富山鹿島町教会

礼拝説教

「神と恵みの言葉に委ねる」
申命記 33章26〜29節
使徒言行録 20章28〜38節

小堀 康彦牧師

1.はじめに−−受難週を迎えて
 今日から受難週に入ります。週報に記されておりますように、火曜日から金曜日まで連日受難週の祈祷会が守られます。主イエスの御苦難を覚え、共に祈りを合わせ、喜びのイースターを迎えたいと思います。すべての祈祷会に出席するのは難しくても、ぜひ一回は受難週の祈祷会に出席し、共に祈りを合わせてイースターを迎えて欲しいと思います。私共が受難週を守り、イースターを喜び祝うのは、主イエス・キリストによって為された救いの御業を思い起こし、心に刻み、私共がこの主イエスの救いに与っている幸いを覚え、この恵みに感謝するためであります。キリストのものとされている恵みに留まり続けるためであります。
 今朝与えられております御言葉は、使徒パウロがエフェソの教会の長老たちに、ミレトスにおいて最後の別れをした時に語った言葉の後半、長老たちへの訓戒を与えた所です。この受難週が始まります主の日に、この箇所が与えられた幸いを思います。ここに記されていることは、「教会の憲法」とも言うべきものであるとも言われます。教会の歴史の中で、この箇所は長老が任職される時に読まれてきました。もちろん、ここで語られていることは長老達だけがわきまえていれば良いということではありません。主イエス・キリストの救いに与ったすべての人がわきまえていなければならないことです。ここには、教会とは何か、長老とは何か、長老が心しておかなければならないことは何かが語られているのです。この御言葉から、私共に与えられている救いの恵みを、改めて心に刻みたいと思います。以下、順に見ていきましょう。

2.御子の血によって神様のものとされた神の教会
 第一に、私共がしっかりと心に刻んでおかなければならないこと、それは教会は「御子の血によって神様のものとされた神の教会」であるということです。この28節の「御自分のものとなさった」と訳されている所は、口語訳では「あがない取られた」となっていました。この方が事柄をよりはっきりさせていると思います。キリストの教会というものは、主イエス・キリストの十字架の血という代価によって、神様に買い取られたものなのです。私共は、自らの罪の代価を主イエスの十字架の血によって代わって支払っていただいた、それによって神様のものとされた者たちなのです。私共は、自分でイエス・キリストを信じるようになったからキリスト者であり、救われていると思っているかもしれません。確かにその通りでしょう。しかし、私共が信じる前に、主イエスが私共のために、私共に代わって十字架の上で裁きを受け、血を流されたということがあったのです。このことがなければ、私共の信仰と言ったところで、何を信じているのか分かりません。私共は、主イエス・キリストの十字架の血潮によって神様のものとされた。罪の支配、サタンの支配から救い出され、神様のものとされたのです。
  教会は、私共は、神様のものなのです。私共の人生の主人は、私共自身ではないのです。神様のものとされるために、主イエス・キリストの尊い血潮が流されたのです。ですから、私共の歩みも教会の歩みも、ただ神様のものとされているということを明らかに示すものでなければならないのです。神の子、光の子とされているのに、闇の子のような歩みをしてはならないのです。また、神様のものとされているのですから、ただ神様の栄光を求め、神様の栄光を現す者として歩むのです。

3.教会を世話する長老
 そして、そのような教会を世話し、導くために長老が立てられたのです。ここでは「監督者」という言葉が使われております。この聖句は、ローマ・カトリック教会や聖公会などが、司教という各教会の上に監督する者を置く根拠として用いられる所ですが、文脈を見れば明らかなように、この「監督者」というのはエフェソの教会の長老たちのことを言っているのですから、長老の他に、長老たちの上に監督者を置く根拠にはならないと思います。
 ここで大切なことは、28節「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」とまず言われていることです。まず長老が気をつけ、気を配らなければならないのは、自分自身なのです。牧師も長老も、まず自分の日々の歩み、自分の信仰の歩みに気をつけなければならないのです。人は、他人のことにはよく気がつくものです。けれど、自分のことにはなかなか気付かない。それは牧師も長老も同じことです。しかし、そうであるが故に、よくよく自分自身のことに気をつけなければならないのです。
 そして次に、群れ全体のことに気を配るのです。この気を配るというのは、具体的には「あの人の体調はどうか、信仰の状態はどうか、悩みがあるようだ、家庭の状態はどうか」等々、多岐にわたるでしょう。しかし、その中心にあるのは「教会が御子の血にあがない取られた者の群れとしてふさわしい歩みをしているかどうか」ということです。このように為すことが教会として、キリスト者としてふさわしいのかどうか、そのことに気を配り、群れ全体を導いていくということなのです。

4.残忍な狼から守る
 次に、この群れ全体のことに気を配るということが具体的に語られます。29〜30節「わたしが去った後に、どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」パウロは、自分がいなくなった後で、エフェソの教会に混乱を与えるような人が外から来たり、内から現れてくるということを告げるのです。ひょっとするとそういう人が現れるかもしれないではなくて、確実にこのような人たち教会に現れるというのです。これは驚くべき洞察でしょう。私共はキリストの教会というものは、愛に満ち、平和で、和気藹々としているのが当たり前のこと、普通のことだと考えているところがあるでしょう。しかし、パウロはそうではないというのです。残忍な狼が必ず来る。そして、その狼から教会を守るのが長老の役目だと言うのです。
 「残忍な狼」と呼ばれている人とは、神様の羊を食い殺す、神様からいただいた永遠の命を奪い取る者ということでしょう。これはもっとはっきり言うと、「邪説を唱える者」のこと、つまり異端の教えを唱える者ということです。異端などと言うと、何が異端なのかということを考えると、よく分からないという風に思う人もいるでしょうけれど、これは何も難しいことを言っているのではないのです。例えば、「主イエスは神ではない。主イエスの十字架だけでは救われない。律法を守るという行いがなければ救われない。主イエスは復活などしなかった。」等々、私共が主イエスの十字架の血によって救われ、神様のものとされたことを否定する教え、これが異端なのです。そして、それは教会に必ず入って来るということをパウロは知っていたのです。
 この人たちの特徴は、私共を、主イエスに従わせるのではなく自分に従わせようとすることです。これは分かりやすい異端の見分け方です。私共は主イエスを信じ、主イエスを愛し、主イエスに従おうとします。しかしこの人たちは、その主イエスに対する信仰を自分に向けさせようとするのです。この人たちは神の栄光のために仕えるのではなく、自分の栄光を、自分の利益を求めます。このような人たちから教えから教会を守るのが、長老たちの務めなのです。このような人は外から来るとは限りません。内から生じることもあるのです。立派だと思っていた牧師が変なことを言い始める。そういうことだって起き得るのです。
 では、そのような人々から神の教会を守るためにはどうすれば良いのか。31節「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」パウロが教えたことを思い起こし、しっかりとそこに立って動かされないようにするということです。これは難しいことではないのです。私を育ててくれた牧師がよく言っていたことは、「宝石とか刀とかの目利きの訓練は、毎日本物だけを見せる。そして何年かしてから、良く出来た偽物を見せる。そうすると、これは偽物だと分かる。そういうものだ。本物はこういうもので、と口で言って分からせるものではない。」私もそうだと思う。この主の日の礼拝ごとに聞いている福音。これと違うものに出会った時、「この調べ、我が調べにあらず。」と分かる。それが大切なのです。
 ただ少し付け加えなければいけないのは、これは単なる保守主義というのではないのです。私共は、福音の本質を保持するために、その形は変わっていくということがあります。形だけを守ろうとしますと、やはり大切な所を見失うだろうと思います。私共は主イエスの十字架の血潮によって罪赦され、神様のものとされた。ここに立つ。ここに立ち続けるために、そしてこの恵みを広く全世界に向かって宣べ伝えていくために、形は変わっていくのです。例えば、礼拝を守る時刻だとか、礼拝の様式、讃美歌などは、今までも変わってきたし、これからも変わっていくでしょう。しかし、そこであがめられるべき方は誰か、そこで告げられる福音が何か、こういう点においては少しも変わってはならないのです。

5.神とその恵みの言葉に委ねる
 パウロが涙をもって三年間告げてきたこと、この福音に教会を留まり続けさせるためにパウロはどうしようというのか。32節「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」とパウロは続けるのです。主イエス・キリストを私共に遣わしてくださった父なる神様の御支配、そしてその御支配のもとで与えられる恵みの言葉の力と導きを、パウロは信じているのです。この「恵みの言葉」というのは聖書の言葉であり、それを説き明かす説教であり、主イエスの救いを告げる教えの言葉でありましょう。神様は出来事を起こし、すべてを支配します。この神様の御支配のもとで、神様の言葉が与えられる。この言葉が私共の中に宿り、私共の信仰を育み、導き、私共を造り変えていくのです。ここで、神様と恵みの言葉とが並列して語られていますが、これは神様の救いの御業が、具体的には聖霊の働きの中で御言葉によって為されるということを示しているのでしょう。
 この時、パウロはもう二度とエフェソの教会の人々に会うことはないと覚悟していたのです。もしパウロがいつまでも彼らと共にいることが出来たら、どんなに幸いなことであったでしょう。しかし、それは出来ないのです。パウロは、聖霊の導きの中で次の所へ行かねばならないからです。パウロが語った恵みの言葉は、パウロという人間の存在、人格と深く結びついています。しかし、パウロはエフェソの教会の人々が自分と強く結びつくことを求めません。何故なら、自分には彼らを救う力がないからです。パウロの願いはただ一つ、エフェソの教会の人々が救われることです。そのためには、エフェソの人々は主イエス・キリストと結ばれなければならないのです。大切なのはパウロではなく神様であり、主イエス・キリストであり、パウロが告げた福音なのです。パウロが告げた福音、恵みの言葉、それだけがエフェソの人々を全き救いへと導くのです。
 この時にパウロが告げた「今、神とそのめぐみの言葉とにあなたがたをゆだねます。」との言葉は、すべての牧師がその任地を離れる時、あるいは引退する時に語りたいことなのではないかと思うのです。牧師が転任するとき、愛する教会員との別れは本当につらいものです。多分、皆さんも何度かそのような経験をされたと思います。つらいのは教会員だけではない。牧師も身を切られるようなつらさを覚えるものです。しかし、この人間的なつながりを超えて、永遠の御国を目指す兄弟姉妹として別れを告げる時、牧師・伝道者は、「私にではない。私が告げた福音にしっかり立って欲しい。そこにこそ、あなたがたを永遠の命へと導いていく力があるのだから。」そう語るものなのでしょう。

6.受けるよりは与える方が幸い
 最後にパウロは長老たちに、「受けるよりは与える方が幸いである。」との主イエスの言葉を引いて、教会を守り導く者としての実際的なアドバイスをして話を閉じます。  この主イエスの言葉は大変有名ではありますけれど、福音書には出て来ません。パウロが伝えている主イエスの言葉です。パウロはこの主イエスの言葉の中に、教会に仕える者のあるべき姿を見たのです。「受けるよりは与える方が幸いである」とは、常識とは正反対です。人は何かを手に入れようとして必死になっている。それは富であったり、名誉であったり、社会的地位であったりするでしょう。「私はそんなものは全くいらない。」と言える人は少ないと思います。口ではそう言っても、目の前にそれがぶら下がれば、心が動く。そういうものでしょう。ここには、人間の持っている根本的な欲が現れているからです。
 しかし、教会はこの人間の欲に支配されてはならないのです。この教会を支配するのは父なる神様であり、主イエスの救いの恵みであり、神の言葉です。そうでなければ、教会はキリストの十字架にあがない取られたものとしてふさわしくないものになってしまう。ですから、教会を監督し世話する牧師や長老たちは、その働きにおいて、何かを得ようとする欲から自由に解き放たれていなければならないのです。この欲から解き放たれる道。それが主イエスに従う道です。そして、この主イエスに従うということは、御自分の命までも十字架の上において私共に与えてくださった、その御姿に従い、倣っていく道なのです。
 パウロは伝道者として生きましたが、彼は伝道者であるということを、それによって生活するための手段と考えたことはありませんでした。もちろん、自分の伝道のために与える人がいれば、その支えを受けることはしました。しかし、それがなければ、自分でテント造りの職人として働きながら伝道しました。牧師・長老はキリストに従う者なのですから、その奉仕によって金銀・名誉・人々からの尊敬、そんなものを得ようとしてはならないのです。それが与えられることはあるでしょう。しかし、牧師という仕事が一つの生活の手段となり、長老という職が人々から尊敬を受けるためのものとなってしまえば、教会は終わりです。十字架の主イエスの姿に倣うものではなくなるからです。教会がキリストの体であるということは、身をもって十字架のキリストの御姿を現していく、その歩みにおいて主イエスを証ししていく者の群れだからなのであります。
 この受難週の一週間、このことを心に刻み、主イエスに倣う者として与えることの幸いの中に生きていきたい。そう心より願うのであります。 

[2010年3月28日]

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