富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたは何者か」
ミカ書 5章6〜14節
使徒言行録 19章11〜20節

小堀 康彦牧師

1.呪文や魔術が姿を消す
 預言者ミカは、その終末の預言において「わたしはお前の手から呪文を断ち、魔術師はお前の中から姿を消す。わたしはお前の偶像を断ち、お前の中から石柱を断つ。お前はもはや自分の手で造ったものに、ひれ伏すことはない。」(5章11〜12節)と告げました。この預言は、主イエス・キリストによる救いの出来事が起き、その主イエスの福音が伝えられた時、必ず起きるのであります。主イエスの福音が宣べ伝えられ、それが受け入れられるとき、呪文や魔術が姿を消し、偶像礼拝がなくなるのです。まことの生ける神様との愛の交わりが生まれる時、神ならぬものを拝むことは退けられることになるのです。このことは、使徒言行録において何度も繰り返し告げられていることです。8章において、フィリポによって福音がサマリアに伝えられた時、シモンという魔術師が退けられました。13章では、パウロの第一次伝道旅行の時に最初に訪れたキプロス島において、パウロは魔術師エリマと対決いたしました。16章には、パウロが第二次伝道旅行において、フィリピの町で占いの霊に取りつかれている女奴隷から占いの霊を追い出したということが記されています。そして、今朝与えられております19章においては、主イエスの名によって悪霊を追い出そうとした祈祷師がひどい目に遭い、その結果たくさんの魔術の本が焼かれ、人々が魔術から離れたということが記されています。
 このように何度も魔術や呪術との対決が記され、それらが退けられたことが記されているということは、このことが主イエスの福音のもたらす必然的結果であるということなのでありましょう。もちろん、このことは信仰において起きることであります。主イエスの福音が伝えられ、それを受け入れた者は、魔術・呪術・偶像礼拝から離れるということなのであります。このエフェソの町で起きたのもそういうことであって、魔術の本を焼いたのはキリスト者になった人々が行ったことと考えるべきでしょう。エフェソの町のすべての人がキリスト者になったわけではなく、エフェソの町のすべての人々が魔術の本を焼いたのではないと考えるのが普通でしょう。しかし、この出来事はエフェソの町で大変評判になったでしょうし、衝撃的な事件であったと思います。
 しかし、どうして主イエスの福音と魔術・呪術というものが両立し得ないのか。そのことを、今朝与えられている御言葉から少し考えてみたいと思います。

2.パウロの奇跡
 11〜12節を見ると「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。」とあります。このエフェソの町にパウロは2年以上おりましたので、彼の名もだいぶ知られるようになっておりました。その大きな理由は、パウロが福音を宣べ伝えたということだけではなくて、彼が驚くべき奇跡を行っていたいうことだったと思います。しかし、注意して聖書を読みますと、聖書はここでパウロが奇跡を行っていたとは記してないのです。11節「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」のです。奇跡を行っているのは神様なのです。神様がパウロと共にいて、パウロを用いて奇跡を行ったということなのです。これは徹底されており、パウロの思い、意識を超えて行われたということではないかと思います。と言いますのは、12節には「パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを病人に当てると病気がいやされる」とあるのですが、私はパウロが手ぬぐいや前掛けを「これで癒されるように」と人に渡したとは考えられないのです。神様の言葉を語り、様々な奇跡をするパウロに対して、人々が「せめて、パウロの手ぬぐいや前掛けにでも触れさえすれば、癒されるのでないか」と期待して、パウロの手ぬぐいや前掛けを勝手に持っていって、病人に触れさせたということではなかったかと思うのです。ですから、この癒しはパウロの意志や思いさえ超えて行われた、神様による御業ということだったのだと思うのです。
 私はここで、主イエスが長血の女を癒された話(ルカによる福音書8章)を思い起こすのです。あの時主イエスは、12年もの長い間出血が止まらない病におかされていた女の人が後ろから主イエスの服の房に触れただけで、女の人を癒されました。この時、主イエスは「わたしに触れたのはだれか。」と問うているのですから、主イエスがこの女性を癒そうと思って癒されたのではないということが分かります。
 聖書はここで、このパウロによって起こされた不思議な出来事を、主イエスの癒しの出来事と重ねることによって、弟子たちには主イエスの業が継承されている、主イエスが弟子たちと共にいて事を起こされている、そう告げているのです。
 言うまでもなく、パウロによって行われた奇跡の前提は、主イエスとパウロとの関係、結びつきです。パウロは主イエスを愛し、主イエスを信じ、主イエスによって救われ、主イエスの救いの御業のために選ばれた者です。そして、主イエスはパウロを召し、救い、遣わされている。この関係の中で、この奇跡は起きているのです。この奇跡は、神様がパウロを用いているのであって、パウロが神様を利用しているのではありません。これは決定的に大切な点です。そしてこの奇跡の結果が、17節「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。」となったのです。主イエスがあがめられたのであって、あがめられたのはパウロではないのです。ここに、このパウロを通してなされた奇跡と、魔術・呪術との違いは明らかになります。

3.魔術・呪術=神様を自分のために利用する
 魔術・呪術というものは、神様の力だけを自分のために利用しようというものです。その神様は、どんな神様でもかまわない。自分の願いをかなえてくれさえすれば良いのです。もっとはっきり言えば、願いさえかなえてくれるのであれば、悪魔だって良いのです。魔術や呪術において、その人と神様との関係は問題ではありません。
 13節を見ますと、「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。」とあります。この主イエスの名を用いる祈祷師は、主イエスを信じてもいませんし、主イエスの福音を受け入れてもいない。ただパウロによって為されている奇跡が有名になったので、パウロが宣べ伝えているイエスという名の神様も使ってみよう、利用してみようと思ったということなのです。これは驚くにはあたりません。魔術・呪術の類では、当たり前に為されていることだったからです。魔術・呪術において決定的に重要だったのは、神様の名前です。これが呪文の中心にあるものなのです。悪霊が知っている神様の名前を使って、悪霊に言うことをきかせる。あるいは、神様も自分の名前を用いられれば、その通りしなければならない。そういう理解の上に成り立っている世界なのです。「名前信仰」とも言うべき前提が、魔術・呪術の世界にはあるのです。
 十戒における第三の戒、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」という戒は、この関連で理解すると分かりやすいと思います。この戒は、神様の力だけを利用しようとして、主の名を唱えたり、主の名を用いたりしてはならないということなのです。もちろん、神様に「このようにしてください。」とお祈りするのは良いのです。しかし、神様を愛しもせず、神様に従おうともしないで、ただその力だけを利用するというのは、神様に仕えるのではなくて、神様を自分に仕えさせることになりますから、神様との関係が正反対になってしまうわけです。十戒の第三の戒は、このことを厳しく戒めたものなのです。ですから、十戒の第一の戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」と第二の戒「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」も、第三の戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」と同じことを告げているのです。

4.主イエスと一つにされた者
 14〜16節を見ますと、「ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。』そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。」とあります。どうしてユダヤ人がこのようなことをしていたのか分かりませんけれど、キプロス島で出会った魔術師もユダヤ人でしたから、魔術師・祈祷師にはユダヤ人も多かったのかもしれません。主イエスの名によって悪霊を追い出そうとしたら、逆に悪霊から「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と問い返されてしまったのです。そして、悪霊を追い出すどころか、逆に悪霊に取りつかれている男に飛びかかられ、押さえつけられ、ひどい目に遭わされた。彼らは裸にされ、傷つけられ、家から追い出されたというのです。このことは、主イエスの御名というものが、その人自身と結びつけられることによってしか意味をなさない、力を持たないということなのです。主イエスという名は、呪文とはなり得ないのです。主イエスというお方は、自分を受け入れ、自分を愛し、自分に仕えるのか、それとも自分を拒否するか、どちらかの態度決定を私共に求める、そういうお方なのです。悪霊に問われて、このユダヤ人の祈祷師は、主イエスとの関わりを何も答えることが出来なかったのでしょう。それで、悪霊に「何も恐れることはない」と判断されて、ひどい目に遭ったのです。
 前回、「主イエスの名による洗礼」ということを見ました。主イエスの名による洗礼によって、私共は主イエスというお方と一つに結ばれ、聖霊を注がれるということを学びました。もし、私共が悪霊から「お前は何者か。」と問われたならば、何と答えるでしょうか。これは重大な問いです。この問いにどう答えるかによって、私共に対して、悪霊が恐れを抱いて引き下がるか、恐れることなく飛びかかってくるかが決まるからです。「お前は何者か。」この問いに、職業を答えても意味がありません。自分が為してきた業績を答えても意味がありません。名刺に書いてある肩書きをいくら並べても意味がありません。日本人だと答えても意味を持たない。これに対して唯一力ある答えは、「私はキリストのものだ。主イエスの名によって洗礼を受けた者だ。」という答えであります。
 有名な話でありますが、宗教改革者ルターがサタンの試みにあった時のことです。ルターは信仰義認ということを語りました。これこそが主イエスによって与えられた救いの恵みであることを語ったわけですが、そのようなルターに「本当にそれで良いのか。行いがなくて救われるのか。信仰義認などと語るお前は何者なのか。」そうサタンは問うたそうです。その時ルターは、インク壺をサタンに投げつけ、そして「私は洗礼を受けた者だ。」そう叫んだと伝えられています。ルターはこの時、「私はイエス様を信じている者だ。」とは答えず、「洗礼を受けた者だ。」と答えたのです。これは、私共の思いとか、熱心とか、信じている気持ちとか、そういうものが「私は何者か。」という問いに対しては決定的な力とはならないのであって、洗礼という客観的な出来事こそサタンさえも否定することが出来ない力を持つということなのでありましょう。私共は主イエスの名によって洗礼を受けた者だ。キリスト者だ。キリストと一つにされた者だ。このことこそ、私とはいったい何者なのかという問いに対しての、最も根源的、最も力ある答えであるということなのです。この答えさえしっかり握っているならば、サタンさえも私共には指一本触れることは出来ないのです。それは、私共に力があるからではありません。私共と一つになってくださった主イエス・キリストの力が、私共を包んでくださるからなのです。

5.魔術・呪術との決別
 この出来事によって、悪霊に対しても主イエスの御名が力あるものであることが知られ、主イエスの名はいよいよあがめられるようになりました。これこそ御心に適うことでした。奇跡とは、実に、主の御名が高くされるために、神様によって為されるものなのです。
 また、この出来事によって、既に主イエスを信じていた人々の中にも、いよいよ信仰をはっきりさせる、信仰を徹底させる、そういう出来事が起きました。一つは、18節「自分の悪行をはっきり告白する」ということでした。この悪行が何を指しているのかと言いますと、普通に考えれば、今までしてきていた悪い行いを神様の御前に悔いて告白したということなのでしょう。しかし、次の19節との関連で考えるならば、この悪行とは魔術や呪術を行うということであったと考えて良いと思います。主イエス・キリストを信じて、主イエスの名による洗礼を受けておりながら、まだ魔術や呪術をしている人たちがいたのです。ここでその人たちが、魔術や呪術などからもう足を洗うということを告白したということです。そして、そのしるしとして、魔術の本を皆の前で焼いたのです。もう魔術・呪術の類は行いません。その意思表示として、魔術の本を焼いたということなのです。この本の値段は銀貨5万枚であったといいます。銀貨一枚は一日の労働賃金ですので、今のお金にしますと、2億円以上になるでしょうか。これは大変な金額です。これほど高価な本を焼いてしまうほどに、魔術・呪術への決別の意思がはっきりしたということなのでしょう。この高価な本を焼いてしまうほどに、お金や富よりも大切なことがあるということをはっきりと知らされたのです。
 信仰の歩みを始めたばかりの頃、私は、占いとか、お守りとか、初詣とか、今までしていた習慣と決別するということを、何か「どうしてもしなければいけないこと」として受け取っていたところがありました。しかし、自分は主イエス・キリストのものとされている、神様の御栄光のために神様の御業にお仕えすることが私の人生なのだ、このことがはっきり分かってくるならば、そのようなものからは遠ざかるということは、当たり前のこととして為されるようになりました。私共は、主イエスの名によって洗礼を受け、主イエスと一つに結ばれた者です。ですから、主イエスと共に、主イエスの力と祝福とを受けて、一日一日を歩んでいるのです。
 この礼拝の最後に、私共は、父と子と聖霊の御名による祝福を受けて、この場よりそれぞれの場に遣わされて行きます。この祝福は、私共がどのような困難の中を歩む時にも、取り去られることは決してないのです。たとえ悪しき霊が私共を試み、誘惑しようとしても、主イエスの御名が私共を守ります。私共はただ、自分が何者であるか、このことだけを忘れないでいれば良いのです。私共は、主イエスの名によって洗礼を受けた者、主イエスと一つに結び合わされた者、キリスト者なのです。陰府の力も、これに対抗することは出来ません。
 主イエスの守りの中、主イエスの御名によって祈りつつ、主イエスの御名をほめたたえて、この一週も遣わされた場において、健やかに歩んでまいりましょう。

[2010年2月28日]

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