1.アンティオキアの教会
異邦人キリスト者も含むあり方で成長を続けたアンティオキアの教会。この教会から、初めての宣教師、バルナバとサウロが派遣されました。この伝道旅行から、サウロはパウロというギリシャ風の名に変わります。9節に「パウロとも呼ばれていたサウロは」という言い方がされておりますが、これ以降はパウロと記述されていきます。異邦人への伝道者パウロの誕生です。使徒言行録は、これ以降パウロ行伝と言っても良いほど、パウロの伝道の記事を記していくことになります。もちろん、パウロに現れた神様の救いの御業を語っているわけです。神様の救いの御業というものは、具体的な人を起こし、その人を用いて為されていくのです。この神様の御用のために立てられた者が献身者であり、伝道者です。
バルナバとパウロを伝道のために派遣したアンティオキアの教会とはどんな教会だったのか、大変興味が湧きます。詳しいことは分かりませんけれど、今日与えられている御言葉からも幾つかのことが分かります。
第一に、5人もの預言者・教師を擁する教会であったということです。このように献身者・伝道者が与えられる教会、生み出す教会というのは、まことに神様に祝福され、神様の御用に用いられる教会なのだろうと思います。私共の教会は、戦後、五人の伝道者(北野牧師・釜土牧師・松原牧師・三羽牧師・矢部牧師)を生みました。また、最近では三人の牧師婦人(松原さん・風間さん・長田さん)を生みました。本当に素敵なことです。これからも伝道者・献身者が起こされるよう、祈っていきたいと思います。私共は、一教会一牧師というのが当たり前のように思っていますが、そんなことはないのです。伝道者が為すべきことは山ほどあります。どんどん献身者が与えられたいし、複数の伝道者を擁する教会でありたいと思うのです。今の教会財政では難しいということもあるでしょう。牧師館をどうするのかという問題もある。しかし、そのようなものは与えられるでしょう。そのようなことは大した問題ではないので。大切なことは、いよいよ主に用いられることを願い求める教会であるかどうかということなのです。教会の規模から言えば、副牧師や伝道師がいてもおかしくないところまで来ています。しかし、私共の願い、祈りがまだそうなっていない。まず、祈りにおいて満ちていかなければなりません。
第二に、この教会は多様な人々のいる教会であったということです。「バルナバ」は、エルサレムからアンティオキアに遣わされた、ギリシャ語を話すユダヤ人でした。出身はキプロス島です。次の、「ニゲルと呼ばれるシメオン」というのは、ニゲルが黒い人という意味ですから、アフリカ出身だったのでしょう。そして、シメオンはユダヤ的です。ですから、アフリカ出身でユダヤ教に改宗し、さらにキリスト教に改宗した人と考えられます。次に「キレネ人のルキオ」です。キレネも北アフリカの地方です。ルキオはラテン語の名前ですから、ローマ帝国の地中海に面する北フリカ出身のローマ人と考えられます。ですから多分、異邦人からの改宗者です。そして、「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」です。このヘロデとは、ヘロデ・アンティパスのことでしょう。彼は幼少期をローマで養育されました。その時に一緒に育ったのです。そして、「サウロ」。彼はユダヤ人の中のユダヤ人。キリスト教徒を迫害していた人でした。実に5人とも、出身地も、肌の色も、育った文化も宗教も違っていた人々。アンティオキアという大都会は、そのような人種のるつぼだったのでしょうが、このような多様な人々が、ただキリストの信仰において一つにされていた群れ。それがアンティオキアの教会だったのです。
第三に、祈る教会であったということです。祈らない教会などというものはありません。どの教会も祈るのです。しかし、この祈りに自分の全存在をかけて祈っているかどうかということです。それは、祈って神様に示されたことに本当に従っていく覚悟で祈っているかということです。本当に、神様に示された道に決断し、従っていくために御心を求めて祈っているかどうかということなのであります。アンティオキアの教会は祈った。2節には「主を礼拝し、断食していると」とあります。「断食していると」というのは、「断食して祈っていると」という意味です。3節には「彼らは断食して祈り」とあります。実にこの教会はよく祈った。そして示されたのが、バルナバとサウロを伝道のために遣わすということだったのです。彼ら、つまりアンティオキアの教会の人たちは、この聖霊が告げたことに従って、バルナバとサウロを遣わしたのです。ここで考えなければならないことは、この二人を遣わすということがアンティオキアの教会にとっては痛手であり、損失であったということなのです。それはそうでしょう。バルナバとパウロ。この二人はアンティオキアの教会の基礎を築いた伝道者です。この二人によって導かれ、信仰を与えられた者も少なくなかったでしょう。彼らがアンティオキアに留まっていれば、この教会は更に大きく成長するのではないか。そのような考え、計算が働いても当然でしょう。もっと言えば、彼ら二人を遣わすということになれば、その費用も出さなければなりません。しかし、アンティオキアの教会は二人を遣わしたのです。自分たちの教会にとって、役に立たない二人だから外に出したというのではないのです。最も有能な二人を、ただ神様が選ばれたが故に、伝道のために遣わしたのです。祈って神様に示された道だったからです。
ですから第四に、ここで明らかに示されていることは、アンティオキアの教会の教会の主は、神様であったということです。この5人の教師たちでもなければ、信徒たちでもない。主なる神様がこの教会を支配し、御自身が為そうとされる業のために用いられたということなのです。聖霊はこう告げたのです。2節「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」この主の御命令に教会は従ったのです。キリストの教会というものは、この神様の救いの御業にお仕えし、用いられるために立てられたものなのです。アンティオキアの教会は、そのことを身をもって示したのです。
2.私達の信仰のDNA
今日、皆さんの週報棚に入っていたと思いますが、「プロテスタント宣教150年 北陸の集い」のチラシが出来ました。日本の教会は、150年前に宣教師たちが来て伝道して始まったのです。この事実を私共は忘れてはならないのです。パウロとバルナバを伝道のために派遣したアンティオキアの教会のDNAはずっと続き、1800年後にこの日本に宣教師を送ってくれたのです。私が前任地の関西におりました時、何度も聞かされた宣教師の名前がありました。A.D.ヘール、J.B.ヘールという名前です。二人はカンバーランド長老教会の宣教師でした。今の大阪女学院を建て、大阪の南の方から和歌山そして三重と、紀伊半島をワラジで歩いて伝道し、教会を建てた。今、和歌山及び三重にある日本基督教団の教会は、すべてこのヘール宣教師兄弟によるものです。この二人は、神学校の教授として招かれたり、一時帰国した際には大会議長に選ばれるという、本国アメリカにおいてもなくてはならない二人だったのです。しかし、生涯日本の地方伝道のためにすべてをささげたのです。この二人は、トマス・ウィンとも親交が深かった人です。
この伝道のスピリットを、私共はアンティオキアの教会以来のDNAとして持っているのです。私共は、今のこの教会をどう大きく成長させていくかということばかり考えているような教会ではないのです。そんなことは、信仰のDNAが許さないのです。だから、北陸連合長老会を結成したのです。北陸全域の伝道を考え、実施していくためにです。どうか皆さんの日々の祈りの中に、伝道者が起こされること、新天地に向かって伝道を展開していくことを加えていって頂きたい。
皆がパウロやバルナバになるのではありません。パウロもバルナバも、神様によって選ばれ、立てられたのです。しかし、アンティオキアの教会の人々は、彼らを遣わし、彼らを支えることによって、同じ神様の救いの御業に仕えたのです。3節に「そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」とありますように、アンティオキアの教会がこの二人を遣わしたのです。パウロとバルナバは、自分たちがそうしたいから、伝道旅行に出発したというのではないのです。これはとても大切なことでしょう。伝道は聖霊なる神さまの業であり、教会の業なのです。個人の業ではありません。
3.キプロス伝道−魔術師のとの対決−
さて、バルナバとパウロは、まずキプロス島に行きました。このキプロス島はバルナバの出身地でしたから、バルナバの土地勘のある所、人のつながりのある所を選んだということだったのかもしれません。ここで二人は、いきなり異邦人伝道をしたというのではありませんでした。5節に「サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。」とあります。まず彼らは、ユダヤ人の会堂に行って、ユダヤ人に対して伝道したのです。「二人は、ヨハネを助手として連れていた。」とありますが、このヨハネはマルコによる福音書を記した人ですが、彼については、次の13節以降を学ぶ時に見ましょう。
このキプロス伝道において出会ったのが魔術師でした。6節に「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。」とあり、8節には「魔術師エリマ」というのが出てきます。二人は同一人物と考えて良いと思います。この魔術師は、地方総督セルギウス・パウルスと近しい関係にあった。多分、総督から相談を受けたり、総督に助言をするなどしていたのでしょう。この魔術師は地方総督の信頼を受けていたのです。しかし、この総督がパウロとバルナバの話を聞こうとすると、この魔術師が邪魔をしたのです。総督の信頼が、自分からパウロやバルナバの方に移るのを恐れたからでしょう。
そこでパウロはこの魔術師と対決することになった。9〜11節「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。『ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。』するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。」ここでパウロは、魔術師を「あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵」と言い放ちます。これは、誇張でも何でもありません。このことを私共はよくわきまえていなければなりません。私共は、フィリポがサマリア伝道において最初に会った敵も魔術師シモンであったことを知っています(使徒言行録8章9節以下)。主イエスの福音が伝わる時、この魔術というものは真っ向から敵対することになるのです。必ずそうなるのです。なぜならば、魔術というものは要するに、人間の知らない力を操り、人間の欲を満たそうとする手段のことなのです。この背景には、多神教、アニミズムといった宗教的環境があると言って良いと思います。主イエスの福音が伝わる時、ただ独りの神様の愛と真実による御支配というものが明らかになります。そこでは、魔術がその場所と意味を失うことになってしまうのです。私共を支配し、導いておられのは、ただ独りの天地を造られた神であり、その神様が愛と真実を私共を導いてくださっているのですから、私共は魔術を必要としなくなるのです。更に言えば、魔術は十戒違反ですから、どうしても魔術師とキリストの福音伝道者は対立するのです。
魔術といえば、私共は現代ではそんなものは関係ないと思っているかもしれませんが、占いとか姓名判断とか厄払いとか、そこら中にあるのです。私共は、そのようなものから自由になり、それらとは関わらないようになっているのでしょう。占いと私共の信仰は決して両立しません。占いが趣味などというキリスト者は、原理的にあり得ないのです。私共は占いによってではなく、祈りと御言葉によってのみ、神様の御心を知らされるからです。私は、この点においては潔癖であることが求められていると思っています。生ける神の御支配の中に生きる者が、どうして占いをすることが出来るのか、正直な所、私には分からないのです。私共にとって大切なこと、求めて止まないものは、神様の御用に用いられることであり、神様の御業が現れることであり、占いや魔術の類が与えようとする良きものではないからです。
パウロの言葉と共に、この魔術師は目が見えなくなりました。しかしこれは、「時が来るまで」という一時的なものでした。私はここで、パウロ自身の、あのダマスコ途上で回心した時のことを思い起こすのです。パウロも、神様によって目が見えなくなるという経験をいたしました。それはパウロが回心するために必要なことでした。私は、この時の魔術師も、回心することを求められたのではないか。そう思うのです。
4.キプロス伝道−聖霊によって−
総督は、この出来事を見て、パウロとバルナバの説く神様を信じました。彼は異邦人でありました。キプロスのユダヤ人の会堂における伝道における成果は何も告げられておりません。ただ、総督の回心だけがここに記されています。ですから、このキプロス伝道での成果は、この総督の回心ということだけだったのかもしれません。勿論、現代のように信仰が個人の問題とされている時代ではありませんから、総督の回心という出来事は、その後の多数の信仰者の誕生というものを予想させることではあります。
しかし、ここで私共が心に留めなければならないことは、このキプロス伝道というものは聖霊なる神さまによってなされたということなのです。聖書はそのことを告げているのです。このキプロス伝道は成功だったのか、失敗だったのか、そんな観点から聖書はキプロス伝道を記してはいないのです。そもそも、伝道の成功・失敗の基準とは何なのでしょうか。回心した人の人数なのでしょうか。聖書は、そのようなことに関心はありません。ただ、この伝道は終始聖霊なる神さまの導きの中で、ご支配の中でなされたのだと聖書が告げているのです。2節で「聖霊」によって選ばれたパウロとバルナバ、そして4節で「聖霊によって送り出された」パウロとバルナバでした。彼らはキプロスにおいて、聖霊によって語り、聖霊によって業を為し、主イエスの福音を証ししていったのです。主イエスの福音を伝えるというのは、いつでも「聖霊によって」なのです。パウロとバルナバがいかに有能であったかとか、そのようなことも、聖書は一言も語っていないのです。もちろん、私は彼らは大変有能な伝道者であったと思っています。しかし、伝道はその伝道者の有能さによって為されていくのではないのです。どこまでも聖霊によってなのです。
私共の教会は、来週、特別伝道礼拝を行います。葉書もチラシも作りました。私共はただ葉書を出すだけです。聖霊なる神様が働いてくださって、その人を礼拝へ連れて来てくださるのでしょう。私共はただ聖霊の働きを祈って、委ねれば良いのです。葉書を出したら、受け取った相手はどう思うか、そんなことを考える必要もないのです。考えても分からないのですから。ただ神様が働いてくださることを信じて、祈って委ねれば良いのです。福音は聖霊によってのみ伝えられていきます。私共も、聖霊なる神様の御支配のもと、福音を伝えていく業にただただ仕える。そのことにいよいよ励んでいきたいと心から願うものであります。
[2009年10月4日]
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