富山鹿島町教会

礼拝説教

「福音による分裂」
エレミヤ書 21章8〜10節
使徒言行録 13章42節〜14章7節

小堀 康彦牧師

1.日本プロテスタント伝道150年
 先週、金沢教会で「プロテスタント伝道150年北陸の集い」が開かれ、講演者の一人として私共の教会の元教会員であった金沢教会の梅染長老が年表を作ってくださり、草創期の北陸の伝道についてお話しくださいました。1859年にヘボン、シモンズ、フルベッキといった宣教師たちが日本に上陸し福音を伝えてから、今年で150年目を迎えています。北陸においては、それよりちょうど20年遅れて、1879年(明治12年)にアメリカ長老教会のウィン宣教師夫妻が金沢に来て伝道を開始しました。ですから、北陸では今年で伝道130年となるわけです。その2年後に金沢教会が建てられます。更にその3年後、1884年(明治17年)には富山惣曲輪講議所(私共の教会のことです)が開設されました。ですから、私共の教会は今年で伝道開始から125年になるわけです。北陸では2番目に古い教会です。次の年には小松教会、その次の年には元町教会と続きます。そして1888年(明治21年)、ウィン宣教師夫妻に遅れること9年、カナダ・メソジストのマッケンジー宣教師が金沢に来ました。そして、次の年に現在の金沢長町教会を建てました。この宣教師たちの働きなくして私共の教会もありませんし、私共が福音に出会い、救いに与るということもありませんでした。もちろん、それは神様の業であったに違いありませんけれど、この方々の働きもまた、忘れてはならないことだと思います。
 当時の日本における宣教師たちの伝道は、まさに今朝与えられております使徒言行録に記されているような、反対、迫害といったものを伴っておりました。講演会を開けばヤジが飛ぶ。ヤジだけではなくて物も飛びました。伝道のために家を借りようとすれば「ヤソに貸す家はない。」と断られ、洗礼を受けた者は勘当され、村八分に遭う者も出ました。金沢にウィンたちが建てた愛真学校、これは男子校で、その3年後に建てた金沢女学校が今の北陸学院へとつながっていますが、この愛真学校は一度焼き討ちに遭っています。大変な時代でした。しかし彼らは福音を語ることを止めませんでした。どうしてでしょう。
それは実に簡単な理由です。自分たちが語ることを止めたなら、日本人は福音に出会うことが出来ず、救われないからです。神様は日本を愛し、ここに住む人々を主イエス・キリストによる救いに導くために自分たちを遣わされた。だから語ることを止めなかったのです。キリストによらなくても救われるなら、自分たちが語り、告げ知らせる福音以外のものでも救われるならば、そしてそれもまた神様の御心であるというのならば、彼らはそんな辛い思いをしてまで、日本での伝道に生涯をささげることはなかったでしょう。
 この福音によらなければ救われない。この福音によって私は救われたし、この日本に住む人々も救われる。そしてそれが神様の御心であると信じたが故に、彼らは遙か日本にまで来て、辛い目に遭いながらも福音を伝え続けたのです。私は改めて、自分もまた、この宣教師たちと同じ神様の御心の中で生かされている者だと思わされました。そしてそれは、使徒言行録に記されているパウロやバルナバの歩みと少しも変わらないのです。13章46節「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。」そうパウロは宣言しました。その宣言通りパウロは異邦人伝道へと歩みを進めたわけですが、この宣言はその後のキリストの教会に生き続け、遂に150年前に日本へと宣教師が来ることになったのです。

2.妬みによる排斥
 さて、パウロとバルナバは、アンティオキアを出発し、キプロス島に渡って伝道し、それから小アジアに再び渡って、ピシディア州のアンティオキアに来て伝道しました。その町のユダヤ人の会堂で、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝えたのです。先週は、この時のパウロの説教から御言葉を受けました。今日は、その後の出来事から御言葉を受けます。このパウロの説教は大変好評でした。42〜43節「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。」とあります。多分、パウロたちは安息日が終わっても、求められるままに主イエスの福音を語り続けたのだと思います。それがまた評判を呼んだのでしょう。44節には「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。」とあります。「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」というのは少し大げさではないかと思いますが、大変な人だかりが出来たのは間違いないでしょう。
 しかし、ここで問題が起きました。ユダヤ人たちがパウロの話すことに反対したのです。なぜか。それは、45節に「ねたみ」のためであったと聖書は告げております。どうしてユダヤ人たちはねたんだのか。理由はいくつか考えられます。一つは、いつもの安息日の礼拝には全く来ないような人たち、そのほとんどは異邦人だったと思いますが、そういう人たちが大勢パウロの話を聞きに来たので、ねたんだということです。しかし、もっと大きな理由は、パウロが語る福音の内容をねたんだということではないかと思います。パウロが語る主イエスの福音は、律法を守ることによるのではなく、ただ主イエス・キリストを信じるならば救われるというものでした。これは、律法を守ることによってのみ救われると考えていたユダヤ人にしてみれば、とんでもない内容だったのです。自分たちはユダヤ人である。自分たちは律法を守っている。だから救われる。そう考えていたユダヤ人にしてみれば、パウロの語る福音は、自分たちの誇りを全く意味のないものとしてしまう、自分たちの誇りを根本から砕いてしまう、そういう内容だったのです。だから彼らは「パウロの話すことに反対した」のだと思うのです。

3.人と比べてのプライドなど要りません
 驚くことはありません。主イエス・キリストによる福音が新しく告げられる所では、これは必ず起きる反応だからです。二千年の間、主イエスの福音が新しく告げられる所では、同じ事が必ず起きました。先程お話ししましたように、日本においてもそうでした。人は誰でも、自分の誇りというものを持っています。民族であれ、国であれ、階級であれ、職業であれ、自分には何の誇りもありません、という人はいません。しかし、キリストの福音は、この自分の中に大切に持っていた誇りというものを粉々に打ち砕いてしまう、そういう側面を持っているのです。なぜかと申しますと、神様が私共を愛してくださるのは、私共が○○であるから、あるいは自分が救われるのは自分が××であるから、あるいは自分が大した者であるのは自分が△△であるからという、その○○、××、あるいは△△を、全く必要ないものとしてしまうからです。この場合ですと、自分はユダヤ人であるから神様に愛されている、自分は律法を守っているから救われる、自分は神様を知っていて真面目に生きているから大した者なのだ、というような誇りを全く意味のないものとしてしまうのです。神様はユダヤ人だけを愛しているのではない。律法を守ることによってではなく、主イエスを信じることによって救われるのだ。これでは、真面目なユダヤ人は立つ瀬がないのです。だからパウロをねたみ、反対したのです。これはいつの時代、どの文化、どの国においても同じなのです。「日本は特別な国だ。神の国だ。」といっても、神様は天地の全てを造られたのですから、天地を造られた神様の御前においては特別でも何でもありません。自分は真面目に生きている。人様に迷惑を掛けるようなことはしていない。しかし、それでも神の国に入れるわけではありません。
 そもそも「真面目」というのも、人と比べて、ということでしょう。人の持つ誇りというものは、多くの場合、人と比べてどうだということでしかないものなのです。私が求道者の方と話をしていて、必ず出会う質問があります。それは、「先生はイエス様を信じればすべての罪は赦されると言うけれど、人殺しをした人でもですか。」というものです。私は当然、「その人が悔い改めて主イエスを信じるならば救われます。」と答えます。すると、「それはちょっと。」と言うのです。自分が悔い改めて、イエス様を信じて救われるのは良い。しかし、人殺しをするような悪人と自分が同じなのはおかしい、というのです。自分が人殺しをした人と同等になるのは、良い人であるという自分のプライドが許さないということなのでしょう。この人と比べて自分は良い人だ、大した者だというプライド、それは大変根深いものです。しかし、主イエスの福音は、そんなものは捨てなさい、そんなものでは救われません、神の国には入れません、そう告げるのです。だから、この時ユダヤ人は反対したのです。しかし、この主イエスの福音は、ユダヤ人という枠を超えておりますから、異邦人には大歓迎ということになったのだと思います。異邦人も主イエス・キリストを信じるならば救われるということなのですから、異邦人は喜んでパウロの語る福音を聞いたのです。48節「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」とある通りです。

4.主イエスの福音を信じる人と信じない人
 ただ、ここで注意しなければならないことは、ユダヤ人は反対して、異邦人は信じた、そんな風に図式化してはいけないということです。パウロたちはこのアンティオキアを追い出されて、次のイコニオンという町に行くのですが、もちろんそこでも彼らは主イエスの福音を宣べ伝えます。そして、そこで起きたことは、14章1節「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。」とあります。また、14章4節には「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。」ということなのです。つまり、ユダヤ人も異邦人も、信じる人は信じたし、信じない人は信じなかったのです。ユダヤ人も異邦人も、人と比べて優越感を持つような誇りは捨てなければなりません。主イエスの御前に、「自分は何もありません。ただ、あなたの愛、あなた憐れみ、あなたの力を信じ、依り頼みます。」と言って立つ。そうでなければ、主イエスの福音を受け入れ、その救いに与り、新しくされることはないのです。そこには、ユダヤ人も異邦人も区別はないのです。
 では、どうして主イエスの福音を受け入れる人と、これ受け入れずに反対し迫害する人が生まれるのか。私も伝道者として生きていて、いつも不思議なのです。二人に同じことを語っても、一人は信じ、一人は信じない。そういうことが起きるのです。正直な所、理由は分かりません。その人の性格だとか、生い立ちだとかで考えても説明し切れないでしょう。聖書はただこう言っています。48節中程「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」信仰を与えられた人とは、永遠の命を得るように定められている人だったというのです。ここから、神様の選びとか予定論という議論が生まれてくるわけです。しかし、誤解してはいけません。これは何も、神様がこの人は信じる人、この人は信じない人と、始めから決めているということではないのです。少なくとも人間には、この人はどっちだとは決して分かりません。分からないなら議論しても意味がなさそうですが、そうでもありません。この「永遠の命を得るように定められている人」というのは、救いに与った者が、自分が救いに与ったのはどうしてかと考えた時に与えられた理解の仕方なのです。律法を守ったから救われるというのであれば、私の努力、真面目さなどによって救われるということですが、主イエスの福音によって救われるというのは、自分の中には何もないのですから、何で救われたのか分からない。これは神様がそのように定めてくださったからとしか言いようがない。そういうことなのです。ですから、この神様がそのように定めてくださったからという神様の選び・神様の予定というものは、「ただ恵みによって救われた」ということの別の言い方と言っても良いのです。
 この神様の選び・予定によるならば、私共が救われた根拠は私共の中にはありませんから、逆に、決して揺らぐことのない救いの確信というものが私共に与えられることになるのです。私は、この神様によって救いへと定められた者として自分を受け取り直して以来、自分が救われるかどうか、そんなことは少しも考えなくなりました。救われるに決まっているのです。だったら、自分の関心はどこにあるかと言いますと、どのように神様の御業にお仕えすることが出来るのか、そのことだけなのです。パウロは43節後半「二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。」と、主イエスを受け入れた人々に語りました。主イエスの救いに与った者の関心は、この「神の恵みの下に生き続ける」こと、そこに向けられていくのでありましょう。こんなことをしたら救われない、バチが当たる。こんな私でも救われるのだろうか。そんな思いからは全く自由にされて歩むのです。こんな私を神様は愛してくださり、こんな私のために主イエスは十字架に架かり、復活してくださった。こんな私を神様は召し出してくださり、我が子よ、我が僕よ、と呼んでくださっている。まことにありがたいことです。

5.勇敢に語る
 パウロたちは、この主イエスの福音を「勇敢に語り」ました。この言葉は13章46節、14章3節に繰り返し用いられています。反対にあっている、迫害を受けている、その中で語るのですから、それは勇気のいることだったでしょう。この勇気はどこから出て来たのでしょうか。14章3節で聖書は、「主を頼みとして勇敢に語った。」と告げております。主イエスに救われた者は、自分の力を頼りとしません。自分の力によって救われたのではないことを、心の底から知らされているからです。主イエスの福音によって救われた者は、この自分を救ってくださった方の憐れみ、愛、そして力を信じるのです。主をより頼むのです。この時、自分の内から出て来るのではない、全く別の力が湧き上がってきます。それが、主を頼みとする時に与えられる勇気なのです。聖霊なる神さまによって与えられる勇気と言っても良いでしょう。
 この勇敢な主イエスを宣べ伝える言葉によって、分裂が生じました。14章4節「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。」とあります。悲しいことです。しかしこのことは、この罪人の生きる地上においては、必ず起きることなのでしょう。皆が主イエスを信じるわけではないのです。しかし、この地上における分裂は、やがて乗り超えられるものであると私は信じます。なぜなら、この時主イエスの福音を告げたパウロも、元は主イエスの福音を迫害する側にいた人だからです。私共は、この分裂の現実の中で落胆する必要はありません。この分裂は必ず乗り超えられていくからです。この分裂の現実を乗り超えていくために、私共はただ、自分を救ってくださった神様の愛と憐れみと力とを信じて、依り頼んで、勇敢に語り続けていけば良いのです。この分裂は、主イエスの福音を勇敢に語ったが故に起きたものですが、この分裂が乗り超えられていく道もまた、主イエスの福音を大胆に語り続けることによってのみ与えられていくものなのです。私共を救ってくださった神様が、私共の愛する一人一人を、私共が与った救いへと導いてくださらないはずがないからです。  

[2009年11月8日]

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