富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「すべての民の大きな喜び」
イザヤ書 60章1〜5a節
ルカによる福音書 2章1〜20節

小堀 康彦牧師

1.二人の受洗者
 今朝皆さんと一緒にクリスマスの礼拝を守ることが出来ますことを、本当にうれしく思います。今朝は教会の玄関で礼拝に来られる皆さんと、思わず「メリー・クリスマス!」と挨拶を交わしてしまいました。クリスマスはまことに喜ばしい日であります。特に今朝は、お二人の方が洗礼を受けられ、神の子、神の僕として新しく誕生いたします。これに勝る喜びはありません。女性の方たちですので年齢を言ってはいけないのかもしれませんけれど、Sさんは69歳で、Yさんは18歳です。結婚し、子供を育て上げ、孫もすでにいるSさんと、これから高校を卒業して大学生活を送ろうというYさん。Sさんは、キリスト教とはほとんど無縁の環境で育ち、生きてこられた方です。多分10年前には、自分も周りの人も、将来この方が洗礼を受け、キリスト者となるなどということは考えてもおられなかったでしょう。8年程前にこの教会の教会員である友人の方にキャンドルサービスに誘われて来たのがきっかけです。自覚的に礼拝に来られるようになったのは3年程前からでしょうか。Yさんの方は、両親がキリスト者であり、幼い時からこの教会の教会学校で育ってきた方で、本人も周りの者も、いつかは洗礼を受けるだろうと思っていた方です。全く違う環境で育ち、歩んできた二人が、こうして全く同時に洗礼を受ける。まことに不思議なことです。この不思議さは、神様の御業の不思議さなのでしょう。神様の御業というものは、私共の理解、私共の論理というものを超えていますから、神様の御業が現れる時、私共はいつも”不思議”という思いを抱くものなのです。洗礼は、本人が決断し申し出ていただかなければ受けることは出来ません。その意味では、確かに本人の決断によるのです。しかし、この決断に至るには、聖霊なる神様が働いてくださらなければ起き得ないのです。

2.神様の御業としての信仰
 先週長老会において、お二人の洗礼試問を行いました。Sさんは、68歳で亡くなった家族の方の年齢に自分が近づくに従って、自分の死というものを考える中で教会に来るようになったこと、またこのまま腰掛けているような信仰の歩みではいけないと思って、洗礼を決心したと証しをしてくださいました。また、Yさんは、4月から東京の大学へ行くことが決まり、牧師や父さんは東京に行くと教会へ行くかどうか分からないから、今のうちに洗礼を受けて教会にしっかりつながるようにと言われる。しかし、そのような言葉を聞きながら、「私は大丈夫。今までだって、両親が教会に来ているからということだけで教会に来ていたわけではない。それなりに友人からの誘いだって自分で断って、日曜日は教会に来ていた。だから東京に行っても大丈夫。洗礼を今受ける必要はない。」そう思っていたそうです。ところがある時、そう考えている自分は、イエス様を三度否んだペトロと同じではないか、そう気付いたそうです。死んでもイエス様に従いますと言っていたペトロが、主イエスが捕らえられると、「私はこの方を知らない。」と三度も主イエスを否んでしまった。そのペトロと今の自分は同じだと思ったというのです。そして、ペトロが信仰がなくならないように主イエスに祈っていただいたように、自分もイエス様に祈っていただこう。そのために洗礼を受け、しっかりイエス様につながろうと決心されたと証しされました。長老会は、このお二人の決断が神様のお働きによるものであることを認め、洗礼を受けることを認めたのです。
 あのマリアから生まれ、十字架に架かって死んだイエスが、まことに神の子であり、この方によって自分は救われたということを知る。それは、人間の知恵によって為せることではありません。神様が働いてくださらなければ、それは決して人間には明らかにされないことなのです。まして、この方と共にこれからの人生を歩んでいこうという決断は、聖霊の働きによるしかないのです。
 それは、主イエスが生まれた時にそれを祝った羊飼いも同じです。彼らは、救い主の誕生を自分で発見して拝みに行ったのではないのです。彼らは他の人と同じように、何も知らなかった。何も知らずに、いつもと同じように野宿をしながら羊の群れの番をしていると、いきなり天使が現れて、彼らに救い主の誕生を告げたのです。そして、その救い主のしるしは、「飼い葉桶の中に寝ている」ことだと教えたのです。そして、彼らは救い主を捜し出したのです。天使のお告げという、神様の不思議な御業がなければ、飼い葉桶に寝ている幼子が救い主であるなどと、どうして分かるでしょうか。これは、神様が働き、教えてくださらなければ、決して分からないことなのです。

3.すべての民の救い主
 全く違う歩みをしてきた二人が、今、全く同じ時に、同じ目的に向かっての道を歩み始める。そこにあるのは、私共の思いを超えた神様の御計画であります。二人は全く違う道をたどって、この同じ洗礼という信仰生活のスタートラインについた。それは、これからも二人は全く違う道を歩んでいくけれども、やがて神の国という同じゴールにたどり着くということをも示しているのです。
 私共も同じです。今朝ここには、すでに洗礼を受けキリスト者となっている人と、まだキリストを知らず、それ故洗礼を受けていない人がいます。それは、ほんの少し時間差があるということでしかないのです。救いに至るまでの道は違っていても、皆、神様の御計画の中で必ず救いへと、その完成へと導かれる、そう信じて良いのです。まだ洗礼を受けていない方を、教会では「未信者」と言います。これは、未だ信者になっていないということです。つまり、今は未だ信者になっていないけれども、やがて時が来れば信者となるであろう、そのことを信じ、期待しての呼び名なのです。どうしてそう考えるのか。それは、このクリスマスに生まれた主イエス・キリストというお方が、すべての民に与えられた救い主だからです。
 御子イエス・キリストがお生まれになった世界で最初のクリスマスの日、その喜びを最初に知らされたのは羊飼いでした。天使が野宿をしていた羊飼いに現れて、こう告げたのです。2章10〜11節「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」天使が告げたのは「民全体に与えられる大きな喜び」でした。この「民全体」という言葉は、「すべての民」と訳しても良いのです。「すべての民」というのは、そこから除かれる者はいないということです。150年前、日本には一人のキリスト者もいなかったのです。しかし今日、私共はこのようにクリスマスを喜び祝っています。「私の家は仏教です。」そんなことは関係ありません。「私は聖書を読んだことがありません。」そんなことも関係ありません。みんな、このクリスマスの喜びに招かれているのです。主イエス・キリストは、あなたがたのために、私共のために、私のために、生まれてくださったのです。今日洗礼を受けられるお二人の方は、このことをしっかり心に刻んで欲しい。主イエス・キリストは、あなたのために生まれたのです。あなたのために十字架に架かり、あなたのために三日目によみがえり、あなたのために今もそしてこれからも天にいて、すべてを支配し、聖霊を注ぎ続けてくださる。あなたがどんな苦しい嘆きの時を過ごす時も、主イエスはあなたと共におられるのです。

4.天上の喜びとしてのクリスマス
 クリスマスの喜び。それは、本来は天上の喜びなのです。主イエスがお生まれになった世界で最初のクリスマスには、ケーキもごちそうもイルミネーションもなく、サンタクロースも出て来ません。旅先で出産し、生まれたばかりの赤ちゃんを暖かい部屋に入れることも出来ない、まだ幼いと言っても良い程の若い夫婦、マリアとヨセフ。生まれたばかりの幼子を飼い葉桶に寝かさなければならなかったマリアとヨセフ。彼らはどんなに惨めな思いをしたことでしょう。そして、主イエスの誕生を祝いに来たのは、羊の臭いの付いた野良仕事の服のままの羊飼いたちだけでした。晴れがましいところなど、少しもありませんでした。しかしこの日、天使と天の軍勢は喜びの歌を歌っていたのです。天も裂けよとばかりに、歌ったのです。しかし、この天上の喜びの歌を聞いたのは、羊飼いたちだけでした。神様によって、神の御子の誕生という驚くべき出来事を知らされた者たちだけが、この天上の喜びの歌を聞いたのです。
 でもどうしてこの日、天上では天使たちが喜び祝ったのでしょうか。それは、天地を造られて以来の神様の救いの御計画が、ついに実現するその日だったからです。主イエスの誕生によって始まる神様の救いの御業、すべての民を闇から光へ、罪の嘆きから救いの喜びへ、死から命へ、サタンの手から神の御手へと取り戻す神様の救いの御業が開始されたからです。
 この天上の喜びは、ルカによる福音書15章7節にあります「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と告げられている喜びです。罪人が救われ、神様の御もとに戻る時、天上においては大きな喜びがある。天使たちは喜び、祝い、歌う。この神様の救いの御業が、クリスマスの日から始まったのです。だから、天上では喜びの歌が、神様をほめたたえる歌が、「天地よ裂けよ」と言わんばかりに鳴り響いたのです。
 二人の方が洗礼を受ける今朝この時、天上においては、最初のクリスマスの日に天使たちによって歌われたように、天使たちが、天の大軍が喜び歌っているに違いない。私共のクリスマスの喜びは、この天上の天使たちの喜びに巻き込まれた喜びであり、私共のささげる歌は、天上の歌声と一つになって神様にささげられていくのです。この天使の歌は勝利の歌です。神様の勝利を喜び歌っているのです。この二人の洗礼において明らかにされたことは、この神の勝利なのです。罪と闇と死と嘆きと絶望とサタンに対して、神様が勝利し、この二人の人を御自分のもとに取り戻されたからです。この世界にまだ闇はあります。戦争があり、飢えがあり、経済的不安があり、病があり、人間関係も難しい。しかし、救い主は来られました。まことの光であられる方が来られた。この光の前に、闇は退くしかないのです。私共はこの光の子とされているのです。もう闇を恐れることはありません。光の中を、光の子らしく歩んでまいりましょう。メリー・クリスマス!

[2009年12月20日]

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