1.アテネに
逃げるようにしてベレアを離れたパウロは、アテネに着きました。一方、シラスとテモテはベレアに残りました。それは多分、ベレアの町で主イエスを信じるようになった人々に、シラスとテモテは主イエスの福音を余すことなく伝えるためであったと思います。パウロはテサロニケからやって来たユダヤ人たちの標的になっておりましたので、ベレアに残ることは出来なかったのです。ベレアからアテネには船で行ったと思われます。距離にすれば300kmほどでしょうか。テサロニケのユダヤ人たちが追って来ることはないであろうと思われるほど、十分遠方まで来たのです。
アテネ。私共でも知っている古代ギリシャ文明の中心地です。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者たちが活躍した町です。パウロの時代、その栄光はもうありませんでした。彼らが活躍したのはパウロよりも500年ほど前のことだったのです。しかしそれでも、「学問をするならアテネ」というのは当時のローマ帝国の中での常識でした。当時の哲学の主流、それはエピクロス派とストア派でした。
この学問の町アテネで、パウロは伝道いたしました。ここでの伝道は、今までのパウロの伝道の仕方と少し違います。今までは、ユダヤ人の会堂で、既に聖書を知っている人々を相手に為されたものでした。このアテネでもそのような営みは続けられておりましたけれど、このアテネの町では、それとは別に、聖書を全く知らない、そして既に立派な哲学を持ち、世界とは、人生とはということに見識を持っている、いわば当時のインテリ、ギリシャ文化の中枢に向かって伝道したのです。それ故、ここでのパウロの説教は、キリスト教会における伝道説教の典型とも言われるのです。聖書を知らない人にどうやって主イエスの福音を伝えていくのか。これは、私共日本のキリスト者にとって最も重大なテーマと言って良いでしょう。ここには、その一つの答えが示されている。少なくとも、パウロという偉大な伝道者が、この課題にどのようにアプローチしたのか、それがここには示されているわけです。
2.パウロの憤慨
彼が何をアテネで語ったかを見る前にまず、このアテネの町に着いたパウロの行動を見てみましょう。
16節「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」とあります。パウロはアテネの町で、ベレアに残したテモテとシラスが来るのを待っていたのです。知っている人が誰もいない町アテネで、パウロは何日か日を過ごしました。そして、この町の至るところに偶像があるのを見て腹を立てたというのです。当時のアテネの町には、そこに住む人よりも多くの神々の像があったと言われています。ギリシャの宗教は、ギリシャ神話をベースにした多神教ですから、太陽、月、星も神様と結びついていますし、風や雨や嵐といったものも神様と結びついています。当然、病気を治してくれる神様もいます。つまり、月の神様、火星の神様、水の神様、風の神様、お酒の神様といった具合に、すべてに神様が付いているわけです。その神様が石に刻まれ、町のあちこちにあった。日本人に分かりやすいイメージにするならば、お地蔵さんが辻々にある、通りを挟んで向かい合ってある、といった具合に町中にあふれている、そんな光景を考えていただければ良いかと思います。この偶像礼拝の根本は、神様の御前に額ずくというものではなくて、神様を自分の欲望や願いの実現のために利用するというものです。この神様に対しての姿勢こそ、最も聖書の信仰と対立するところなのです。
私が大変興味を持ったのは、パウロはそれを見て憤慨した、腹を立てたということなのです。どうでしょうか。アテネの状況と日本の状況とそれほど違わないのではないかと思いますが、私共は腹を立てているでしょうか。私共は、このパウロのように腹を立てる人に出会ったら、「そんなことで腹など立てなさんな。あれはあれ、私たちの信仰は私たちの信仰。」そう言って、大人の対応をするのでしょう。しかし、私はこのパウロの心の動きにハッとさせられるのです。パウロのこの憤慨は、イスラエルの民が偶像礼拝に走った時に神様が持たれた憤りと重なるからです。この時のパウロの怒りとは、アテネに住む人もまた神様に愛され、主イエスの十字架によって神の子、神の僕として新しく生きる者へと召されているのに、一体何をしているのだという憤りだったのではないか。そして、偶像に対しての私共の大人の対応というものには、何かが欠けているのではないか、そう思わされたのです。愛する者が偶像を拝む姿に対して、私共は本当に心を痛め、嘆き、怒り、憤慨しているだろうか。もちろん、それを直接表に出すかどうかは別の問題です。このことは後で丁寧に見ます。しかし、パウロは憤慨したのです。それ故、この町の人々を偶像からまことの神に立ち帰らせるために伝道したのです。私共に欠けているのは、この熱さ、熱というものなのではないか、そう思うのです。
3.アゴラにて
17節「それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。」とあります。パウロは多分、安息日にはユダヤ人の会堂で、それ以外の日は広場で、アテネの人々と論じ合っていました。ここで広場と訳されている言葉はアゴラという言葉ですが、市場と訳される場合もあります。人が集まる場所です。ここで人々は哲学のこと、政治のこと、様々なことを議論していたのです。パウロだけが人々に議論を吹っ掛けていたということではありません。自分に思うところがある人はアゴラに来て、自分の意見、考えを語る。そして、そこにいる人々はその人と議論し、さらにその考えを発展させたりボツにしたりということが、学問の町アテネの、ソクラテスの時代から続く日常だったのです。議論や対話によって真理を明らかにしていくというヨーロッパの学問の伝統は、ここから来ているのです。どうも日本人は生産的な議論がまことに苦手ですが、それはこのような文化的背景がないからなのだろうと思います。
アゴラにおけるパウロの話は、人々の注目を集めたようです。21節に「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」とありますが、パウロの語る主イエスの福音は、アテネの人々がまだ聞いたことがない全く新しい教えでしたので、とにかく聞いてみようということになったのでしょう。そして、アゴラを見下ろす丘の上にあったアレオパゴスの評議所にパウロを連れて行き、その教えるところを聞こうということになったのです。ここまでは、パウロのアテネでの伝道は大成功だったと思います。伝道というのは聞いてもらわなければどうにもならないわけですが、パウロはアテネの町のおもだった人たちが集まる評議所で話す機会を与えられたのですから、これはもう大成功と言うべきでしょう。
4.アレオパゴスにて〜知られざる神〜
さてここから、パウロが語った内容を見ていくことにしましょう。
パウロはこう語り出します。22節「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」先程、パウロがアテネの偶像を見て憤慨したということを見ましたけれど、パウロはその怒りをぶつけるようなことはしないのです。とにかく話を聞いてもらわなければならないのですから、否定から始めては耳を閉ざされてしまいます。まずは肯定です。
そして23節「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」と続けます。この22、23節は、パウロの説教の導入部分と言われますが、私は単なる導入とは言えないと思います。特にこの23節で「あなたがたが拝んでいる知られざる神をお知らせしましょう。」というのは、すごいことだと思います。当時アテネには、この「知られざる神に」という祭壇がたくさんあった。アテネは多神教の偶像礼拝ですから、神様は無数にある。人間の考え、人間の欲の数だけある。しかし、どんなにたくさんあっても、それですべてとは言えない。まだ知らない神がいて、その神様が、「どうして自分のことは祭らないのか。」と言い、怒って害を加えられたらかなわない。それで「知られざる神に」という祭壇があったのでしょう。パウロはここで、この「知られざる神」こそが天地を造られた唯一の神であると語り始めたのです。ここでパウロがやって見せていることは、アテネの信仰を全部否定するのではなくて、それを受け入れて、それを新しくするということだったのです。こう言っても良い。パウロは、アテネの偶像礼拝さえもまことの神を受け入れるための準備段階と見なしたということです。アテネの人々の信仰とキリストの福音をどう繋げるのか、パウロがここでやっているのはそのことなのです。
日本のキリスト教はこれがまだ十分には出来ていません。富山新庄教会を開拓伝道された亀谷凌雲先生は、これを大胆に行った先駆者の一人です。浄土真宗のお寺に生まれた亀谷先生は、浄土真宗にキリスト教の準備としての宗教という位置付けをされたのです。私はそれがどこまでうまくいっているかは良く分かりません。しかし、この試みは、パウロがアテネで行って以来ずっと、キリスト教が新しい土地でその土地の文化と出会った時に行ってきたことだと言って良いと思います。キリスト教の葬式では献花を行いますが、これも、教会で焼香をするわけにもいかず、これに代わるものとして考え出された習慣なのです。日本のキリスト教は、やはり日本的にならざるを得ない面があるのです。しかし、その伝えるべき福音の内容においては少しも変わるものではないのです。
5.アレオパゴスにて〜唯一の神〜
さてパウロが語ったことは、第一に、神は天地万物を造られた方であり、この世界の主であるということです。すべての人の命も、民族も、国家も、すべてはこの方によって造られ支配されている。このような壮大な神をギリシャ人は知りませんでした。天地を造られた神であるなら、人の手で造った神殿の中に住むような小さな存在でないことは明らかであり、何か足りないものがあるかのように仕えてもらう必要もないのです。パウロはまず、天地を造られた神様ということを明らかにしました。私は、これは日本における伝道においても重要な点であると思っています。私は求道者の方と聖書を読む時、まず創世記から読みます。それから福音書に入ります。どっちが先か、それはいろいろ議論も出来ますが、創世記を読むことは、神様とはどのような方なのか、それは天地を造られた方である、このことを明確にするためにもどうしても必要なことだと思います。
日本においては、「神様」と言っただけでは、八百万の神様の一人として受けとめられるだけです。天地を造られた唯一の神様ということを明確にしておかないと、イエス様も「不思議な力を持っていて、死んでから神様に祭られた偉い人」の一人として受け取られかねないのです。それでは福音は伝わらないのです。
6.アレオパゴスにて〜インマヌエルの生ける神〜
次に、パウロは27節で、「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」と語ります。これもギリシャ人にとって驚くべきことでした。神は遠く離れているのではない。これはインマヌエルの神を語っているのでしょう。そして、その神は探し求めれば見いだすことが出来るというのです。もちろん、探し方が問題です。しかし、主イエスが「求めよ、さらば与えられん。探せ、されば見いださん。」と言われましたように、神様は私共が探し、求めるならば、見いだすことの出来る方なのです。「だから、神様を求めよ。」そうパウロは語りたかったのです。これは、求道者の方と話す時に大切なポイントの一つだと思います。神様を信じたい、しかし神様が分からない。そういう人に対して、私共は「神様はあなたと共におられます。だから、探し、求め、祈りなさい。そうすれば、必ず神様は応えてくださり、信仰が与えられます。」そう告げれば良いのです。そして、教会はそのように教えて来たのです。
次に29節です。「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」私共が神の子孫、神の子なのですから、神様を金、銀、石の像と同じものとは考えられません。私共が天地を造られた神の子であるということは、何と素晴らしいことでしょう。そして、私共が神の子であるなら、私共の父である神様がどうして命のない金や銀や石と同じでしょう。神様は生きている方なのです。
7.アレオパゴスにて〜悔い改めよ〜
そして、ついに本題に入ります。30節「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」とあります。パウロはここで悔い改めを求めるのです。ここでの悔い改めというのは、あれがいけなかった、これが駄目だったと反省をする、というようなことではないのです。偶像を拝んでいた歩みから、まことの神を拝む者へと方向転換する。神様を利用しようとする者から、まことの神様を信頼し、愛し、畏れ敬う者になるということであり、まことの神のもとに立ち帰るということなのです。これが悔い改めるということです。この悔い改めなしに、私共が神の子となり、神様の救いに与るということは出来ないのです。
すべての人を悔い改めへと導き、救うために、主イエス・キリストは来られました。この主イエス・キリストの十字架と復活を語らなければ、主イエスの福音を告げることにはなりません。パウロは一気にこれを語りました。しかし、死者の復活ということを聞くと、ある人はあざ笑ったのです。復活ということが信じ難いのは、今に限ったことではありません。これを聞いたとたんに、人々の反応が冷たくなったのです。ある人はあざ笑い、ある人は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう。」と言ったのです。「いずれまた」、この「いずれ」は二度と来ることのない「いずれ」です。
8.キリスト教の弁証
パウロの説教はこのような反応で終わりました。多くの人々は、パウロのこのアテネでの伝道は失敗であったと言います。確かに、アテネの哲学好きの人々を説得し、納得させ、回心させることは出来ませんでした。しかしここでも、キリストの福音を信じて受け入れた、二人の回心した人の名が記されています。アレオパゴスの評議員のディオニシオ、そしてダマリスという婦人です。さらに、「その他の人々もいた」とあります。ですから、このアテネでの伝道は、決して失敗なんかではなかったと言うべきだと思います。
私はこう考えています。パウロのアテネでの説教から、ギリシャ・ローマの社会・文化に対しての伝道は始まった。パウロはここで「知られざる神」を手がかりにして語ったのだけれど、これはまだ十分にアテネの人々を説得し、納得させることが出来なかった。当然と言えば当然です。しかし、この営みはこれ一回きりのことではありませんでした。この営みは、パウロの後もずっとキリストの教会において続けられていくこととなったのです。ギリシャの哲学も用い、文学も用いて、キリスト教を弁証し、伝道していく営みが、この後もずうっと続けられていきました。その中で、多くの神学者たちも生まれていったのです。伝道していけば、この異文化との折衝ということが必ず起きるし、していかなければならないのです。
そしてついに、キリスト教はすべてのギリシャ・ローマ文明を飲み尽くし、キリスト教文明を生み出していくこととなったのです。キリスト教は強靱な胃袋を持っています。日本におけるこの営みは、まだ始まったばかりです。日本の文化を飲み尽くし、食べ尽くし、新しい文化を生み出すほどの力が、キリスト教にはあるのです。ですから、しっかり主イエスへの信仰を保ちつつ、安心して、花・鳥・風・月を歌い、書を書き、花を生けたら良い。花鳥風月を歌いながら、それらのすべてを造られた神様をほめたたえる歌となっていくでしょう。
私共は今、日本における伝道を推進していく中で、日本のキリスト教文化を生み出していく長い長い途上にあるのです。
[2010年1月31日]
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