1.神の子として、神の僕として
キリスト者とは、主イエス・キリストの救いに与り、神の子、神の僕とされた者です。私共は神の子とされ、神様に対して「アバ、父よ」と祈ることが出来る者とされました。神様との親しい交わりの中に生き、主イエスの復活の命、永遠の命に与る者とされた。そして、神の僕として神様の救いの御業にお仕えする者となりました。この「神の子」であり、「神の僕」であるという二つのことは、決して切り離すことは出来ません。自分は神の子としての救いの恵みに与ってはいるが、神の僕として神様の御業にお仕えするのは嫌だ、そんなことはしない。あるいは、神様の御業にお仕えはするけれど、神の子とされている救いの喜びは知らない。そんなことはあり得ないことなのです。神の子であり、神の僕である。この二つのことは、神様の救いに与っている者の二つの側面であって、決して分けることは出来ないものなのです。
ただ、この二つは分けることは出来ないといっても、この二つの間には順序と申しますか、秩序というものはあります。それは、第一に神の子であり、第二に神の僕であるということです。主イエス・キリストの十字架と復活の救いに与り、神の子とされた。この救いの恵み、救いの喜びの中、神の僕としての歩みへと押し出されていくのです。
今朝与えられている御言葉において、使徒パウロは、神の子、神の僕とされた者として、その恵みを私共に証言しております。この使徒パウロの言葉に耳を傾けながら、私共に与えられている救いの恵みを新しく心に刻み、共に心から主をほめたたえたいと願っております。
2.伝道の苦しみ、教会のための苦しみ
24節「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」ているとパウロは告げます。苦しむことを喜びとしている。まことに不思議な言葉です。誰でも苦しむことは嫌でしょう。苦しむことを喜ぶなどというのは、パウロは少し変なのではないか。そう思うかもしれません。確かに、ここにある言葉は、私共の通常の常識では理解不能な言葉です。しかし、不愉快な言葉ではありません。私共も又、苦しみに負けない、苦しみの中でもなお喜べる、そのような者になれるのではないか、そのような世界が私共の前に広がっていくのではないか、そんな期待を持たせる言葉です。なぜ、ここでパウロはこのように語ることが出来たのでしょうか。このことが分かれば、私共にもそのような世界が広がるかもしれません。この言葉に、しばらく思いを巡らしてみましょう。
ここでまず注目しなければならないのは、この苦しみが、「あなたがたのため」の苦しみであるということです。私共が普通「苦しむ」「苦しみ」ということでイメージするのは、病気とか、お金の心配とか、老いの問題といったことではないかと思います。病気を喜ぶ、そんな人はいません。しかし、ここでパウロが「喜ぶ」と言っている苦しみは、「あなたがたのために」苦しむと言うように、その苦しみの原因、目的、誰のためかということがはっきりしているということなのです。更にこの言葉は、「キリストの体である教会のために」と続きます。パウロがここで喜んでいる苦しみ、あなた方のための苦しみとは、教会の為の苦しみなのです。29節を見ますと、「このために、わたしは労苦しており」とあります。「このための労苦」とは、その前、28節の「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。」とあって、「このために」パウロは労苦しているのです。そして、その労苦を喜んでいる。そうパウロは告げているのです。つまりここで語られているパウロの苦しみとは、伝道の為の労苦、教会を建てていく牧会の為の労苦と言い換えても良いでしょう。
実際、パウロはこの時牢獄の中にいたのです。この手紙の最後、4章18節には「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。」とあります。彼は、捕らわれの身となっている中で、この手紙を書いているのです。彼はなぜ捕らわれの身となったのか。この辺の事情は、使徒言行録21章27節以下に記されていますけれど、要するにキリスト教を伝道したからです。勿論、コロサイの教会の人達にだけパウロは伝道したわけではありませんから、コロサイの教会の人達に伝道したから捕らわれの身になったとは言えないかもしれませんけれど、コロサイの教会の人達に福音を伝えるということもまたパウロが捕らわれの身となった理由の一つではあるわけです。パウロは、キリスト教を伝道したが故に捕らわれの身となっている。その状況の中で、自分は教会の為に、伝道の為に労苦しているがそれを喜んでいる、そう語っているのです。それは、「コロサイの教会の人達、私はあなた達にキリストの福音を伝えたけれど、それ故に今捕らわれの身となっている。しんし、私はそのことを喜んでいる。」ということでありましょう。
3.キリストの苦しみと一つにされる栄光
どうしてそこまで言えるのか。それは、24節後半「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」とあります。自分の苦しみはキリストの苦しみと一つであり、キリストに代わって苦しんでいる。そう言うのです。自分の苦しみは、自分だけの苦しみではない。キリストの苦しみと一つにされていると言うのです。多くの場合、苦しみは私共を孤独にします。私だけがこんなに苦しんでいる。どうして私だけなのか。私の苦しみは、誰も分かってくれない。そんな思いに駆られるものです。苦しみの本当の闇は、この孤独にあると言っても良い程であります。しかしパウロは、そうではないと言うのです。彼は、苦しみの中でなお孤独になっていないのです。
この「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」という言葉は、少し説明が要るかもしれません。この言葉は、キリストの十字架が完全ではなく、それ故にパウロが自らの苦しみをもって補わなければならない、そういう意味ではもちろんありません。キリストの十字架は私共を救うのに十分であり、完全であります。ここでパウロが語ろうとしたことは、教会を建て伝道する為の労苦は、自分の役割であり、自分の責任であり、そしてそれはキリストの十字架の苦しみに連なるものだということなのです。自分の苦しみが、主イエスの十字架の苦しみとつながり、一つとされる。これは何という栄光でしょうか。パウロはこの栄光を知っていたのです。ですから、苦しみに打ちひしがれ、崩れ落ちることがなかったのです。
私共が、神の子とされていることの喜びにとどまり、神の僕とされていることを十分に受け取ることが出来ず、教会の為に、伝道の為に労苦することが出来ないとするならば、それは、この栄光をまだ十分に知っていないからではないのか。そう思うのです。なぜ、神様は、パウロに、そして私共に、教会に仕え、伝道の業に仕える務めを与えられたのか。それは、パウロを、そして私共を、このキリストと一つになるという栄光に与らせようとされたからなのです。キリストと一つにされる栄光。それは洗礼によって、そして聖餐によって、私共に与えられています。しかし、この栄光に与る者は、更に、苦しむことにおいてもキリストと一つにされるのです。キリストは十字架において死に、三日目によみがえりました。キリストの苦しみに与る者は、復活の栄光にも与ります。神様の御業に仕える為の苦しみは、復活の命に与る栄光、キリストと一つにされる栄光の確かな保証となるのです。苦しみは苦しみに終わらず、永遠の命の栄光へと続くのです。
26〜27節を見てみましょう。「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」本来、異邦人である私共。神様を知らず、神様から遠く、神様と敵対し、それ故、救いに与るはずがなかった私共です。それが今、主イエス・キリストの十字架と復活により、神の民とされ、神の子とされ、神の僕とされたのです。何という栄光でしょうか。この栄光に比べれば、この地上で得られる名誉などというものは、まことに取るに足りない、つまらないものでしかありません。
キリスト者であるということの栄光。天上の命につながり、天地を造られた神様の子とされる栄光。神様の最大の業、天地創造よりも大いなる業である、この世界の救済という事業。この事業に参加することが出来る栄光。それを神様は私共に与えて下さっているのです。だから、教会の為に、伝道の為に労苦することは、私共の喜びとなるのです。この喜びは、私共に与えられる栄光から生まれます。この栄光というものを知らなければなりません。信仰というものを、自分の生き方、考え方ぐらいにしか受け取っていない人は、この栄光を知りません。この栄光を知らなければ、教会の為、伝道の為に進んで労苦することは出来ないでしょう。神の僕とされていることを、喜んで受け取ることは出来ないでしょう。神の子とされている栄光。我が内に宿り給うキリストの栄光。何と輝かしいことでしょう。この土の器に過ぎない私共を、神様は「我が子よ」と呼んで下さっている。この栄光を思う時、私共は「どうぞ、この力なき愚かな私を用いて下さい。」そう言わざるを得ないではないですか。
4.伝道の労苦
教会の為、伝道の為の労苦を思います時、私は詩編126編5〜6節を思い起こすのです。私が25年前、夏期伝道の為に高知に行ったとき、当時の東京神学大学の学長であった松永先生からこの聖句だけが書かれたハガキが届きました。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」確かに、伝道というものは、労多くして実入りの少ないものです。毎週、教会学校をやって、その内何人が残るでしょうか。特別伝道集会の為に何万枚とビラを撒いて、何人が来るでしょう。来た人の内、何人が残るでしょう。しかし、「蒔かぬ種は生えぬ」です。私共はすぐに収穫を求めます。しかし、私共の為すべきことは、一生懸命、種を蒔くことではないでしょうか。その種が芽を出し、多くの実りをつけるかどうか。それは、神様の御手の中にあることでしょう。
私共の労苦は、いつも人から喜ばれるとは限らないのです。余計なことをして、そう言われるかもしれない。この世から見れば、神様の為に、教会の為に為すことは、まことに余計なことなのです。世間は少しも喜んでくれないでしょう。もっと人が喜ぶことをやりたくなるかもしれません。教会学校よりも、地域の子供会の為に労力を使った方が世間からは喜ばれるでしょう。しかし、それでは御言葉は伝わりません。私共は誰に喜ばれたいのでしょうか。人にですか。それとも神にですか。両方に。それも良いでしょう。しかし、良いですか。私共に神の子としての栄光を与えて下さる神様は、私共が忠実な僕であることを望んでおられるのです。自分の為したことが、伝道において目に見える成果を上げないとしても、神様は私共の忠実な僕としての姿をご覧下さり、栄光ある天の住まいを用意して下さるのです。ここに、私共のまなざしが向けられていなければなりません。
5.私共の日常の苦しみもまた
さて、私共の苦しみが喜びとなるのは、伝道や教会の為の苦しみに限ったことなのでしょうか。それ以外の日常的な苦しみは、苦しみのままで、少しも変わらないのでしょうか。最後にこの問題について、少し考えてみましょう。
先週の日曜日の午後、富山鹿島町教会では、「キリストの使者として」というテーマで、教会修養会を行いました。そこでお話ししたことの一つは、私共は「いつでも、どこでも、誰に対しても」キリストの使者である、ということでした。私共がキリスト者であると意識しているのは、一日の内どのくらいでしょうか。そんなに多い時間ではないでしょう。日々の生活の中で、キリスト者であるという意識は、それこそ、祈っている時ぐらいということかもしれません。しかし私共は、自分が意識している時だけキリストの使者なのではないのです。いつでも、どこでも、誰に対しても、キリストの使者なのです。とすれば、意識しない時も、キリストの香りを放ち、キリストの和解の福音を身に帯びているということが大切だということになるでしょう。意識していない時までもキリストの使者である。それは、私共が根本的に、根源的にキリスト者となっているということでしょう。どうしたら、そうなれるのか。今はそのことについて触れることは出来ません。ただ、「祈りには私共を造りかえていく変容力、変革力というものがある」とだけ、申し上げるに留めます。
私共が「いつでも、どこでも、誰に対しても」キリストの使者であるとするならば、私共が苦しんでいる時も又、私共はキリストの使者であるということになります。つまり、私共はキリストの使者として苦しんでいるということです。その苦しんでいる姿の中に、キリスト者としての香りが出てしまうということなのです。
私共は、意識してキリストを伝えようと言葉にしても、なかなか伝わらない。教会に誘っても、なかなか来てくれない。そういうことがあるでしょう。しかし、私共の何気ない日常の姿が、説得力を持ち、キリストの香りを放つということがあるのです。
とするならば、私共が病気になったり、あるいは家族が病気になってそれを看取っている、親を看護している、その姿が周りの人々にキリストを伝えていく機会ともなっているということなのです。つまり、教会の為、伝道の為に働くが故の苦しみでなくても、日常的な何の為になどということを少しも意識もしていない苦しみであったとしても、私共がキリストの使者であるならば、それは自分の周りにいる「あなたの為」の苦しみとなる。周りの「あなた」にキリストを伝える為の苦しみとなるということなのです。
苦しみは、何の為か分からない、この無意味さが私共を苦しめます。しかし、キリストの使者である私共に、無意味な苦しみなどないのです。病気に意味があるのか?病気そのものには意味はないかもしれない。しかし、その病気とどう向き合っていくのか、その姿には意味があるのです。死を超えた、永遠の命の希望を持っている者として、祈りつつ、その日その日為すべき事を為していく姿。それは、「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たして」いく、キリストの栄光を身に宿した者の姿なのであり、周りの者に生きる力と勇気とを与え、永遠の命の希望をも指し示していくことになるのではないでしょうか。
苦しみなど、ない方が良いに決まっています。しかし、私共が少しも望まなくてもやって来るとしたら、それに押しつぶされるのではなくて、それを受けとめ、逃げることなく踏みとどまり、キリストの栄光を現す者でありたいと思うのです。神様は、それが出来るように、私共に信仰を与え、栄光の希望であるキリスト・イエスを私共に宿らせて下さっているのです。私には何もありません。しかし、その何もない私に、神様は神の子としての栄光と、神の僕としての務めを与えて下さった。その神様の御心に忠実に応える歩みを、この一週も神様の御前にささげていきたいと、心から願うのであります。
[2009年8月30日夕礼拝]
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