富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「父なる神様の天の住まいに迎えられ」
詩編 27編1〜14節
ヨハネによる福音書 14章1〜7節

小堀 康彦牧師

1.死ですべては終わらない
 今朝は召天者記念礼拝として、先にこの地上での生涯を閉じて天に召された方々を覚えて、礼拝をささげております。お手許にあります召天者の名簿の中に、自分の愛する人の名前を見つけ、その人の在りし日の姿を思い起こされている方も多いと思います。また、年に一度、この日だけ礼拝に集われるというご遺族の方も多いかと思います。今朝はそれらの方々とご一緒に、私共に約束されている希望とは何なのか、それを聖書から聞いてまいりたいと思います。
 私共は誰でも、やがて時が来ればこの地上での生涯を閉じなければなりません。例外はありません。誰でも死を迎えねばならない。しかし聖書は、それですべてが終わるのではないと告げております。私共は、「死んだらおしまいだ」という言葉を口にすることがあります。確かに、この地上の営みは死んだらおしまいです。仕事も趣味も家族との団らんも友との語らいも、死によって終わりを告げられます。しかし聖書は、それによって私共の命のすべてが終わるのではないと告げるのです。天国があると告げるのです。天の父なる神様の御許に、主イエスが備えてくださった住まいがあるのです。私共は、この地上の生涯が閉じられたら、そこに迎えられるのです。私共は、この聖書に記された神様の約束を信じております。

2.父の家の私たちのための場所
 今朝与えられている御言葉において、主イエスは言われました。1〜3節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」ここで主イエスは弟子たちに、父なる神様の家には住む所がたくさんあり、そこはあなたがたのための場所だ、その場所を用意するためにわたしは行く、と言われました。
 この主イエスの言葉は、13章から17章まで続いている、主イエスが十字架にお架かりになる前の日の夜、いわゆる最後の晩餐の時に語られた、長い説教の中の一節なのです。ですから、この主イエスの言葉はその前後の言葉と切り離して理解することは出来ません。主イエスはこの説教において、これから起こること、すなわち御自身が十字架にお架かりになることを告げられました。それだけではありません。十字架の後、三日目に復活されること、さらにその後天に昇られること、そして聖霊が弟子たちに降ること、つまり、十字架・復活・昇天・聖霊降臨という一連の救いの御業をお告げになったのです。しかし、弟子たちはこの時主イエスがお語りになられたことをきちんと理解できたかといえば、そうではありませんでした。
 3節の「行ってあなたがたのために場所を用意したら」と言われている、「行って」というのは何処に行くのか。これは、ある場所に行くということではなくて、十字架につけられ、復活し、天に昇って、聖霊を注ぐという一連の救いの出来事に向かって行くということを指し示しているのです。「あなたがたのために場所を用意する」というのは、イエス様が何か、天の神様の所に行って、天国を造成して、家を造って、カーテンもベッドもきれいに用意してと、そんなことではないのです。そうではなくて、イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになり、私共の一切の罪の裁きをその身に負ってくださり、それによって父なる神様と私共の間をとりなし、和解させてくださる。そのことによって、私共が父なる神様の御許に行くことが出来るようにしてくださるということなのです。イエス様が三日目に復活されることによって死を滅ぼし、私共もまた、とこしえに生きる者としてくださるということなのです。そして、イエス様が天に昇られた後、聖霊を注ぐことによって私共に信仰を与え、神の子、神の僕としてくださるということなのであります。
 ここでイエス様は、「あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と言われました。実に、イエス様によって用意された場所、天国と言っても良いですけれど、それはイエス様のおられる所なのであり、そこにおいて私共はイエス様と一緒にいることになるのです。イエス様は、十字架にお架かりになる前にこのことを告げられました。イエス様は弟子たちが、御自身の十字架の死によって、もうすべてが終わってしまったと思い、希望を失い、死の闇に飲み込まれてしまうことを心配して、こう言われたのでしょう。イエス様は、死というものがどれほど力があり、弟子たちに「もうダメだ」「全ては終わってしまった」と思わせるものであるかを御存知でした。ですから、ご自身が十字架の上で死ぬ前に、十字架の死によってすべてが終わるのではない、いや、そこから始まるのだということを、主イエスは弟子たちに教えられたのです。弟子たちは、主イエスと共に旅をしてきました。主イエスの声を聞き、主イエスの業を見、主イエスとの交わりの中に生きていました。死によって、主イエスを見たり、主イエスの声を聞いたり、主イエスに触れたりということは出来なくなります。しかし、この主イエスとの交わり、主イエス御自身と共にいること、御自身との交わりの中に生きていることは、十字架の死によっても少しも損なわれることはない。それどころか、その交わりは死を突き抜けてとこしえに続く、そのことを主イエスは弟子たちに告げられたのです。この主イエス・キリストとの死を超えて続く交わりこそ、私共に与えられている救いであり、天に備えられている住まいに迎えられるということであり、天国に入るということなのです。

3.天国とは天の教会のこと  ある方が、この天国とは天の教会のことだと言いました。なるほどと思いました。私共は、この地上においては、この教会に集い、礼拝をささげ、日々の歩みにおいて主イエスとの交わりの中に生かされています。この主イエスとの交わりが、私共の死によっても少しも崩れることなく、とこしえに続くとすれば、それはこの教会の交わりが死を超えて続くということでありましょう。主イエスは、何のために十字架に架かられ、復活し、天に昇り、聖霊を注がれたのでしょうか。それは勿論、私共を救うためです。しかし、それを別の表現で言うならば、キリストの教会を建てる為であったと言い換えることも出来ると思います。主イエスの一連の救いの御業によって、目に見える地上の教会だけではなく、天上の教会をも含めて建てられたのです。私共は、この地上の教会において主イエス・キリストとの交わりを与えられました。そして、死んで後は、天上の教会において主イエスとの交わりに生きるようになるということなのであります。それが「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」ということなのです。
 もちろん、地上の教会と天上の教会を全く同じに考えることは出来ません。地上の教会というものは、私共罪人の集いですから、やはり色々なことが起こるのです。面白くないことだってある。しかし、天上の教会には、人間的な争いなどは無いに決まっています。皆がキリストと似た者とされ、キリストのように愛し、キリストのように互いに仕え合うことになるからです。
 私共は、この地上の生涯においては、この教会において主イエスとの交わりを与えられました。主イエスに愛され、主イエスを愛する者として生きる者となりました。これが救われるということなのです。私共は、主の日のたびごとにここに集まり、父・子・精霊なる神様をほめたたえ、聖書を通して神様の言葉を聞き、祈りをささげます。そして、日々の歩みにおいても、聖書を開き、祈る。ここに主イエス・キリストとの交わり、父なる神様との交わりがあります。この交わりの中で地上の生涯を歩む時、私共は既に永遠の命に生きているのです。この地上の生涯において与えられた主イエスとの愛の交わり、父なる神様との愛の交わりは、私共の死によっても決して破られることはないからです。

4.人生に意味を与える永遠の愛の交わり
 先日、加藤和彦という音楽家が自殺をしました。テレビ等でも随分報道されましたので、皆様も御存知だと思います。私も若い時に、彼が作曲した曲を口ずさんでいた世代であり、本当に驚きました。そして、無念に思いました。その報道の中で、彼が残した遺書について触れているものがありました。正確ではないかもしれませんが、「自分が作った曲は、本当に必要なものだったのだろうか。」というような内容であったと思います。自分が作った曲、自分がしてきた仕事は、本当に必要なものだったのか。この問いは、重く、暗いものです。こんな問いを根本的な所で問われたら、誰も自分のしていること、してきたことに対して、自信を持って「これは必要なことだった」とは言えなくなってしまうのではないか、そう思いました。この問いは、自分という存在が本当に必要とされる存在なのか、或いは、自分の人生は本当に意味があるのか、そういう問いとも重なるでしょう。私はこの報道を聞きながら、この人は、死の闇、無意味という闇に飲み込まれてしまったと感じました。だからこの人は自殺してしまったのでしょう。まことに無念だと思いました。
 そして、この死の闇、無意味という闇に、人はどうして立ち向かうことが出来るのかと思いました。この闇は、老いという現実の中にも潜んでいますし、家庭で起きるトラブルの中にも潜んでいます。私共が生きていく中で大きく、深く苦しみ、嘆くとき、この闇は必ず頭をもたげてくるものなのです。自分が生きている意味はあるのか?自分の人生に意味はあるのか?価値があるのか?この深い闇から生まれてくる問いに対して、私共はどう答えるのでしょうか。この闇に飲み込まれないで踏みとどまり、この深い闇からの問いを退け、粉砕することの出来る答えはどこにあるのでしょうか。この答えは、天から注がれる光の中で神様の与える答えを告げる以外、この闇に対抗し、この闇を退けることは出来ません。その天上の光と共に与えられる神様の答えとは、「わたしがあなたを造り、命を与えた。わたしはあなたを愛している。その愛のしるしとして、わたしの愛する独り子、イエスを与えた。この愛の中に生きよ。」というものであります。この神様の言葉を聞き取る者は、自分は生きていて良い存在なのだ。自分の生涯がどんなにささやかなものであり、世間の人が認めてくれるような大したものではなかったとしても、神様は私を愛してくださっている。私を認めてくださっている。このことを知るのです。そして、この神様の愛だけが、死の闇、無意味という闇を打ち破る力があるのです。
 私共の人生に本当の意味を与え、本当の価値を与えてくれるのは、愛です。勿論、家族の愛も支えになりましょう。しかし、私共が死という現実に直面したとき、目に見える家族との交わりをも奪われようとするとき、それでも私共を守り、私共を覆い尽くす愛。それは神の愛なのです。私共は、この教会において、決して変わることのない、確かな力ある愛、永遠の愛、神の愛、主イエスの愛に触れるのです。これは、死を超え、死を打ち破るほどに力のある愛です。私共は、この愛の交わりの中に生きる者として召されている。まことにありがたいことです。今日私共が覚えて礼拝を守っている、先に天に召された方々もまた、皆、この愛に生きたのです。そして今も、天において、この愛の中に生きているのです。
 これは信ずべきことです。目で見、手で触れることが出来ないことですから、信じるしかありません。愛は、信じるしかない。信じる所にしか、愛の交わりは存在しないからです。妻との愛、夫との愛、子どもとの愛を、私共はどこで確認できるのでしょうか。百万本の薔薇の花があれば確認できるのでしょうか。そうではないでしょう。愛は信じるしかないのです。だから、主イエスは1節で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と告げられたのです。

5.主イエスによる救いの道、真理、命
 主イエスが、4節「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」と語られると、主イエスの弟子であったトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」と答えました。トマスは本当に分からなかったのだと思います。まだ、主イエスの十字架も復活も昇天も聖霊降臨もないのですから、トマスが分からなかったのも無理はありません。この時の主イエスの説教は、後になってこういうことだったのかと分かる、そういう語り方になっているからです。そのトマスに、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とお答えになりました。父なる神様の御許に行く、天の父なる神様のもとに備えられている住まいに行くためには、主イエスを通らなければ行くことは出来ないと主イエスは言われた。それは、自分の力で、自分で良き業を積み上げ、善男善女になって、天国に行くことは誰にも出来ないということなのです。私共は、天の父なる神様のもとにある住まいに自分の力で入れるほど、完全に正しい人にはなれないからです。しかし、その私共のために、主イエスは十字架に架かってくださいました。この主イエスの救いの御業を信じ、主イエスをより頼むならば、天の門は私共に開かれる。そう約束してくださいました。地上において主イエス・キリストを信じ、この方との愛の交わりの中に生きるならば、その交わりは私共の死によっても壊れることなく、私共の死を超えて、私共を天の父なる神様の住まいへと導くのです。それが、私共に与えられている救いの真理であり、救いへの道であり、救いによってもたらされる命なのです。

 今朝、聖書は私共に告げています。自らの死を思って、あるいは愛する者の死を思って、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、主イエスを信じなさい。」この神の言葉に対して、私共は「アーメン。主よ、信じます。」そうお答えするしかありません。こう答えることによって、私共は死を越えて、死に打ち勝った者として、神の国への歩みへと一歩を踏み出していくことが出来るのです。今日から始まる新しい一週が、主イエスとの生き生きとした交わりの中で営まれる、天の御国への確かな歩みとなるよう、心より祈りを合わせたいと思います。

[2009年10月25日]

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