富山鹿島町教会

礼拝説教

「栄光は誰のものか」
イザヤ書 42節10〜13節
使徒言行録 12章20〜25節

小堀 康彦牧師

1.神様が世界を支配しておられる
 今朝与えられております御言葉が告げるメッセージは明確です。この世界を支配しているのは人間の王様ではなく、天地を造られた主イエス・キリストの父なる神様であるということであります。
 使徒言行録12章は、1〜2節「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」という、ヘロデ王による使徒ヤコブの殺害、キリスト教への迫害という出来事で始まっています。さらにヘロデ王は使徒ペトロも捕らえますが、ペトロは天使によって牢から救い出され、ヘロデ王は急死してしまう。そして、24節で「神の言葉はますます栄え、広がって行った。」と告げるのです。つまり、この使徒言行録12章は、当時ユダヤを支配していたヘロデ王によってキリスト教は迫害されたけれども、そのキリスト教を迫害したヘロデ王は天使によって倒された。そして、神の言葉はますます広がって行ったと語ることにより、この神の言葉が広がっていくことを止めることは誰にも出来なかった。なぜならこの世界を支配し歴史を支配しているのは目に見える人間の王ではなく、神様だからであると告げているのです。

2.ヘロデ王の死
 ヘロデ王の死、それは紀元後44年の出来事であったことが知られています。ヘロデ王が、ローマ皇帝クラウディウスによって全パレスチナの支配を認められたのが41年のことでした。彼は、祖父に当たるヘロデ大王の死後三つに分かれていたパレスチナ地域を、再び統一して支配することを認められたのです。彼は、大王と呼ばれた祖父のように、自分もまた、大王と呼ばれるべき王であると思っていたのではないでしょうか。しかし、彼はたった3年後に突然の死を迎えたのです。これは、使徒ヤコブが殺されてから一年ほど後のことであったと考えられています。聖書はここで明確に、このヘロデ王の突然の死は偶然ではなく、神様の裁きによるものであると告げているのです。ヘロデ王は使徒ヤコブを殺しました。キリスト教徒を迫害しました。使徒ペトロを捕らえ、これもまた殺そうとしました。そして、ペトロが天使によって助け出されると、これを見張る役を負っていた番兵たち、それは4節には四人一組の兵士四組であったと記されていますから16人の兵士たちですが、彼らを殺したことが19節に記されています。ヘロデ王はこれらの報いを受けて神様に裁かれた、で十分だとも思いますが、聖書はもっと明確にヘロデ王が神様に裁かれて死んだ理由を告げています。
 21〜23節に「定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。」とあり、ヘロデが神様の裁きを受けた理由は、「神に栄光を帰さなかったからである。」とはっきり記されています。ヘロデ王が演説をした。それを人々が「神の声だ。人間の声ではない。」と言って持ち上げた。ヘロデ王はそれを否定しなかった。ヘロデ王は自分が神として崇められることを良しとしたのです。これこそ、神様がヘロデ王を撃たれた理由だったと聖書は告げているのです。人間は神とされてはならないし、人間を神としてはならないのです。これは十戒の第一の戒「あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない。」と第二の戒「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。」に真っ向から対立するからです。ヘロデ王が為した数々の恐ろしい罪、使徒ヤコブの殺害、キリスト教の迫害、ペトロの捕縛、番兵16名の死刑、それらの元になっているのが、この自分を神様であるかのごとく考えるという過ち、罪であったということなのでしょう。自分を神様のごとく考えるという過ちは、まことの神様と対立し、これに逆らうという結果に必ずなります。
 ここに記されているヘロデ王の死については、ヨセフスという当時の歴史家が書いたものにも記されています。少し長いですが引用してみます。ルカの記事を補完するように読めると思います。その本には、「アグリッパはカイサリアでローマ皇帝のために見せ物を公開し、この見せ物を皇帝の幸福の祝典として始めた。」当時、お祭りには必ず見せ物がありました。これはコロシアムで行われる剣闘士による戦いであったり、馬車での競走であったりするわけです。こういう場において王は庶民と直接顔を合わせますし、競技が始まる前に、その主催者として王が演説を行うということも普通でした。聖書が示す、ティルスとシドンの住民との面会の場というのも、このような場であったのかもしれません。ヨセフスの記事に戻りますと、「ヘロデ・アグリッパ王は、全身、銀で作られた織物の衣裳をまとい、入場した。すると、その姿は太陽の光に輝き、人々に畏れの念を起こさせ、たちまち、あちこちからへつらう人たちが叫び声を上げた。…彼らは、王を神と呼び、『わたしたちに恵みを垂れてください。これまでわたしたちはあなたを人として敬ってきましたが、これからはあなたを人間以上のお方と認めます。』と叫んで、呼びかけた。王は彼らをなじらず、その不敵な追従をしりぞけなかった。…すると王は激しい腹痛を起こしたが、それは極めて猛烈な発作に始まった。…そこで王はすぐに王宮に運ばれ、…そして、五日間続けざまに腹痛で苦しんで、死去した。享年54歳のことであった。」一説では、この腹痛はサナダムシによるものであるとも言われます。そうすると、ルカの「蛆に食い荒らされて息絶えた。」というのと重なります。
 どうでしょうか。ほとんど同じ視点で記されているでしょう。ヘロデ王は、自らが神と祭り上げられるのを拒まなかった。それ故に神の怒りを買って死んだ、ということなのです。

3.三人のヘロデ王
 さて、先週も申しましたが、新約聖書にヘロデ王というのは三人おります。何の注もなく、ただ「ヘロデ王は」と出て来ますので、同一人物ではないかと勘違いしてしまいそうですが、時代が違いますので同じ人物ではあり得ません。しかし、私共が同じ人物と勘違いしてしまうのには、それなりの理由があります。それは、この三人のヘロデ王が、同一人物ではないかと思えるほどに、神様に対して、主イエスに対して敵対し、主イエスを亡き者にしようと働くのです。
 最初は、マタイによる福音書2章に出て来る、ヘロデです。彼はヘロデ大王と呼ばれました。彼は、救い主が生まれたと聞くと、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺したのです。何ということをするのでしょう。彼は、東方の学者たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」といった、この言葉を聞き逃すことは出来なかったのです。「ユダヤ人の王」、それは自分だ。自分しかいない。自分以外の者がユダヤ人の王になってはならない。もし、そんな男の子が生まれたなら殺してしまえ。彼は、救い主の誕生を喜び祝うどころか、亡き者にしようとしたのです。
 次の王は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスです。彼は、ヘロデ大王の死後三つに分割された領土の一つ、ガリラヤとペレアの地方の領主でした。ルカによる福音書23章6〜12節には、主イエスが十字架にお架かりになる時、彼が、ピラトのもとから送られてきた主イエスを尋問し、主イエスを侮辱し、ピラトのもとに送り返したと記されています。
 そして、今日のヘロデ王です。彼は、ヘロデ大王の孫であり、ヘロデ・アンティパスの甥で、ヘロデ大王のもう一人の息子アリストブロスの息子でした。ヘロデ・アグリッパ一世です。
 この三人のヘロデ王は、あからさまに主イエスに敵対したのです。主イエスを亡き者にしようとしたのです。それは、自分こそが王であり、支配者であり、自分をも支配されるまことの王、天地を造り、全てを支配される神様を認めることが出来なかったからなのです。彼らにしてみれば、ユダヤの支配者・ユダヤ人の王は自分であり、自分の上に君臨する者がいるとすれば、それはローマ皇帝以外にありませんでした。ヘロデは、自分は小さな神であり、ローマ皇帝こそ大いなる神と呼ばれるべき方と考えていたのではないでしょうか。

4.回心
 もう既にこの時、ローマ皇帝を神として拝むということが起きていました。ギリシャ・ローマの文化は多神教です。多神教の世界では、偉大な人間は神になるのです。これは日本でも同じでしょう。私が育った町に、乃木神社というのがありました。私の姉はそこで結婚式をしたのですが、まだ中学生であった私は、どうして明治時代の乃木大将という人が神様になってしまうのか、不思議で仕方がありませんでした。明治神宮も、護国神社も、同じでしょう。多神教の世界では、人間が神となるのに、何の不思議もないのです。人間だけではありません。動物でも植物でも神様になってしまうのです。
 ティルスとシドンは、古くからある港町です。貿易港です。彼らは食糧をヘロデ王の支配する地域に頼っていました。ですから、どうしてもヘロデ王の機嫌を損ねたままでいることが出来ず、侍従ブラストに取り入ってまで何とかしなければならなかったのです。彼らにしてみれば、ヘロデ王を神として持ち上げることなど何でもなかったでしょう。これで食糧が手に入るならば、お安い御用といったところだったと思います。しかし、神様はそのようには見られなかったのです。ヘロデ王はこの時、自分を神として賞賛する声を拒みませんでした。拒むどころか、心地良く聞いていたに違いありません。ヘロデ王をこの時「神の声だ」と賞賛した人々も、ヘロデ王が喜ぶに違いないと考えて、このようにほめたのです。皆で口を揃えて、そう叫んだのです。ヘロデ王を神と呼ぶことに、彼らは何の抵抗もなかったのです。
 しかし、聖書が私共に示す世界は、これとは違います。人間が神になることはありませんし、それは最も恐ろしい罪なのです。ヘロデ王は自分を神とする人々の賞賛を拒まなかったので、主の天使によって撃たれて死んでしまいました。主イエスの弟子たちも、いつも危険の中に身を置いていました。彼らが神様の御力によって不思議な業を為すと、人々は使徒たちを神様と言って崇めるということが自然に起きたからです。この時、使徒達はどのように対応したでしょうか。
 ペトロは、10章26節で、コルネリウスが足もとにひれ伏して拝むと、彼はこう言いました。「お立ちください。わたしもただの人間です。」 またパウロは、14章で、リストラという町で生まれつき足の不自由な男を立たせるという奇跡を行った後、群衆がパウロとバルナバを神と呼び、二人にいけにえの牛をささげようとまでしました。この時パウロとバルナバは、15節で「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。」と告げました。使徒たちは、自分たちを神と崇めようとする人々に対して、天地を造られた神様はただ独りであり、自分たちはこの唯一の神の僕であることを証ししていったのです。
 使徒達は、人間が平気で神になってしまう世界から、神は唯一であって、この方だけがほめたたえられる世界への転換を求めたのです。この転換こそ、回心と言うべきものなのです。これは、単に人間を神として崇めないということではなくて、自分もまた神の栄光を求め願う者となるということでもあるのです。それまでは、自分が人々に賞賛され、人の上に立ち、富を持ち、権力を手に入れることを求めていた。しかし、もはや、そのようなものは塵、芥にすぎず、自分はただ神様の栄光が顕れることだけを求めて生きる者となる。これが私共の回心なのです。この転換は、私共の人生を根本から変えていくものなのです。もはや、私共は小さなヘロデにはならない。私の人生の主人は自分ではなく、天地を造られた神様である。私の時間も、富も、能力も、すべては神様のもの。どうぞ主の御用のために用いてください。そのように願い、祈る者へと変えられるのです。生きる世界が変わってしまうのです。

5.神にのみ栄光あれ
 「神にのみ栄光あれ。」これは、私共の教会の伝統である長老派・改革派の教会においては、標語のようになっていると言って良いでしょう。長老派教会の代表的信仰告白の一つ、ウェストミンスター小教理問答は、こう始まっています。問一「人のおもな目的は何ですか。」答「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」とても有名な、そして素敵な言葉です。私共が生きる目的は、自らの富や地位や名声を得ることではない。そうではなくて、神様の栄光をあらわすために仕えることであり、神を喜ぶことだというのです。ここには、回心した者の姿があります。その人生が、目的から、根本から転換してしまった者の姿が示しています。
 私は、信仰を与えられ、この「神の栄光のために」ということが自分の人生の根本に据えられたことを喜びをもって知った時、幼い時から誰に聞いても答えてもらったことのない問いに答えを与えられたような喜びを覚えました。まだ学生であった頃の話しです。これにより、すべての「何のために」という問いに対しての答えが与えられたのです。全ての答えは、これ一本で良いのだと思わされました。自分は何のために勉強しなければならないのか?神の栄光のために!です。自分はどうして、何のために働くのか?神の栄光のために!です。どうして自分は奉仕するのか?神の栄光のために!です。自分はどうして結婚するのか?神の栄光のために!です。どうして子どもを育てるのか?神の栄光のために!です。何のために、何を求めて、これをするのかという問いに対して、この「神の栄光のために」は、見事に答えを与えてくれるのです。
 もちろん、この答えですべてが解決されたわけではありません。なぜなら、この「神の栄光のために!」という答えを与えられた後に、「これが本当に神の栄光のためになるのか?」という問いが生まれてくるからです。神の栄光のためではなく、自分の栄光のためだけにしているのではないか?そのような疑問、後ろめたさが、次の課題として私共の中に湧いてくるからです。「神の栄光のために!」で始めた業が、いつの間にか「自分の栄光のために」に変質してしまう。私共は、誰でもその危険の中にいるのでしょう。このことは、私共の回心というものは、一回すればそれですべて終わりというものではなくて、神の国に入るその日まで回心し続けなければならない、悔い改め続けなければならないということを示しているのでしょう。ヘロデ的なるものが、私共の中にはうごめいていて、いつでも頭をもたげてくる。そして、いつの間にか神の僕ではなくて、自分こそが神、自分こそが人生の主人になってしまう。その危険の中に私共はいるのです。しかし、私共はこの誘惑、罪の誘いと戦い、これに勝利していかなければならないのです。それが、神の国へと招かれている私共の為すべき務めだからです。

[2009年9月27日]

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