富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「復活の主」
詩編 33編1〜22節
マタイによる福音書 28章1〜10節

小堀 康彦牧師

1.イースターの今朝
 今朝、私共は主イエスの御復活を喜び祝うために集められております。そして今朝、一人の姉妹が洗礼を受けて、新しくキリスト者として生まれ、私共の群れに加えられる。私共はこの姉妹の上に現れた、神様の救いの御業の証人となるわけです。
 私共の教会で、今朝洗礼を受ける人は、一人だけです。しかしイースターのこの朝、神様によって信仰を与えられ、洗礼を受ける人は、全世界では何百万人かにのぼると思います。キリスト者の数は、全世界で20億人を超えているのですから、単純に計算してもそういうことになるのです。この富山の町で主イエスの御復活を喜び祝っている人はそれ程多くないかもしれません。しかし、目を全世界に向けるならば、実におびただしい数の人々が洗礼を受け、喜び祝っているのです。主イエス・キリストの十字架と復活による神様の救いの御業は、今もまさに継続中なのです。
 先日テレビでディズニーランドのCMが流れておりました。イースター・パレードを行うというCMでしたけれど、そのイースターの説明が「春の訪れを喜び祝う祭り」となっておりまして、これはないだろうと思いました。主イエス・キリストの御復活を喜び祝う祭りであるイースター=復活祭から、イエス様の復活を抜いてしまって、単なる春祭りにしてしまう。クリスマスの主人公をサンタクロースにして、プレゼントをあげたりもらったりする日にしてしまう日本人ですから、今さら驚かなくても良いのかもしれませんけれど、やっぱりそれはないだろうと思いました。

2.復活あってのキリスト教
 主イエス・キリストが金曜日に十字架にお架かりになり、日曜日の朝に復活された。このことによってキリスト教は生まれました。イエス様の十字架は大切です。キリスト教会のシンボルはこの十字架です。主イエスが私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになって、私共の一切の罪の裁きをお受けになってくださった。このことによって私共は神の子とされ、神の僕として新しく生きる者とされたわけです。しかし、主イエスが十字架にお架かりになるだけで、その後の復活というものがなければ、この主イエスの十字架は忘れられ、キリスト教が生まれることはなかったのです。何故なら、主イエスの弟子たちは、主イエスが十字架に架けられた時、自分たちも捕らえられて処刑されるのではないかと恐れて、皆逃げてしまっていたからです。もし主イエスが復活されることがなければ、主イエスの弟子たちは、「自分たちが救い主と信じていたイエス様も殺されてしまった。素晴らしい人だったけれど、ただの人だった。救い主と信じ期待した自分たちが馬鹿だった。イエス様に従ってエルサレムにまで来たけれど、故郷のガリラヤに帰ろう。」そう言って、それぞれ主イエスに従う前の仕事に戻っていったのではないかと思います。弟子たちの心の中に、最後に主イエスを見捨てて逃げてしまったという苦い思いは残ったでしょうし、主イエスが語られたこと、行った様々な奇跡も思い出として残ったでしょう。しかし、それだけです。主イエスの直接の弟子たちが死ぬと共に、主イエスの記憶もまたこの地上から消えていったことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。主イエスの弟子たちは、自分の命も省みず、「主イエスこそまことの救い主、まことの神の子。この方を信じるならば救われる。一切の罪は赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられる。」、そう伝道していったのです。実際、ほとんどの弟子たちは殉教したのです。主イエスが十字架に架けられた時に、恐ろしくて部屋の中に隠れていた人たちがです。この変化です。主イエスの十字架の意味も分かっていなかった弟子たちが、明確にそして的確に主イエスの十字架の意味を宣べ伝えていったのです。何故か。それは、主イエスの弟子たちは復活された主イエス・キリストに出会ったからです。それ以外にありません。
 そして、主イエスの御復活という出来事は、イースターのその日だけで終わったのではないのです。主イエスは復活されて40日の間、その復活された御姿を弟子たちに見せ、親しく交わり、共に食事もし、教えもなさった。これはとても大切なことです。復活された主イエスと弟子たちは何度も出会ったのです。一度だけではないのです。そして主イエスは天に昇られました。それから10日後、御復活されてから50日後、弟子たちに聖霊を注いでくださいました。神の霊、キリストの霊であるこの聖霊によって、主イエスは生きて働き、弟子たちと共におられることを証しし続けてくださったのです。
 主イエスの御復活は、主イエスが、十字架の死によって命の終わる方ではなく、永遠に生き給う神の独り子・まことの神であることを、代々の弟子たちに、私共に、示し続けてくださったのです。主イエスは、単に弟子たちの心の中に生きている方ではなく、今も生きて働き給う方であることを、二千年の間、キリストの教会は証しし続けてきたのです。主イエス・キリストというお方は、二千年前にユダヤで生まれ30数年の間生きたただの人間だったのではなく、まことに今も生きて働き、すべてを支配される神の独り子であることを明らかに示された出来事。私共が罪と死の縄目から解放された出来事。それが主イエスの復活という出来事なのであります。だから、私共は今朝このように集まり、喜び祝っているのです。

  3.主イエスの墓にて、天使の知らせ
 主イエスが復活された朝、世界で最初のイースターの朝の出来事を、与えられている聖書の御言葉から見てみましょう。
 28章1節「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」とあります。主イエスが十字架に架けられて死んだのは金曜日です。金曜日の朝の9時に十字架に架けられ、午後の3時に息を引き取られました。ユダヤの一日の数え方は、日没と共に始まります。金曜日の日没からは土曜日、つまり何もしてはならない安息日に入ります。この日没までの間に、あわただしく主イエスの遺体は十字架から降ろされ、墓に葬られたのです。この間は3時間程しかありませんでした。土曜日の日没と共に安息日は終わります。しかし、夜に墓場へ行く人はいません。ですから日曜日の明け方、東の方が白々としてくる朝の5時頃でしょうか、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に来たのです。他の福音書によると、彼女たちは主イエスの遺体に香料を塗るという、当時遺体に対して普通に為されていたことを行おうとして墓に向かったと記されています。十字架の上で処刑された人であり、日没まで時間がなかったので、主イエスの遺体は亜麻布を巻くだけという、粗末な仕方で墓に葬られたからです。せめて人並みの葬りをしてあげたい。婦人の弟子たちはそう考えたのでしょう。
 彼女たちが墓に着くと大きな地震があり、墓(当時の墓は横向きに穴を掘ったもので、その入り口は大きな石で塞いであった)の石がわきに転がり、その上に天使が降って来て座ったのです。彼女たちは驚きました。その驚いている彼女たちに向かって、天使はこう言ったのです。5〜6節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」天使に「恐れることはない」と言われても、婦人たちは恐ろしかったと思いますが、天使が語ったことは、彼女たちの思いをはるかに超えた、驚くべきことでした。彼女たちは確かに、十字架に架けられて死んだ主イエスの遺体を目当てにやって来たのです。しかし天使は、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と言います。「復活」。この天使の言葉を聞いても、この言葉が何を意味するのか、この時婦人たちは分からなかったのではないかと思います。「復活????」そんな感じではなかったかと思います。
 しかも、天使は「かねて言われていたとおり」と言ったのです。確かに主イエスは十字架にお架かりになる前に、折にふれて何度か、自分は十字架の上で死ぬが三日目に復活する、と弟子たちに語っておられました。しかし、弟子たちはそれがどういうことなのか、何のことなのか、さっぱり分かっていなかったのです。不信仰と言えばそれまでですが、死というものはそれ程までに圧倒的であり、絶対的なものなのではないでしょうか。彼女たちは、男の弟子たちとは違って、主イエスの十字架を遠くからではありますが目撃しておりました。彼女たちが見ている前で、主イエスは息を引き取ったのです。その死は、誰もが逆らうことの出来ない、圧倒的な力を持つものとして彼女たちを覆ったのです。
 この日、主イエスの女の弟子たちは、ひょっとすると主イエスは復活されているかもしれない、そんな思いを持って主イエスの墓に来たのではないのです。しかし、墓に来てみると、そこには天使が降って来て、自分たちに語りかけたのです。まことに恐ろしく、驚くべき出来事でした。そして、天使は「主イエスは復活した」と、告げたのです。さらに天使はこの婦人たちに、7節「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」と語ったのです。婦人たちは何が何だか、この時よく分かっていなかったと思います。何かよく分からないけれど、自分たちはとんでもないことを天使に知らされた。何か大変なことが起きた。主イエスが復活された???確かに墓の中には主イエスの御遺体はなかった。復活されたとは、どういうことか???混乱した頭のまま、「とにかく弟子たちに知らさなければ。」そんな思いで、彼女たちは弟子たちの所に走ったのだと思います。

4.復活の主イエスと出会い、復活の主イエスを拝む
 その彼女たちに、復活された主イエス御自身が現れたのです。9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」とあります。弟子たちの所に天使が告げたことを知らせようと急いで走っている彼女たちの行く手を塞ぐようにして、復活の主イエス御自身が現れ、声をかけたのです。「おはよう。」この「おはよう」との訳は、この言葉が当時のあいさつの言葉であったことから、こう訳されているわけですが、この訳は少し軽すぎるのではないかと思います。この言葉の元の意味は「喜べ」です。愛する主イエスの死の悲しみの中にあった婦人たちに向かって、復活された主イエスが「喜べ」と告げて、その御姿を現されたのです。人間がどんなことをしても破ることの出来ない死の力を、主イエスは打ち破り、復活されて告げたのです。「喜べ」と。つまり、「もうあなたがたを悲しませる死は、その支配は終わった。わたしは勝利者、死に打ち勝った者。あなたがたを、一切の悲しみ、嘆きから解き放つ者。『喜べ。』」そう告げられたのです。
 彼女たちは、この復活の主イエスの足にしっかりとすがりつき、主イエスにひれ伏しました。この「ひれ伏した」とは、「神として礼拝した」という言葉です。彼女たちは復活された主イエスを神様として礼拝したのです。この時、彼女たちは主イエスの足にすがりついたのですから、この時の主イエスは幽霊のようなものではありません。復活とは、体の甦りです。霊だけがいつまでもフワフワと生きているということではないのです。この時の主イエスの体には、他の福音書に記されておりますように、十字架に架けられた時の傷が残っていたでしょう。つまり、あの十字架の上で死なれた主イエスが、復活されたのです。別の人になって生まれ変わったのではありません。体の甦りとは、その人自身が、その人そのものが甦ったということなのです。
 主イエスは婦人たちにこう告げます。10節「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」そして、主イエスはその後、弟子たちにその復活された御姿を40日にわたって現され続けました。主イエスの弟子たちは、この主イエスの復活の証人として立っていったのです。

5.今も生きて働かれる主イエス
 主イエスは復活されました。この知らせは21世紀に生きる人たちだから信じ難いということではありません。主イエスが復活された二千年前でも、信じ難いことだったのです。「そんなバカな。」と言われるようなことだったのです。しかし、主イエスを救い主・まことの神とあがめる人は増えていきました。そして今では世界の三分の一の人々が信じています。どうしてこの信じがたいことを私共は信じたのでしょうか。主イエスの復活を信じるということは、復活というようなことがあり得るだろうか、あり得ないことではないか、そんな風に私共の小さな頭の中で考えて、あり得ると結論する。そんなことではないのです。復活という出来事は、私共の理解力の中では、どこまでもあり得ないことなのです。そのあり得ないことを、私共は主イエスの霊である聖霊なる神様の働きの中で、信じることが出来るようにされたのです。主イエスの復活を信じるということは、聖霊なる神さまによって起こされる出来事なのです。主イエスの復活を信じるということ自体が、まことに奇跡なのです。聖霊として私共と共におられ、今も生きて働く主イエス御自身によって、この復活の出来事を信じるという信仰は与えられたのです。今朝洗礼を受ける人の上にも、それが起きたのです。今朝洗礼を受ける人は、一年前は、「主イエスの復活などということは、とても信じられない。」そう思っていたのではないでしょうか。主イエスが復活されたということは、復活された主イエスが今も生きて働いて、私共と共におられるということなのであり、私共はその主イエスと出会ってしまったが故に、主イエスの復活を信じているのでしょう。
 天地を造られた神様には、何一つ出来ないことはありません。生物の最終的限界である死もまた、天地を造られた神様にとっては限界ではあり得ないのです。死は、アダムとエバの罪によって人間にもたらされました。罪の値が死なのです。人は何故死ぬのか。罪があるからです。しかし、主イエスの復活によってこの死が打ち破られたということは、罪もまた、完全に赦されたということを示しているのです。罪は主イエスの十字架により、死は主イエスの復活により、打ち破られたのです。
 この主イエスの復活という出来事は、ただ主イエス・キリストだけのものではありません。主イエスは死から復活された者の初穂となられたのです。最初の方となられたのです。主イエス・キリストを信じる者は、この主イエスの復活に続く者とされるのです。もちろん、それは死んで三日目ということではありません。時が満ち、主イエスが天から再び来られる時、天も地も新しくされ、既に死んだ者たちは、全く罪のない者として主の御前に復活するのです。私共は、この日を目指して、この地上の生涯を歩む者とされたのです。
 この地上の生涯にあっては、私共は悩みがあり、嘆きがあります。病気があり、飢えがあり、老いがあり、争いがあります。そして、その果てに死があります。しかし、死は終わりではない。死の力は、もはや最終的なものではなくなったのです。最後の敵である死さえも破られたとするならば、私共の人生を覆う影は、復活の光の中で、もはや最終的、決定的な力を持たなくなったということなのであります。復活の主イエスが「喜べ」と言われたのは、このことなのです。私共の人生に覆いかぶさる最大の暗い影、死は、私共から一切の希望、喜びを奪うことは出来なくなったのです。だから「喜べ」なのです。復活の主イエスが私共と共におり、私共を永遠の命、復活の命へと導いてくださっているからです。主イエスと共に生きる私共に、もはや生きる力を奪うことが出来るものなど、何一つ存在しなくなったのです。

6.確かに伝えた
 私共は今朝、聖餐に与ります。これは、キリストの教会が二千年の間、キリストの命を伝えてきたものです。天使は、主イエスの墓に来た婦人たちに主イエスの復活を告げ、弟子たちにこのことを伝えるように命じ、そして「確かに、あなたがたに伝えました。」と語りました。「確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、確かに伝えられた者として、この良き知らせの喜びの中に生き、この良き知らせを伝えるために生きました。そして、その知らせを受けた弟子たちも復活の主と出会い、「確かに伝えられた者」として生きました。聖餐は、「確かに伝えられた者」が、その確かに伝えられたことを確認するために守ってきたのです。私は今朝、復活の朝に婦人たちに語った天使に代わり告げます。よいですか皆さん、「私は確かにあなたがたに伝えました」。あなたがたは、この主イエスの復活の勝利を「確かに伝えられた者」としてこの聖餐に与るのです。どうか、主イエスの復活の勝利を「確かに伝えられた者」として、それぞれの場に遣わされていっていただきたい。

[2010年4月4日]

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