムに向かうこの歩みの中で、主イエスが共におられることをしっかりと受けとめたのです。主イエスの苦しみを我が身に負う者とされたことを誇りに思った。そして、復活の希望というものをいよいよ大きく、強く、はっきりと覚えていたに違いなのです。
 私共も、愛の故に労苦することを厭わず、この愛の歩みの中においてこそ、主イエスが共にいてくださることを知らされ、復活の希望の中、いよいよ雄々しく、為すべき愛の務めに励んでまいりたいと心から願うのであります。

[2010年4月11日]

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